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第4話 サヨナラの意味

柏木亮一 大学4年 やぎ座 A型


 もう、ひと月もたつのか….

 駅の待ち合わせスポットで、俺はあかねのことを思い出していた。羽根が四枚ある不思議な鳥の像があるこの場所は、あかねともよく待ち合わせた。別れてから、もう、ひと月。「ひと月」といえば短い気もするが、眠っている時間を抜かしても五百時間はある。

 そう思った瞬間、あかねが頭の中で俺を指さして『こまっかーい! みみっちーよ、そーゆーのー』と言った。俺がこういう考え方をするといつも、あかねは細かいと言って笑い、俺をからかった。明るくて、元気で、さっぱりとした性格。そこに魅かれて一年と少し付き合ったけれど…。

「別れた」…それはもちろん、デートをしないとか電話をかけないとか、それだけの意味じゃない。でも、嫌いになったわけでもなく、嫌われたわけでもなく、ただ恋人という肩書きが消えただけで、なにか、あまり変わっていないような気がする。

 隣に立っていた女の子の待ち人がやってきた。

「待った?」

「ううん、今来たとこ」

 ものすごく月並みな会話を耳に感じながら、俺は時計をちらっと見た。でも、時計の針をというよりは、小さく表示された日付の方を確かめていた。

 こうしてここに立っていると、あかねと待ち合わせをしているような気がするくらいに、俺の中ではこのひと月の重みがない。今にもあかねが「ゴメーン」とやってきて、「おしゃれして遅れた女の子を怒っちゃダメよ? ねっ、ねっ」とおどけた上目遣いで俺を見るような気がする。

 なんでもないきっかけであかねを思い出す。例えば、俺は人と並んで歩く時にあまり隣の人に視線を送らない。これは多分、くせなんだろうと思うけれど、あかねはそれが気に食わなかったらしい。せっかく並んで歩いて話をしているのだから、まっすぐ前だけを向いていないで、時々は自分の方を見てほしいらしかった。

『りょーセンパーイ、そんなに私のカオ見るの、イヤっすかー??』

 あかねはそう言って、ものすごくむくれて俺をにらむ。だから俺は、それからしばらくはあかねを時折見ながら歩くように気をつける。

 誰かと並んで歩いている時に、隣の人を時々は見るように努力していることがある。あかねと別れてひと月たった今も、時々そんな自分に気付く。他の誰にも、顔を見てくれないなんて責められたことなんかないっていうのに。誰かと過ごした一年はそう簡単に消えはしない。例えば学食の日替わり定食があかねの好きなメニューだったとか、テレビであかねの好きな俳優が出ていたとか、そんなとてもささいなことでいちいちあかねを思い出している。

 だったらどうして、あかねと別れたのか…。

 そう、別れる必要はなかったと思う。でも、俺は自分を定義してしまっているものをできるだけ外したかった。就職が決まってしまい、ある程度人生にレールが引かれたのを感じたとき、このまま惰性のようにただ就職して、あかねと歩いていく自分の背中が見えた。俺は理系でちょっと几帳面で、人と話すのはあまりうまくない。あかねは文系でおおらかで人づきあいがうまい。似たもの同士だったら反発したかもしれないけれど、お互いに静と動、陰と陽で、人種が違うと思えば寛容にもなれたし、ぶつかることはあまりなかった。多分、そう問題なくこのまま付き合い続けることはできたと思う。

 だから…あえて別れた。我ながら可愛げないとは思うけれど、二十一歳やそこらの恋愛で人生は決められない。そして、人生が決まったような気になってしまう自分の閉塞感が嫌だった。

 最後のデートであかねは泣かなかった。でも必死で耐えていたのは知っている。可哀想だとは思ったけれど、あかねだってまだ十九歳で、俺だけが人生じゃないだろう。

 身勝手だと自分自身思ったけれど、あるいはあかねを人生の伴侶とまでは思えなかっただけなのかもしれない。たとえ平坦でつまらない道でも、あかねと一緒にいる果てしない平和という退屈が俺にとってのベストだと思えるなら、別れることはしなかったのかもしれない。

 あかねの最後の横顔が時折俺を苛む。どうしてそんな思いをさせて無駄な波風を立てたのか。あかねの心に深い傷を残してあと四ヶ月あまりの大学生活を終えるのが、本当に正しい選択だったのか…。

 でも、社会に出る前に、大学生のうちに、自分を思いっきり自由にしてみたかった。あかねが重荷だったわけでもないし、束縛だったわけでもない。あかねは俺に何かを押し付けたり、過剰な要求をしたりすることはなかった。でも、誰かと恋人同士だということはどうしても自分自身を定義したし、ある種の責任のようなものが常に自分の考え方を規定してしまう。

 この、最後の四か月と少しの時期を、何にも縛られずに好きなように過ごしてみたかっただけだ。もう永遠に戻ってこない学生時代だから…。

 考えていると、なんだか言い訳がましくなってくる。一体誰に言い訳をしているんだろう。自分自身か、それともあかねに対してか…。


 もう一度時計を見ると、待ち合わせの時刻を十五分過ぎていた。急に現実に引き戻された。待ち合わせの相手に何かあったんじゃないかという気がしてきた。俺はもう一度時計を見て時刻を確認して、それから駅の中を遠くまで見渡した。日曜日の昼過ぎはあまりにたくさんの人が行き交っていて、自分もその一員のくせに「こんな混んだ日に、よく出かける気になるな」なんてことを考えた。

 一瞬、見間違いかと思って目をこらした。駅の中の、とても、とても遠くに、見慣れた顔が見えた。見間違いではなく、本当に偶然だけれど、ずっと向こうをあかねが歩いていた。こんな駅の雑踏の中で、こんなに離れていても、たくさんの顔の中から一瞬であかねを見分けた自分をすごいと思った。一年間、待ち合わせのたびにあかねの姿を探したから、離れていても、人ごみに埋もれていても、あかねの姿だけは浮き上がるみたいに瞳の奥に飛び込んでくる。それが側にいたということ、一緒にいたということ…。なんだかまた、あかねと待ち合わせていたような錯覚に陥った。

 あかねの姿が少し近づいた時、隣に北村がいるのに気付いた。あいつらはサークルでも案外仲が良かったな――と思った瞬間、氷のような冷たい痺れが体を走った。

 そういえば、俺があかねと別れてから、北村の態度がどことなく前と違っていたような気がする。それは時折俺に対する敵対心のように感じられたりもした。つまりそれはそういうことだったんだと、今初めて気がついた。

 北村はポケットに手を入れていて、脇にあかねの腕を挟んでいた。あかねはギュッと自分の掌を握っていて、おおよそ仲良く腕を組んでいるという感じではない。でも、今までの、俺が知っている二人なら、そういう冗談はしないだろう。あかねはちょっと憮然としていて、北村はニコニコしていた。

 …あかね…。

 届かない声で、俺はあかねを呼んだ。でも、はるか遠くのあかねは俺に気付かずに、駅の反対に向かう通路の方に消えていった。

 呆然としている自分が可笑しかった。そしてさっきまで考えていたことを繰り返した。

 もう、ひと月もたつのか…。

「別れた」…それはもちろん、デートをしないとか電話をかけないとか、それだけの意味じゃない。

 何も考えられなくて、ただその言葉をひたすら繰り返した。俺はあかねに、今さら一体何を期待していたんだろう。自分で別れておいて、どうしてひと月たったことに気付かないでいたんだろう。そう、五百時間も何かを考えつづけていれば、何かは変わる。北村とあかねが今、どういう関係を築いているのかはわからないけれど、きっとあかねは歩き始めている…。

 混乱から出られないまま立ち尽くしていると、背後から、

「柏木さん!」

 と俺の名を呼ぶ声がした。

 振り返ると、息を切らせた女の子が立っていた。園原京子、生物学科の四年生。たまたま彼女が友達の付き添いで俺たちの研究室に来た時に、ちょっとした事故で知り合った。それがほんの二週間前。

「ゴメンなさい、遅くなって…。でも、あの、今さっきまで中央線が止まってて、あの、その、とにかく…」

 一生懸命言い訳をする彼女に、俺は静かに微笑みを向けた。

「…いいよ、そんなの」

 どっちかというとあかねと反対の、ちょっと内向的そうな可愛らしいタイプの子。あかねはミニスカートかジーンズが好きだったが、園原さんはロングのフレアースカートが似合う。静、陰、優しい花のような、守りたいタイプの女の子…。

 あかねの姿はもう見えなくなっていた。それでも俺は、あかねの背中に向かって語りかけた。

 やっと、自分が告げた「サヨナラ」という言葉の意味がわかったよ、あかね。

 俺の中で、そしておまえの中で、確実に過ぎたひと月と、これから過ぎていく年月と…。

「あの、柏木さん」

 あかねと違う声が俺を現実に引き戻した。

「あの…怒ってます?」

 困ったような顔でうつむいている園原さんが目の前にいた。彼女はあかねじゃないし、あかねの隣にいるのはもう俺じゃない。それが現実。それが、現在。

「怒ってないよ。さっき、知り合いが通ったから、ちょっと気になっただけだよ」

 俺が歩き始めると、彼女ははにかんだように微笑みをたたえて小走りについてきた。

「始まっちゃったかもしれないですね、映画」

「大丈夫だよ、間に合わなかったら、その次の回を待とうよ」

 少しゆっくりと俺は歩いていた。あかねと並んで歩く時とは違う。あかねがきっと「カップルどもはトロくて邪魔」と文句を言うペース。でもそれが今の俺に求められているペースだから…。

 まだ、何も始まっていない。けれど、遠からずこの子と腕を組んで歩く日が来るかもしれない。

 俺ははるか彼方のあかねの背中に向かってそっとつぶやいた。

 さよなら、あかね…。

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