何でもできる兄が危険になる瞬間
真由紀。真由紀……真由紀ぃ。
黒いつややかな美しい髪は肩に掛からない程度のボブ。
まーるい大きな瞳は茶色の透明感のある光を放つ。
そして俺を太陽のごとく照らし出す暖かな微笑み。
この世界の中で、お前が一番可愛いぞ、真由紀……。
授業中。
遥幸はひとり――ブツブツを呟いていた。
それも隣には確実に届くほどの音声で。
ブツブツ。ブツブツ。ブツブツブツブツ物………。
隣近所の生徒たちは五十分間の悪夢を見ていたに違いない。
「真由紀……可愛いぞ、真由紀……」
誰もツッコミを入れられない。怖い、怖すぎる。
近寄りがたいイケメンが、近寄りがたい危険人物と化そうとは。
その異様な雰囲気は、授業を進める教師にも伝わらないわけがない。
だが。学年一の秀才の変貌に、教師もまた――戦慄していた。
◆◆◆
チャイムを合図に、遥幸の姿は教室から消えた。
そして誰も彼の行動の見て見ぬ振りを決め込んだ。「触らぬが~」というやつである。
それから一日かけて、遥幸は一年B組のことを調べ上げた。
というよりも、自分のファンを使えばなんてことはない。
初めて彼女たちが役にたつと思えた瞬間でもあった。
真由紀には、今三人の男子が親しくしているという。
一人はあの藤崎剛。彼が一番親しげだという。
あと二人。
これは藤崎の友達らしいのだが、傍から見ていると、真由紀にそれなりの感情を抱いているのでは?と思わせる接し方だという。
恐らくは真由紀の可愛らしい顔と素敵な性格に惹かれ集まってきた虫どもだ。
いや。あいつらは蝿だ。可憐な一厘の美しいバラに間違えてやってきた蝿なんだ。
けして蜜蜂などではない。蝿には蝿だということを、教えてやらねばならない。
そこまで考えが纏まると、その後の遥幸の行動は早かった。
◆◆◆
「……お、お兄ちゃん……また?」
「いや。どうしてるかなって思ったんだ。大丈夫ならそれでいい」
遥幸は息を切らしながら、二階の自分の教室を飛び出し、十分の休憩ごとに真由紀のいる教室に顔を出した。
そのたび用などあるわけがない。ただ真由紀に会うためだけである。
移動教室であろうと、真由紀の予定は調べ上げている。
その通路、通路で真由紀の視線に入る位置を把握し、軽やかに手を振って真由紀を送り出す。
その姿はもはやただの『ストーカー』であった。
それが真由紀にとって、一番のストレスになっていることを遥幸はわかっていない。
たしかにそんな異常な兄を持つ真由紀に、藤崎も最近はあまり声をかけてこなくなった。
遥幸が教室に顔を見せても、どちらかと言えば、真由紀に対する同情と哀れみの視線が突き刺さるようになってきた。
別な意味で、遥幸は真由紀に群がる男どもを撃退することに成功はしたのだが――。
「お兄ちゃんっ。もういい加減にしてっ!!」
そんなことを一ヶ月ほど続けたある日。
遥幸はとうとう愛する真由紀から怒られた。
「いや……そんなつもりは」
どんなつもりだ。と問いただしたいが、真由紀はただじっと睨みつけていた。
「……ご、ごめん」
「もう……私は大丈夫だって言ってるのに」
真由紀も真由紀で、こんな兄の奇行を一ヶ月に渡り放置しつづけるだけの天然さは大した物だろうが、完全に兄の目的を取り違えているのも、こんな遥幸の妹というだけはあろうか。
「でも心配してくれてありがとう、お兄ちゃん。大好きよ」
「……真由紀……」
こんな妹で、遥幸は助かったと言えるだろう。だが――。
ああ、真由紀。お前は本当に可愛い――。
こんな真由紀をあんな男どもの中に放置しておくなんて……俺には耐えられない。
どうすればいいんだ……。
妹のとろけるような微笑み、自分がとろけそうになりながら、ますます妹への心配を募らせていた。
もはや修正不可能な世界であった。
◆◆◆
この後。
遥幸のストーカー行為は規模を縮小され、落ち着きを取り戻したが――。
このことが教訓となり、遥幸の奇行は伝説化され、真由紀の周りには卒業まで男子生徒がほとんど言い寄ることはなかったという。
だがこれより数年後、卒業した真由紀は藤崎と同じ大学で再会。
それを機に、二人が付き合いのちに結婚を意識する交際へと発展することになる。
そんなことはあとの事。
遥幸は高校時代は愛する妹を独占することには、まず成功したと言えよう――。