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樹の、落ちる空に  作者: (せ)
12/26

2.8

 海までの車のなかはとても賑やかだった。

 春樹が会社の大きなワゴン車を借りてきてくれたおかげで、大人二人と子供三人、それとビーチパラソルやらバーベキューセットやらのかさばる物も余裕で車に乗れたのだった。

 車内には春樹お気に入りのジャズロックが途切れず流れていた。後部座席の幸、隼太くん、沙奈ちゃんは、海までずっとわいわい話をしていた。

 春樹は運転をしながら音楽にあわせて節を鼻歌で追い、わたしはそのとなりで、もの珍しいカーナビをいじくって遊んでいた。あのとき道際に茂っていた、青葉の鮮烈な色彩が、いまも胸に残っている。

 朝早く出発したのが幸いして、海には午前中のうちに到着した。みんな気持ちが高ぶっていて、長時間の車移動も苦ではなかった。

「ぼくは一度旅館に行って手続きと荷物おろしをしてくるから、詩織たちは遊んでていいよ」

 春樹の言葉に甘えて、わたしたちはひとあし先に浜に降りたった。

「バーベキューするんだから、絶対お昼までにはもどってきてね」

 砂浜から手を振ったわたしに、春樹は運転席の窓から恰好つけて手をかざし応えた。

「姉ちゃん、泳いで来るね!」

 春樹の案で、服のなかに水着を着てきたのは大正解だった。幸たちはもう水着になって準備万端整えている。

「気をつけてね」

 幸と隼太くんは元気よく海に向かっていく。

「詩織さんは海に入らないんですか」

「うん。おじさんが来てからにしようと思って。沙奈ちゃんも楽しんでらっしゃい」

 沙奈ちゃんは「はい」と言って二人を追いかけていった。

 年ごろだし男の子ふたりと海で遊ぶなんていやかな、と思っていたが、どうやらその心配もないらしくほっと安堵の息をつく。

 夏休みの初日で、しかも快晴なのにもかかわらず、この穴場は地元のひとらしき若者たちがまばらにいるだけだ。

 ビニールシートに寝ころんで、春樹が来るまでのあいだは日光浴を楽しむと決めた。

 これから幸がもっと大きくなったら、こうやって遊びにくることもなくなるのだろう。寂しいけど、だからこそ春樹という最高のパートナーが見つかってよかった。

 この日は、太陽がすごく近くて、パラソルとまぶたを突きぬける炎陽のまぶしさに、目を瞑っていてもめまいがしそうになった。

 日和にうとうとしはじめたころだ。

 突然、目の前が闇に覆われる。

「詩織さんっ、大変です!」

 陽ざしを遮ったのは血相を変えた沙奈ちゃんだった。

「幸が深みにはまったんですっ」

 それから先はあまり記憶に残っていない。

 なにが起きたのか、わけもわからないまま数日間が過ぎて、そのあいだに両親が病院に来たり、幸を助けてくれた青年たちにお礼を言ったり、隼太くんと沙奈ちゃんが何度も幸のお見舞いに来てくれたり、いろいろあったらしい。

 幸の意識は二日で回復したのだが、わたしのことも両親のこともなにもかもが思いだせなかったのだという。

 さいわいにも後遺症が残るような脳の損傷は認められず、記憶喪失も一時的なものだとお医者様が言っていたと、あとで聞かされた。

 入院から二週間が経つころには、幸はすでに完治したといっていい状態にまで回復していた。隼太くんは毎日お見舞いにきてくれて、おかげで幸は暇せずにすんでいた。

 本当だったら受験勉強に専念する大切な時期なのに。因果を辿ればわたしに行きあたる。海に連れていかなければよかったと、ひどく後悔した。

「毎日つきっきりでからだは平気なの? しーちゃんだってこの前までは目もあてられないありさまだったのよ」

「大丈夫よ、お母さん」

 母の顔もやつれていた。

「幸もだいぶ、よくなったんだから。無理してはだめよ」

「うん」

 もう元気に会話もできているし、そろそろ退院できるそうだ。

「だけど」

 わたしのことだけ、記憶に変化が生じていた。

 わたしは、この仕事に就いたときにたくさんの本を読んで勉強したことを整理して、考えに考えつくした。

 考えぬいたあげく達した結論は、記憶がもどっていく過程で、それを機に記憶の一片を自分の都合のよいものに変化させてしまったというものだ。でも、わたしが恋人になって、幸は何か得をする?なにも、ない。と、結果、思索は暗礁に乗りあげ、まとまらなかった。だが、まずは幸の退院をと、とりあえずの幸への接し方を両親と春樹に提案したのだった。

「いまは、わたしが姉だという事実を無理矢理に押しつけても理解してもらえないわ」

 春樹は、うんうん、と聞いていたが、両親を言いふくめるのには相当の時間がかかった。

「それじゃあ、しーちゃんはあなたのお姉ちゃんよ、って教えてあげられないの?」

「いくらそう言ったところで、幸は納得できないと思うわ。表面はわたしを姉として接していても、胸に納得できない疑問として抱えこむことになるの」

「だからといって、なにもしないわけにもいかないだろう。偉い精神科の先生に診てもらったほうがいいんじゃないのか」

 父は語調を強めたが、わたしがなんとかしてあげたかったのだ。

「わたしだって心理カウンセラーなのよ。それに、全然知らない人になんてまかせられないわ」

 幸にあわせて、わたしと幸は恋人だとして接してあげて、とこの考えを発表すると、三人とも予期せぬ提案に驚き、あっけにとられていた。

 どうしてそのような記憶の変化が起こったのか、いまははっきりしない。だが、その根本を見いだして解決しないことにはどうしようもないのだ。それまでは幸にありのまま言うのはよしておこう。

 両親を説得したあと病室にいくと、幸は笑顔で迎い入れてくれた。

「幸、あした退院できるわよ」

 わたしの恋人は、にぃ、と笑った。

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