2.6
昼間の、ものやわらかな太陽光の明るさと、夜の人工的な蛍光灯の明るさは全然違っていて、でもわたしはそのどちらが好きということもなかった。目を瞑っていても異様な明るさが角膜を貫く居間の照明には、とくに昼寝明け、漠然とした心地よさを感じる。
「そろそろ起こしてあげたほうがいいんじゃないかしら」
台所の方から母の声がした。
「でも、せっかくよく寝てるのに」
まだうす明るい夢現にあるわたしのすぐそばで幸が言った。
「そんなこと言っても、もうご飯だもの。いいかげん起きないと帰れなくなっちゃうじゃないの。しーちゃんが困るのよ」
うす目を開けると、春樹が父とテレビを見ながらなにか話しているのが見えた。
だれかが気をきかせて頭の下に挟み込んでくれた座布団が柔らかい。
「詩織」
狭い視界が遮られ、なにかに触れられた服と二の腕がこすれた。
「もう七時になるよ」
その幸の声はあまりに小さくて、起こそうとしているのか起こすまいとしているのか、わからなかった。
「ほら、声をかけても起きないよ。熟睡してるんだって」
「しょうがないわね」
部屋に母の気配が入ってきた。
「じゃあ、もう少しだけ寝かせてあげましょう。お父さんが飲ませるから悪いのよ」
ちゃぶ台に食器類の乗せられる音が聞こえる。もう夕飯の準備ができたのだろう。母の気配はまた台所へ消えていった。
相変わらず視界に被さっているのは幸らしいことがわかった。
幸は身動ぎもせずにずっと同じ状態でいる。テレビにでも見入っているのだろう。
幸がおとなしい性格なのは前からだが、それでも小学生のころは休みになると外で友達とボールを蹴っていたし、地区の少年野球にも参加していた。
とはいっても、あのころはうちにテレビゲームとかの凝った室内用玩具もなかったから、男の子からすれば外で遊んでいたほうが楽しかったろうし、少年野球も子供会の不文律でなかば強制的に参加させられていただけなわけだから、縛りがなくなったいま、やっと本来の生き方をしているといわれればそれまでだ。
当時の幸はとにかく無防備で、思春期特有の、家族に対する構えた態度というものが一切なかった。
寝室もいっしょだったから、よく幸の寝顔を見ては心をなごませていた。だが成長の早さというのは思いもよらないもので、まさかものの数年で、それさえ難しくなるとはまったく予想だにしなかった。
だからこそ、悪い考えと理解しながら実感してしまっている。恋人になってくれたおかげで、反抗期まっ直中だったはずの幸と、また気詰まりのない家族の関係になれた喜びを。
わたしの部屋にいる幸は、ありし日のままのあどけない顔つきをしている。わたしが帰宅しても気づかずに、座ったままうたた寝しているのだ。ときどき、風に揺らされた前髪がおでこにかゆいらしく、目を閉じたまま、にぃ、と笑う。
この幻のような不定の日々も、一時なのだろう。
今後、たとえ幼い日の無邪気さはもどらなかったとしても、姉としては、ぜひ隼太くんのような、活発な男子になってほしいと願ってやまない。
そういえば、隼太くんはもう帰ったのかな。
帰る前にこの部屋に寄っていたら、幸の友達にまで酔い臥している姿を見られたということになる。
情けない。
「幸、おかず持っていくの手伝って」
ふいに母の声が耳に入る。
そうだ、わたしったら、なにしてるんだろう。
夕食の準備だ!
「手伝うっ」と急に上半身を起こしたものだから、目の前にいた幸はそれは驚いた顔をした。
その表情と、まぶしい部屋の明かりに一瞬目をすぼめた。
ずっと背をむけてテレビを見ていると思っていた幸は、わたしの方を向いていたのだ。
「ごめん、寝ちゃってた」
春樹と父もこちらを見て、大丈夫か、ときいてくる。
「大丈夫?」
ひときわ心配そうにしずしず尋ねる幸に、幼いころの愛嬌が垣間見えてうれしくなった。
「うん、もう大丈夫。心配かけてごめん」
気分は悪くない。
泣いたあとに残る気怠さのようなものが、少し身体に乗っかっているだけみたいだ。
「あら、目を覚ましたのね」
おかずをお盆に乗せた母が居間に入ってきた。
「ごめん、いま手伝うから」
「これで最後だからいいのよ。それより、気持ち悪くないの?」
「うん」
度数の高いお酒だったが、それほど量は飲んでいなかったから、たんに昼の陽気が重なって寝てしまったのだと思う。
心配をかけたのは申し訳なかったが、わたしの昼寝のおかげで、思いがけず母の作った夕食を食べて帰れることになったのはラッキーだった。献立も、薄味のサラダに白身魚と、春樹でも食べられるラインナップだったのでとても助かった。
とりとめのない話をしていると時間はあっという間に過ぎるもので、帰りは十時をまわったころになった。
「またいつでも来なさいよ」
帰り際の寂しそうな母の見送りにはいつも、もの悲しくなってしまう。思わず、さっきみた久々の悪夢が胸をよぎる。
「うん、また来るから。じゃあね、おやすみ」
名残惜しそうな母に別れを告げて、長い夜に春樹と手を繋いで入る。外はそぞろ寒い。
「詩織は泊まってきてもよかったんだよ」
「ありがとう。でもあしたから仕事があるからそうもいかないわ」
ぽつりぽつりと灯る街灯のとび石を、いくつも春樹と一緒にわたっていく。わたしたちは夫婦なのだから、これから先もずっと一緒のはずだ。
「わたし、春樹のこと愛してるわよ」
どうしたの急に、と春樹は立ち止まった。
「どうして止まるの」
にわかに不安が沸き起こる。
「わたしたち、夫婦なんだから」
息が詰まりかすれ声になる。
「ずっと一緒に歩いて行くんじゃないの?」
春樹の胸に抱きついてぐっと涙を堪える。
「それなのに、どうして止まるのっ」
どうして春樹を責めているんだろう。
空気が冷たくて春樹のにおいもわからない。
だけど不安で不安で、ついに涙が溢れてしまう。
「ぼくも愛してるよ」春樹の力強い腕がわたしを包みこむ。
悪いのは、みんなわたしなのに。
春樹を愛していないかもしれないのに。
「ずっと一緒だよ」
それなのに、こんなに優しい。
「わたしが春樹を愛していなかったとしても、それでもずっと一緒にいてくれるの?」
わたしは、春樹にとんでもないことをきいてしまった。
でも春樹は、うん、とだけ言って、うなされていた過去の日に退行したわたしを絹のように受けとめた。
それは、しなやかでとても優しかった。
「きょうの春樹は夢のなかと同じことばかりしてるわ」
胸に身体を預けたまま、そっと仰ぎ見ても表情は見えなかったが、春樹はただわたしを抱きしめてくれていた。
深い空にかかる鏡が、わたしたちを映している。




