2.7
前の日にどんなことがあっても朝がくるとすべてリセットされる、春樹はそんな気持ちのいい性格だ。
「おはよう、詩織」
「おはよう。きのうはごめんね」
短い会話ではあったが、お互いが蟠りのないことを確認するに足りないものではなかった。
水を飲みに流しにむかう。
コップに水を汲んでいると、春樹がキッチンにやってきた。
「きのうは本当ごめんね。嫌な夢みたから春樹にあたっちゃって」
銀の水面に口をつけ、それを一気に飲みほした。
「いいんだよ。ぼくだって感傷的になることはあるし、そういうときに支えあうのが夫婦なんだから」
ありがとう、春樹。
「きょうは病院に行くんだったね」
「うん。仕事は午前中だけで、午後は暇をもらったわ」
病院には隔週で水曜日に訪れている。先生は、もっと通う頻度をさげてもまったく問題はない、と言ってくれたが、どうしても状態が気になってしまうのだ。
「まだ、ご両親には伝えてないだろ。せっかく実家に行ったんだから、きのうあたり言ってもよかったんじゃないかな」
「ええ。でも」
「状態は良好なんだよね」
「うん」
でも、せっかく授かった赤ちゃんなのだから、みんなに喜んでほしい。両親は大喜びしてくれるだろうが、いまの幸に伝えるすべはない。
「やっぱり、このままでは変化がないわよね」春樹を正視する。
「幸くんのこと?」
「うん」
いつか自然に、わたしが姉であると認識するのを待つのが一番だと考えていたが、その判断は誤っていたと思い知らされていた。
「あのね、来月末に東京から新しい人がセンターに来るんだって。その人に相談してみようかな」
わたしが勤めるのは民間のカウンセリングセンターで、とても小さなところだ。だから人が入ってくるなんて滅多にない。
「その人ね、なんでも東京の大学でずっと心理の研究をしてきてて、外国まで行って研究の発表をすることもあるだって。いまも大きなところで働きながら、わたしたちにはとっても理解できないようなすごいことを研究しているそうよ」
「そんな人が来るなんて心強いじゃないか」
そう春樹は言ったが、眼に疑心がみえる。
「どうしたの、春樹」
「いや」
春樹はなにかを言いためらっている。
「隠すなんてよくないわ」
詰め寄ると、言葉を出しづらそうに目線を斜め下に遠ざけた。
「なんていうか、すごい人みたいだけど、小さなセンターに追いやられるなんて、なにか妙なことをした人じゃないかと思ってさ」
べつに詩織の働いているところが悪いっていうんじゃないよ、と終わりに付けくわえた。
「取り越し苦労よ」
その人はいまの仕事を辞めて、わざわざ希望してうちのセンターに来るというのだ。
この特異な申し入れに、センター長の男だてらに大きな目が、さらに大きく見開かれたかと想像するとおかしくなる。
「だから、ね。こんなチャンスないでしょ」
つっかえるものがなくなったようなふりをして「その人が来るのが待ち遠しいね」と春樹は笑顔でリビングにもどっていった。
春樹は変なことに気を揉みすぎだと思う。




