影Ⅰ
――いつも通り。
廃屋。曇天の朝の明かりの下、惰性で続けている作業のために机に向かっていた。
ラファが、息せき切って廃屋に飛び込んでくる。
いつもの事だ。いつもの悪事に、またケチが付いたのだろう。
彼は「甥」だが、血縁でも何でもない。
適当に拾った子供の説明として、「甥」という名称が都合良かっただけだ。
彼は、その立場を気に入ったようで、その場しのぎのはずだった関係はまるで本物のように感じさせられるようになっていた。
ラファの後から、怒り狂った女が飛び込んできた。――まあ、これもいつもの事だ。
この地域の子供らは手癖が悪いが、要領も悪い。
今回も、ここまで追いかけられたという事だろう。
女は甥を壁際まで追いつめ、彼が手にしているもの――おそらく彼女からくすねて、見つかったのだろう――を取り上げようとしていた。甥は子供なりに抵抗していた。
この土地では、大人も子供もない。
強かであれば生存権を得、そうでないものは搾取されるだけ。
その意味では、甥は強かだった。
窮地に瀕した彼は、こちらを見て、視線だけで助けを求めた。
甥の視線を辿り、廃屋の埃と同化していた大人の影に気づいた女は、驚いて怯んだ。
甥は、隙を見逃さず、取り上げられかけていたプルセラ(腕輪)を奪い返し、こちらに逃げ込んできた。
女が怯んだのはわずかの間だった。戸惑ったような表情を一瞬見せたが、すぐに立て直したようだ。
ディアボロのような形相で、足音高く迫ってくる女。
私は、飛び込んできた甥の指の欠けた左手にある戦利品を一瞥する。
鈍い銀の色をした金属は安っぽく、刻印された飾りも素人が申し訳程度に彫ったものだろう。
プルセラとしては粗悪品に近い。
ラファはなぜこんなものを、あの女からくすねたのだろうか。
私の足にまとわりつく彼を見下ろすと、いたずらっぽいアンバーの瞳とぶつかる。
「これ、買ってよ」
彼は私に、粗悪な腕輪を押し付ける。
手にするが、やはり、クズに近い女性用のプルセラだ。親指大の黒い石がはめ込まれているが、鈍い色をしており価値があるようには見えない。気になるとすれば、この石が後付けでプルセラにはめ込まれたようだという事ぐらいだろうか。
「これは買うほどの値は付かないよ」
「この石、綺麗だよ」
彼は袖で石の表面をこすると、私の目の前にずいっとプルセラを突き出した。
――どう見ても鈍い黒の石にしか見えない。これなら黒曜石の方がずっと美しい。
もう一度、彼の瞳を見返すが、相変わらずいたずらっ子のようにくるくると瞳を動かしている。嘘はついていないようだ。それに、こちらに向かってくる女ディアボロの剣幕を見れば、この石に何らかの価値があるのは間違いなさそうだ。
「幾らだい?」
「300ユニ」
「さんびゃ…っ!」
300ユニあれば、4人家族をクズのような食事とはいえ一週間満腹にさせてなお、お釣りがくる。
「損、させない。大丈夫」
くるくるとよく回るアンバーの瞳の主は、満面の笑みを返した。
その表情に、何か一言小言でもくれてやろうかと息を吸い込んだ。が、結局、左中指の細いリングを三回まわし、手のひらをラファに向ける。
同時に電子音が鳴る。決済が完了した合図だ。
「毎度、あり!」
甥は、女ディアボロとは反対の窓から、勢いよく出て行った。
私は手元に残された、クズとしか思えないプルセラを見下ろす。
「返セ」
女は、私の頼りない襟首の布切れを掴み、低い声でうなった。
「断る。私は売買で手に入れたのでね。貴方に返す義理はない」
今にも鼻息が当たりそうに接近した女の方は見ずに、冷たく返す。
この町では、怯んだら奪われる。感情は焚き付けにもならない。
「ソレハ、私ノ物だ」
女は力づくで奪い返すと決めたらしい。私の手首のある一点を、迷いなく押さえた。呆気なく、指から力が抜ける。プルセラが地面に落ちた。この女、人体の急所をよくご存知のようだ。
女は、固い音を立てて落ちたプルセラを拾い上げようと体を低くした。
その低くした女の心臓めがけて、拳を下から打ち込む。くぐもった声が聞こえ、女が床に手をついた。私は床に転がったままのプルセラを足で蹴り放し、蹲る彼女の耳元に屈み込んで、そっと囁いた。
「ようこそ、エル・マルヘン(社会の縁)へ」
*
――彼女との出会いは、よくある日常の一つでしかなかった。
思い返せば、この時ラファをなだめて、プルセラを女に返せばよかった。そうすれば、あと数年は毎日前日の延長を消費するだけで済んだはずだった。
だが、この時の私はそうしなかった。
何が気に障ったのか。それとも、気になったのか。
うずくまっている女を見下ろす。
ディアボロ女は貧民街に紛れようとしているようだったが、端々が嘘をついていた。素材の良い装具、丁寧にケアされた肌。くたびれた身なりの下から、この土地では見慣れない種類の清潔さが滲み出ていた。
そんな彼女が、スリとはいえ、子供をこんな廃屋迄追い詰めるほど大切に持ち歩いていたもの。
それを、返したくなかったのかもしれない。
*
この世界は二つに分かれている。
バーチャルエコノミー圏と、現世圏。前者を選んだ国や地域では、環境問題も紛争も健康問題も、きれいに解消されたらしい。空気は澄み、絶滅しかけていた動植物は息を吹き返し、気候も安定しているという。
その代わり、彼らの生活を支えるエネルギーと資源の負担は、現世圏に押しつけられた。豊かさには、代償が伴うというわけだ。
このエル・マルヘンは、その境界線上にある。両圏の紛争地帯であり、廃棄物の捨て場であり、どちらからも弾き出された人間の吹き溜まりだ。衛生環境は劣悪で、治安も悪い。まともな人間は一日と居着かない。
彼女の様子を見ると、おそらくバーチャルエコノミー圏の人間だろう。
ようやく呼吸を取り戻し立ち上がった女の表情は、目を合わせたら縊り殺しそうなほど燃え立っていた。が、私の机に視線を止めると、何かを思案するように黙り込んだ。そして、ゆっくりとこちらを振り向いた。
片言の言葉で、女は宣言した。くすねられたものを取り返すまでは、梃子でも動かない、と。
女は、クルスと名乗った。




