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王平伝演義  作者: 阿雄太朗
内なる敵
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司馬懿の使命

 万全だったはずの布陣が、魏兵の陣が抜かれたことを皮切りに押しまくられ、天水城が包囲される前に司馬懿は瀧関まで退く命令を下した。

 張郃軍が抜けたことで魏平の陣が薄くなっていたことはわかっていた。そこへの手当は羌に出向いている郭淮が戻ってからと考えていたのだ。諸葛亮は、その隙を見逃すことなく突いてきた。

 司馬懿は瀧関に着くと、先ず蓄えられている兵糧を確かめた。前線へ兵糧を送る中継地であるため不足などころか潤沢であることはわかっている。危惧しているのは、この潤沢な兵糧が蜀軍に奪われることだった。

 辛毗が現況の報告に上がってきた。

「今のところ、集まった我が兵力は四万です。四散した兵が集まってきておりますので、最終的には五万に達すると思われます」

「随分とやられたな。しかし、まだ十分に戦える。蜀軍が兵の口を減らしてくれたことに我らは感謝せねばならん」

 聞いても、辛毗は笑わなかった。八万の内の三万を失い、軍を後退させたことで、蜀軍に敗けたという気持ちが強くあるのだ。

「恐れながら司令官、我らはこれで蜀軍に兵力で劣ることになりました。張郃将軍の安否もわかりません。後方からの援軍を要請し、長安に籠城すべきではないでしょうか」

「余計なことを言うな。そんなことをして俺の顔に泥を塗りでもすれば、お前といえども首を飛ばすぞ」

 闊達に言う司馬懿に辛毗は言葉を失い、顔を引きつらせた。この部下に勇猛さはないが、このくらい臆病なくらいが御し易くはある。

「弱気になるな。この戦における魏軍の勝ちとは何か、そして負けとは何か、今一度考えてみろ」

「勝ちとは、魏領から蜀軍を退けることです。負けとは」

 そこまで言い、辛毗は言葉を詰まらせた。もう負けてしまっているという思いが、辛毗の言葉の中に垣間見える。恐らく士卒もそうなのだろう。この空気は払拭しておかなければならない。

「負けは、長安を落とされることだ。何度後退しようともその都度蜀軍を疲弊させ、最終的に長安を守りきればいい。我が魏軍の兵力は減ったといえど後方には予備兵力がある。諸葛亮の目指す勝ちに比べれば、我が軍の勝ちは容易いものよ」

 長安の防衛能力を全稼働させれば、二十万の敵でも一月は守り切れる自信が司馬懿にはある。蜀軍の兵力は十万を満たさず、籠城して時を稼げば後方からの援軍も望める。魏軍が負ける理由などありはしないのだ。

「それに退いたと言っても悪いことばかりではない。兵が死傷し、或いは逃亡することで、三万の劣等な者がいなくなったと考えれば有益なことではないか」

「しかしこれでは、都の廷臣から何を言われるか」

「戦を知らん者など、勝手に言わせておけ」

 遠くから聞こえてくる雑音など放っておけばいい。戦に勝てるかどうかは、自らの信念を貫けるかどうかなのだ。周りの雑音にいちいち心を動かしていれば勝てるものも勝てなくなってしまう。

 過去に一度だけ負ける危機はあった。信念がどうかの前に、長安にはまるで備えがなかったのだ。しかし諸葛亮は千載一遇の機をまんまと逃した。それは魏軍が優れていたからではなく、蜀軍の内部に問題があったからだと司馬懿は読んでいた。周囲の雑音に耳を傾け過ぎ、諸葛亮の二の舞になるわけにはいかない。

「あの男は愚かな負け方をしてくれた。あれで魏国の耳目は西方に向けられ、儂はその時勢に乗るように対蜀軍の司令官になった。全く儂は運が良い」

 魏の国力でまともにやれば蜀軍に負けるはずなく、司令官に任命されれば後は間違いが起こらないよう権を振るって内部をしっかり統制すればいい。そして蜀軍を退け戦功を立てれば司馬懿の魏国内での発言力は増す。張郃を押し退けてでも対蜀軍司令官になりたかった理由はそこにあった。

 外では兵が慌ただしく駆け回っている。辛毗がそうであるように、敗北からの不安が兵を急き立てているのだろう。外の者共はあれでいい。不安に尻を叩かれ必死になって戦い、それで死ななかった者だけが生き永らえ、死ぬ者はさっさと死ねばいい。

「戦とは何か、お前は考えたことがあるか」

「難しいことを聞かれます」

 辛毗が訝しがった。

「……戦とはつまり、二つの異なった意志のぶつかり合いでしょうか」

「間違ってはいないが、儂が聞いているのは古今の世にとっての、戦の本質的な意味合いだ」

 辛毗は訝しがるだけでもう何も言おうとせず、司馬懿の次の言葉を待つのみになった。

「世は阿呆ばかりだ。無知で、欲望と不安ばかりに忠実な賤しい者たちのことだ。国を支配する者は卑しい者たちを適切に処理せねばならん。下賤が力を持ち支配する者の座に就くようになれば、その国や組織は滅んでしまうからな。漢という国は、そうして滅んだ」

 かつての司馬懿にも、漢への帰属意識はあった。自らが属する国を盛り立てていきたいという志もあった。それはもう遠い昔のことで、今はもう無くなってしまった国に対する空しい思いしかない。

 漢を食い潰した者たちは、蝗のようなものだった。欲に従い全てを食い尽くし、妬みを互いにぶつけ合い、過ぎていった後には何も残さなかった。まだ若かった司馬懿は、漢が食い潰されていくのを、ただ茫然と見ているしかなかった。

 欲を満たした蝗たちは満足したと言わんばかりに、次々に老いて死んでいった。その後に残った空虚な国が、魏という国だった。

 諸葛亮のように、漢を再興しようという気に、司馬懿はなれなかった。仮に再興できたとしても、また蝗のような奴らに食い潰されてしまうだけだ。先ずは蝗を殺し尽くすことだった。今の魏にも、欲に忠実な蝗は山のようにいる。生きている間に、一匹でも多くの蝗を殺しておきたかった。そのための力が欲しかった。

「実務だ、辛毗。やってくる蜀軍の陣容を言え」

 辛毗が不快げな色を浮かべながら、地図を指して答えた。

「蜀軍は瀧関を正面から攻める部隊と、北へ大きく迂回してくる部隊の二手に分かれて進軍中です」

「街亭方面に斥候を多めに放っておけ。退路を断たれて瀧関が挟撃に遭うことだけは避けねばならん」

 辛毗は返事をし、逃げるようにして部屋から出て行った。

 司馬懿は椅子の上で大きく息をついた。少し喋り過ぎたかもしれない。喋り過ぎたのは、蜀軍に後退させられたことで自分の信念が揺らいでいるからなのか。

 辛毗に言ったことは本心であると同時に強がりでもあった、盤石だった布陣はほんの些細な隙を突かれて破られ、三万の兵を失った。弱兵を処理したと言ってもそれは司馬懿が狙ってやったことではなく、結果的にそうなったというだけのことだ。軍市の商人たちにも大きな被害が出たことだろう。魏の廷臣を含む天下の大勢は、これを司馬懿の敗北と見るに違いない。

 後手に回っていることに不安はある。戦に負けるのは、こうした不安に押し潰され、心の機微を欠いた時で、今までの諸葛亮が恐らくそうだ。そう思うと司馬懿は西から懸命に攻め上ってくる諸葛亮に幾らかの親しみを覚え、無性に可笑しくなった。

 斥候が戻るにつれて、司馬懿の卓の上に竹簡が増えていった。

 蜀軍は逃げ遅れた魏兵の残党を狩りつつ東進してきている。その勢いは凄まじく、瀧関に集まりつつある魏軍兵力は五万を切りそうだった。

 司馬懿は心の内に焦燥と快感を覚えていた。強く賢い者だけが生き残り、能の無い者は死ねばいい。だがそれで司馬懿の軍が負けてしまえば意味がない。弱者を処理しつつ勝利を収め、魏国内で権力を握って蝗のような輩を淘汰しなければならない。それが、司馬懿にとっての勝ちだった。

 辛毗が息を荒げながら戻ってきた。その忙しない様子に、司馬懿は幾らか苛立った。

「何事だ」

「張郃軍が蜀軍の追撃を切り抜け、こちらに戻ってきつつあるとのことです」

「なんだと」

 司馬懿の額から汗が噴き出た。

 張郃はこの戦で消しておきたかった。戦は巧くとも上の者に従順過ぎるところがあり、おかしなことを言われても黙って従うところがあるからだ。軍人の美徳である従順さは、時としておかしな者を増長させる要因となる。戦巧者であってもこういう者は組織の中で大きな力を持つべきではない。

「確かなことか」

「物見が張郃軍の具足と旗を確かに見たと言っております。瀧関の外に伏せ勢として待機しておくとのことです」

「瀧関には入らないのか」

 木門攻撃を無理強いさせた司馬懿を張郃は疑い、外に伏せて司馬懿の反応を試しているのかもしれない。

「関から兵を出せ。張郃軍の伏せ勢と合力し、やってくる蜀軍に痛打を与えてやるのだ」

 手を震わせた辛毗が復唱して出て行った。

 司馬懿は張郃が伏せている場所を地図に記した。ここで一手間違えれば、あの精強な騎馬隊が蜀軍に寝返ってしまう可能性があるため、これを無視するわけにはいかない。全て上手く運ばないのが戦の常とはいえ、事は司馬懿の思惑から大きくはずれ続けている。

 長安の堅城が背後にあるからといって本当に勝てると言い切れるのか。まるで周囲から伝わってくる不安と焦燥が、波打ちつけて司馬懿の心を浸食しているようだった。

 外の喧騒さの中に、一つの喚声が上がった

 それが何かと思っていると、司馬懿の居室に従者が駆けこんできた。

「夏侯覇殿が御帰還されました。張郃将軍は討死されたとのことです」

「何を言っているのだ。張郃殿は先ほど」

 従者の後ろから、顔の半分を血で赤黒くさせた夏侯覇が姿を現した。一見して蜀軍に手酷くやられたことがわかった。

「木門で蜀軍の伏せ勢に遭い、我が騎馬隊は壊滅。張郃将軍は討たれました」

「なら城外の騎馬隊は」

 それを聞いた夏侯覇が、何のことだという顔をした。

 それで司馬懿は謀られていることに気が付いた。襤褸布のようになった夏侯覇を押しのけ、司馬懿は従者に叫んだ。

「辛毗に兵を戻せと言え。諸葛亮の騙し討ちだ」

 叫ぶと同時に司馬懿は走り、関の上に立って外を見た。司馬懿が止めようとした兵は既に進軍を始めていて、こうなればもう容易に止めることはできない。司馬懿は蜀軍に殺されにいく魏兵の背中を茫然と眺めることしかできなかった。

「どうされましたか、司令官」

 司馬懿の姿を見つけた辛毗が駆け寄ってきた。

「あの兵をすぐに戻せ」

「さっき出せと申されたばかりではありませんか」

 一度出した兵を戻すには時がかかるのはわかっている。それでも、叫んでいた。

「ならばここの兵糧を今すぐに焼け」

「司令官、乱心されましたか」

 言った辛毗を、司馬懿は殴り倒した。

「あの張郃軍は偽物だ」

 兵が西へと駆けて行く。司令官の命令に従い、死へ向かって駆けて行く。自分が司令官でなければ、これを滑稽だと言って笑っていたところだった。

「瀧関は捨てて長安まで退く。兵糧は一粒たりとも蜀軍に渡すな」

「味方を見捨てるのですか」

「いいから早くやれ」

 西の彼方から蜀軍が土煙を上げながらやってくる。どうにでもなると思っていた蜀軍に、司馬懿は初めて恐怖を覚えた。

 こんなところで死ぬわけにはいかない。天下のために、自分は殺す側でなければならないのだ。

 司馬懿は辛毗を尻目に手近な馬に乗り、兵糧焼却の命令を自ら出すべく馬腹を蹴った。


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