「第31話」
すぐに作業に取りかかろうとしたのに――
レイゲルがこちらに顔を向けたせいで、ヘアカラー剤を含ませた筆を持つ手が止まってしまった。
こう見ると……
なんか不思議な気分だ。レイゲルがぐんぐん背を伸ばして以来、もうこの少年を見下ろすことなどなかった。前髪の隙間から時おり覗く額が視界に入った。
――やはり顔立ちが整った者は、額さえも特別なんだろうか。
じっと額を見下ろしていると、自然と視線は下へと流れていった。整った濃い眉、鋭さを際立たせる切れ長の目、そして――
「……」
視線を辿っていくうち、ふと気づけば、レイゲルの蒼い瞳と真正面で視線が交わっていた。顔を向けた時からずっと、こちらを見ていたのかしら。サファイアのような瞳には、動じることなく私の姿がくっきりと映り込んでいた。
なにをあんなに……
瞳の奥にまっすぐ捉えられている自分を見ていると、打たないはずの心臓が不意に大きく脈打つように感じられた。戸惑うことだ。望ましくないざわめきに、指先が固まってしまう。
まだ成人の儀も終えていないくせに。
私の心境を知っているのかいないのか、レイゲルは口元の笑みをさらに深く浮かべた。
「昔のことが思い出しませんか?子どもの頃は、師匠のほうがずっと大きかったのに」
「今は自分が大きくなったと自慢でもしたいのか」
「違います。ただ、なんか嬉しくて」
「こんなことで嬉しいのか」
心の動揺を悟られそうで、私は両手でレイゲルの頭をぐいっと押さえ、強引に前へと向けさせた。
「さっさと正面を向けなさい。これでは一日かかっても染め終わらん」
レイゲルは、何がそんなに楽しいのか、澄んだ中低音の声で朗らかに笑った。その声がやけに耳をくすぐる。
ぎゅっ。
無意識に筆に力が入り、心のざわめきを抑えようとした。
……なぜ、私が。
このまま呆けているわけにはいかなかった。筆にたっぷりと薬液を含ませ、レイゲルの頭へと叩きつけるように塗りつけた。
ぴしゃっ。
勢いよく振ったせいで、筆先から薬が飛び散る。半分は八つ当たりのようなものだった。
「わっ!師匠?」
「自業自得だ」
「な、何がですか?」
薬を塗るというより、叩きつけている感覚に近かったのだろう。レイゲルが慌てて声を上げた。
「僕は何もしてないんですけど。誰がこんな乱暴に染めるんです?」
「私が」
「もっと優しくしてくれたっていいでしょう?このままじゃ髪が抜けるかもしれないですよ」
「知るか」
その言葉のせいか、頭の片隅に髪の毛がすっかり抜け落ちたレイゲルの姿が浮かんだ。
――はげのレイゲル。骨格からして整っているから、意外と似合うかもしれないと思ってしまった。
「……」
弟子相手に、なんとくだらない想像をしているのか。そんな自分が気に入らなかった。
ぴしゃっ、ぴしゃっ。
筆にこもった意地悪さが、容赦なくレイゲルの頭にぶつかっていった。
***
首筋を少し覆うくらいの長さ。
レイゲルの髪は長くないため、染め上げるのに時間はかからなかった。
「うわっ、染めるのに殺されるかと思いました」
レイゲルは濡れた髪をタオルでぱたぱたと拭った。彼にそう言わせたのが自分だと思うと、胸がちくりと痛んだ。私はそっと顔を逸らし、別の方向を眺めた。
「気に入るのか?」
「きれいに染まったと思います。師匠も見てください」
レイゲルは大股で歩み寄ると、膝を折り、腰までかがめた。ためらいのない、流れるような動作は実に手慣れていた。
「……」
私はちらりと見下ろし、慎重に手を伸ばした。指先に触れる髪はさらさらと滑り、まるで柔らかなシルクのようだった。
「どうです?」
「うまくいったな」
太陽の光のように輝いていた髪色は覆われ、代わりに深い焦げ茶色が落ち着いて馴染んでいた。鮮やかさが抑えられた分、どこか知的にも見える。全体的に落ち着いた色で、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
「かつらも茶色でしたけど、染めるのも茶色なんですね。こちらのほうが少し濃いですけど、茶色ってお好きなんですか?」
「無難だからな」
帝国に生きる大半の人は茶色の髪を持っていた。明るい茶色、普通の茶、濃茶色――彩度に差はあったものの、茶色という大きなカテゴリーにまとめられた。
「悪くないですね。特に違和感もないし」
「ならいい」
レイゲルは鏡の前に立ち、自分の髪を弄んでみせた。表情からして、気に入ったらしい。
「市販の染毛剤より効き目はいいだろう。髪もあんまり傷まないし、持ちも悪くない。あんまり頻繁に使うのは良くないのは同じけどな」
私の髪の色を変えようと、幾十年も研究を重ねた。薬草に関する知識なら誰にも引けを取らないくらい自慢しているほどだ。そんな私が作った染毛剤だ。効き目が劣るはずがなかった。
「やっぱり薬だからですかね。特に問題もなかったのは」
「……どういう意味だ」
「はは。どういう意味でしょうか」
レイゲルはからかうように笑った。私が渋い顔で問い返すと、逆に爽快なほどの笑みを浮かべる。目尻を優しく細めながら、うまくやり過ごすその技は驚くほど自然だった。
「どこに行くのか、聞いてもいいですか?」
細めた目でレイゲルを見やった。少年は依然として柔らかく笑っていた。
「セダム、イヘンディア、サイテン、シエブ」
どうせ行くところだった。隠しても無駄なので素直に答えた。村の名前よりも分かりやすいように地方名を口にした。訪れる地域を聞いたレイゲルは、目を二、三度瞬かせた。
「そんなに行くんですか?てっきり一、二か所くらいだと思ってました」
どうやらすぐ帰ってくると思っていたらしい。
「しかも東西南北、全部ばらばらじゃないですか」「時間がかかるだろう」
だから、一人で行こうとしていたのに。




