第5話 心のドア
園原京子 大学四年 おひつじ座 A型
待ち合わせの場所には一面に「バレンタインセール」のシールが貼ってあった。私は、びっくりして周りを見回した。でも「バレンタイン」と書いてない壁はどこにもなかった。 仕方なく、ショーウィンドーの前に立った。でも、耐えきれずにちょっとレンガを模した壁の方にずれた。それでも、バレンタインの文字はどうにも隠しようがなくて、私は絶望した。
やっぱり、そろそろハッキリしないといけないと思う。
だって、バレンタインデーに何もあげなかったら、「何とも思ってません」っていう意思表示に見えてしまうから。ホントに、誰なんだろう。バレンタインデーなんて考えたの。 待ち合わせにやってきて、私の周りにこんなに「バレンタイン」の文字が散っていたら、柏木さんだって何か考えずにはいられないだろう。そして、私が柏木さんのことをどう思っているのか考えてしまうだろう。そんな思わせぶりな季節が、今の私にはとても困る。バレンタインデーはもう半月後に迫っていた。
柏木さんと時々週末に待ち合わせて並んで歩くようになって、もう三ヶ月ちかくもたつ。他の誰かではなく、私を何度も誘ってくれるのは、なにか…そういう気持ちがあると思いたい。けれど、二人の距離は少しも変わらない。ただ一緒に過ごして、静かに側にいて、そして次の約束もしないで帰る。時折メールをやりとりして、その中でいつの間にか次の約束が出来上がる。たったそれだけ。なぜか二人で会っているだけ。どういう関係とか、お互いにどういう感情を抱いているとか、そんなことは全くわからないまま…。
ぼんやりしていたら、待ち合わせの時間まであと少しになった。私は慌てて手袋を外す。だって、わずかな期待が捨てられないから…。
そういうタイプの人じゃないってことは百も承知なのに、もし突然手なんか握ってくれたらと思うと、手袋なんかしていられない。ううん、絶対にそんなことないとわかってはいるけれど、でも…もしも、もしも、万が一、ううん、億にひとつでも、…。
小さなカバンの中に無理やり手袋を詰め込んで、お財布とハンカチで蓋をする。夕方、じゃあね、と別れたらまた取り出す。どんなに手が冷たくなっても、柏木さんといる時には手袋をしていられない。
バカみたいだな、と思う。一度だってそんなこと、ないのに。だけど今日も、やっぱり手袋を仕舞う。
遠目に柏木さんが見えた。背が高いからちょっと目立つ。パッと見地味なんだけれど、よく見るとかなりカッコいい。なんでもない黒のロングコートがものすごく映える。凝ったおしゃれなんかちっともしていないのに、モデルみたいに決まって見える。多分スタイルがいいんだと思う。脚も長いし。
私を見つけても、ちょっと視線を止めるだけで表情ひとつ変えない。クールでいつも冷静。そして、すっごく頭がいい。話をしてるとすぐにわかる。研究室の友達が言っていたけど、教授も一目置いてるらしい。院に残れとさんざん言われたのに、さっさと就職してしまったとか。マイペースなのかなとも思ったけど、でも、実は結構気を遣うタイプみたい。自分のことに関してだけはガンコなんじゃないかと思う。ときどき、そう感じる。
そして、私たちはいつものように並んで歩きだす。この前、テレビで柏木さんたちの研究が取り上げられていた。もちろんテレビでしゃべっていたのは教授だけど、その後ろで白衣を着て黙々と粉を混ぜている柏木さんがとても素敵だった。
「見ましたよ、テレビ。すごい発見だったんですね」
「…うん、常温超電導の革新までは行かなかったけど、結構新しい発見だったからね。もっと温度を常温に近づけたいんだけど」
「なんか…難しそうですね、超電導なんて」
「いや…結局は、金属の混合比率の問題だから。そう言ったらみもふたもないけど」
「でも、世界中の人が無数に研究している中から未知のものを探し出すなんて、大変じゃないですか?」
「うん、まあ、今回みたいなのは完全にゼロからの発見だけど、一応、混合率を少しずつ変えていくと法則性みたいなものが見えて来るから…。俺にしてみれば、園原さんの生物学の方が難しそうだけどね。物質は性質が不変だけど、生物は固体の要素が大きすぎる気がして」
「あ、でも、私がやってる研究では、アミノ酸だとか生体内部の成分の化学変化だとか、化学式ばっかりいじってますよ。結構、化学に近い気がします」
他愛ない会話…。そして、恋人同士の会話では、絶対に、ない。
広い公園に入った。ここを通り抜けて、その先に科学博物館がある。今日のデートは映画、だけど普通の映画じゃない。化石の中から発見された微小な古代生物を研究する、そいう映画が科学博物館で上映される。この前会ったときにはプラネタリウムを見て、それから延々と宇宙と空間の概念についての討論をした。今日はきっと、自然環境の激変と生物の生存率とか、放射線による化石の時代検証の確実性とか、そういう会話をするのだろう。
ちょっと消沈したので、自分の中で話題を変えてみることにした。実はこの頃ちょっと気になっていることがあって、今日、やっぱり相変わらずだったから聞いてみる。
「あの、柏木さん」
そう、こんな風に声をかけても、ちっとも私のほうに視線を向けてくれない。
「クセなんですか? こんな風に歩いてて、私のほうとか…全然見ないですよね」
別に、だからなんだとか…どうしてほしいとかいうわけじゃないけれど、柏木さんの見ている世界の中に私がいるのかどうか、時々不安になることがある。柏木さんが見ているのは全然別の、はるか先にあるもので…私はどうしてここにいるんだろう、なんて…。
柏木さんは何かを思い出したみたいに突然くすっと笑った。私の言葉に反応したというよりは、何か違うことを考える間があったと思う。そして彼は、目を伏せるようにして笑うと、
「女の子って、…みんな、変なとこばっか気にするんだね」
と言った。私の心の中に、真っ暗で冷たくて重いかたまりが落ちてきた。
他にも同じことを気にした女の子がいる。柏木さんの視線が欲しい気持ちで一緒に歩く人が、他にいるんだ。
私は言葉を失って、つらい胸の痛みを抱えたまま柏木さんの隣を歩き続けた。会話が途切れても、柏木さんは私の心の痛みなんてちっとも気付かないみたいだった。
私が黙った途端、会話がなくなる。私が口を開くまで、柏木さんはいつまでも黙っている。話す内容は研究のことや授業のことばかり…。
柏木さん、私たちって、一体、何なんですか?
本当は、彼女がいるって噂も聞いたことがある。けれど、聞かなかったふりをして何も知らないままこうして会いに来ている。私って、何なんだろう。友達? 知り合い? だったら、どうして誘ってくれるんだろう。もうすぐお互いに大学を卒業する。そうしたらなんとなく連絡もとらなくなって、そのまま消えてしまうんだろうか…。
もしかして、バレンタインデーに気持ちを伝えたら、びっくりされてしまうのかもしれない。そんなつもりなんかなかったのにって。そう、ただの、私一人の勘違いなのかもしれない。
カラカラと音を立てて足元を落ち葉が転がっていった。手袋を外して凍えた指先も、風が吹き抜けていく胸の中も寒かった。
このまま私が立ち止まって消えてしまっても、柏木さんは気付かずに歩き続けるのかもしれない。そして、それでも構わないのかもしれない。
…その時、突風が私たちをあおった。髪を揺らして、柏木さんのマフラーを私に届くほど流して、冷たくて強い風に思わず少し身をかがめて目をつぶった。柏木さんのロングコートのすそが私の膝を叩くみたいにまくれて、それから戻っていった。
風がやんで、次の一歩を踏み出した時、ちょうど柏木さんのコートのすそが彼の脚で跳ね返って私の脚に当たった。そして、また振り子みたいに私の脚で跳ね返り、柏木さんの脚で跳ね返った。ぱた、ぱた、そうやって何度も、コートのすそが私を叩いた。少しだけ強く、だけど優しさを感じる強さ。
歩くたびに、コートのすそが私に当たる。なんだか気持ち良かった。一緒に歩いているペースのメトロノーム。
ぱた、ぱた、ぱた、
ぱた、ぱた、ぱた…
何回当たるか、ひとつひとつ、数えてみたりして…
ぱた、ぱた、ぱた、
ぱた、ぱた、ぱた…
不思議な温かさが私の心にゆっくりと広がった。そう、気付けばこうやって、歩くテンポも、歩幅も、おんなじになっている。コートのノックが止まらないのは、柏木さんが跳ね上げるすそを、私が同じタイミングで跳ね返すから。自然に、とっても自然に、おんなじリズムを刻んでいるから。
私は、ドキドキしながら目を閉じた。
柏木さん、どうしてこのままでいるの?
コートのすそが私に当たってるの、気付かないはずないですよね…
ぱた、ぱた、ぱた、
ぱた、ぱた、ぱた…
他の誰と歩いていたって、こんな風にコートのすそが当たったことはない。だって、そんなに近い位置に立って歩かないから。もし当たっても、気を遣ってすぐに離れるから。
柏木さんは私との距離を広げようとも、コートのすそを押さえようともしない。
会話は途切れたまま、コートのノックだけが続いている。無理やり会話を続けることはないのかもしれない。こうして一緒に歩いている、そのことだけで、確かに私たちは一緒にいる。コートのすそがぶつかるような距離で、そして気を遣って離れたりもせずに、自然にこのままの距離を保って…。
それはとっても不思議な感覚だった。不安で一杯だった私の心に、柏木さんの心のノックが響く。ぱたぱた、ぱたぱた…優しく、少しだけ強く、そして継続的に…。
この時、心から感じていた。私たちの中で、すでに、何かが始まりつつあることを。
そしてなんだか、この人と、もしかしたらこうしてずっと、一緒に歩いていくんじゃないかという不思議な予感が広がった。




