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王平伝演義  作者: 阿雄太朗
司馬懿の台頭
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司馬懿の黒蜘蛛

 八万を率いていた。行軍させてみるとその先頭は十里も先にいて、最後尾も同じく十里後方にいる。輜重等を扱う人夫も含めると、十万の軍勢である。

 司馬懿は、その十万の頂点に立っていた。前年の戦で曹真が病死し、司馬懿がその後任となったのだった。

 魏の宮廷内で次の対蜀司令官は誰にすべきかという議論がなされ、最終的に張郃と司馬懿の名が残り、前の戦で攻めの姿勢を崩さなかった司馬懿が選ばれることとなった。その時の張郃は司馬懿の後方にあり、一兵も失うことなく見事に撤兵して見せたが、廷臣からは戦に対して消極的だという評価しかされなかった。

 宮廷内など戦を知らない者しかいない。あの局面では攻めることが下策であり、待つことこそが上策だった。それは張郃も心得ていたことで、負けるとわかった戦を回避したことは評価されるべきだった。それでも司馬懿が攻めたのは、戦後の論功行賞を考えれば、下策を選ぶことが上策だと判断したからだ。廷臣の一人である、曹真の子の曹爽に賄賂を贈っておいたことも、決して小さくない効果を生んでいた。

 清廉だと言われていた頃もあったが、いつしか賄賂を使うことに抵抗が無くなっていた。この国の腐りは帝が代わってから急速なものになっていて、清廉な者は政の中心から遠ざけられ、おかしな者が幅を利かせ始めている。清廉さで身を固めるより、賄賂を上手く使った方が現実的だと、年を重ねる毎にわかってきた。曹爽などは自ら賄賂を要求してくる、典型的な腐りの一部だった。

 一人の兵士が、司馬懿の乗る馬にさりげなく近づいてきた。郭奕だ。

「蜀軍八万が漢中を発しました。兵糧の動きから祁山に向かっていると思われます」

 郭奕の姿は他の兵士となんら変わることがない。黒蜘蛛の頭領で、蜀軍の動向を探らせていた。それは正規軍の斥候とは違う、司馬懿の私的な物見である。

 司馬懿は、郭奕が手渡してきたものに目を通した。これから向かう天水から祁山にかけての地形と、蜀軍の兵糧がどこに向かって集められているかが記されてある。

 司馬懿が落としていた目をふと上げると、郭奕の姿は既に他の兵に紛れて消えていた。何も言わずとも次の仕事に向かったのだ。

 郭奕は、司馬懿自身の手で育て上げた忍びだった。昔、曹操の謀臣で、郭嘉という男がいた。烏丸族が住む北方地域の平定に功があり、三十八という若さで病に倒れた。その郭嘉が残した子が郭奕だった。

 許昌の太学で教鞭を取っていた時、郭奕は教えを受ける子弟の中にいた。暗い目をしていたのが印象的で、周りからのけ者にされているのか、友と呼べる者はいないようだった。

 司馬懿は郭奕の異質さに興味を持ち、少し話をしてみようかと屋敷に呼び出した。やってきた郭奕は、何を言われるのかと怯えた顔をしていた。

 周りと比べて自分は劣っているのだと、郭奕は言っていた。暗い目をしていて友ができないのは、どこからか来る劣等感に原因があるのだとわかった。

 司馬懿はさらに興味を持った。強い劣等感は自らを潰してしまいかねないが、場合によっては意外な力を発揮することがある。他の似たような面をした子弟たちに比べれば、郭奕はよほど磨き甲斐がありそうだった。磨いて使えなければ、捨ててしまえばいいだけだ。

 司馬懿はそれから何度か郭奕を屋敷に招き、劣等感はどこから来ているのか探ってみた。

 早くに父を失い、曹操の庇護下で女ばかりの場所に預けられた郭奕は、十歳まで自分のことを女だと思っていたのだという。男という概念すら持てない異様な環境で大事に育てられ、或いは馬鹿な女共に人形のように扱われていたのか、郭奕の心は女そのものになっていた。

 太学に通う同年代の子弟はそんな郭奕を笑いものにし、のけ者にした。多感な年頃だった郭奕は悩みを重ね、心は大いに歪んでいた。

 司馬懿は、それは否定するものではなく、受け入れるべきものなのだと郭奕に言ってやった。少なくとも自分は否定しないと言った時、郭奕は俯き、涙を流し始めたのだった。

 司馬懿は自ら色白の若い男を選び、郭奕の寝所に与えてやった。その夜、郭奕の寝所で大きな物音がして、翌朝になると、与えた男が首を絞められて死んでいた。

 司馬懿はそれに驚く一方で、この凶暴さを上手く扱えるようになれば、と考えた。

 郭奕は泣きながら司馬懿に自裁を申し出てきた。男を殺した時の感情は、自分ではどうすることもできなかったのだという。

 司馬懿は自裁を許した。それは世間的にという意味で、本当に命を絶つことは許さなかった。これからお前は闇の中で生きていき、私の手足となるのだ。そう言うと、泣き顔の郭奕の顔が一瞬だけ喜悦の色を見せ、司馬懿は全身が粟立った。体の底から湧いてくる嫌悪感を抑え、こういう男こそ上手く扱うべきなのだと自分に言い聞かせた。

 長安への赴任が決まった時、郭奕も同行させた。既に郭奕には忍びの技を十分に身に付けさせていた。長安で細かな情報を得るのに、郭奕は役に立った。長安で蜀の忍びを捕らえられたのも郭奕の働きがあったからだ。

 郭奕を頭とする忍び集団を作り、黒蜘蛛と名付けた。司馬懿の完全な私兵であり、夏侯楙から左遷された後も長安以西の情報を得られたのは黒蜘蛛があったからだ。

 異質なものを上手く使いこなせているという自負はあった。今では、郭奕は司馬懿のことを父のように慕っている。

 戦場が近付いている。

 強大な兵力にものを言わせ、天水の城門を開かせ中に入った。ここから南百里の祁山に蜀軍が集結しつつある。

 対蜀司令官としての初陣で無様な戦をするわけにはいかなかった。この行軍中、この戦の勝利はどこに線引くべきか、ずっと考えていた。勝ちは、魏軍が蜀軍を打ち破ることではない。そんなことをしても都の愚かな廷臣たちを喜ばせるだけだ。あくまで蜀との戦は、司馬懿が魏国内で飛躍するための踏み石としてあるべきだった。


 司馬懿が籠城の構えを見せてしばらくすると、蜀軍が前線を上げてきた。

 司馬懿は天水城を本陣として、翼を広げるように八万の兵を布陣していた。

 前線を上げてきた諸葛亮は野戦を望んでいる。司馬懿はそれに付き合う気はなかった。ここは兵を動かさず、堅く守っているだけでいい。

 攻め寄せて来る蜀軍は元より、都の廷臣たちの目も気にしておくべきだった。彼らが一番に臨むものは、危険な冒険ではなく、ぬるま湯のような安泰だ。

 魏軍の有利な地で守り、蜀軍をこれ以上進ませないことが勝利であると、司馬懿は思い定めた。

 司馬懿は斥候の報告を地図に書き込んだ。前線を上げてきた後の蜀軍に大きな動きはない。諸葛亮が攻めあぐねている様子が、地図上にありありと見て取れるようだった。

 鈴の音が一つ、頭上で鳴った。黒蜘蛛の頭領である郭奕が帰ってきた合図である。

 黒いものが落ちてきて、ゆらりと影が持ち上がり、郭奕の姿になった。

「蜀兵の様子はどうであった、郭奕」

 蜀軍内には黒蜘蛛を紛れ込ませ、情報を持ち帰らせている。

「寒さへの備えは万全です。それぞれの兵が地を穿って毛皮を着こみ、長期戦も辞さないようです」

 二月である。外は寒風が吹き荒び、枯れた木と白くなった大地が死の色を見せていた。

「木門に、蜀軍の兵糧集積地らしきものを発見しました」

「なんだと」

 軍にとっての兵糧庫は、人の体で言う心の臓のようなもので、そうそう見つけられるものではない。

「らしき、と言ったな」

「はい。そこでは二人で担ぐ兵糧袋を一人で軽々と運んでいると、部下が報せてきました」

 二流の将なら喜び勇んで木門を攻めていたところだろうが、これは間違いなく罠だ。しかし諸葛亮という男は、細かいところで詰めが甘い。

 地図を見てみると木門は絶妙な位置にあり、ここから馬を駆けさせれば丁度一日で到達できる距離だった。罠はそこまで計算して仕掛けられている。

「逆手に取って使えるかもしれん。お前はこれから木門へ行き、その兵糧庫が偽装であるか自らの目で調べてこい」

「御意」

 郭奕が寒風の匂いを微かに残して出て行くと、司馬懿はもう別のことを考えていた。

「辛毗を呼べ」

 大声で命じると、従者が駆けだして行った。

 魏軍陣内の後方には、兵を慰労するための軍市ができつつあった。戦には多くの人頭が必要で、司馬懿は市を開くことで現場に多くの人間を集めていた。司馬懿はこの軍市の差配を、辛毗に一任していた。

 辛毗はすぐにやってきた。

「軍市のできはどうだ」

「予定していた家屋の三割が完成しております。できあがったものから、長安からやってきた商人に食堂や妓楼を開かせています」

「兵に銭を払ってやれ。交代で、軍市で遊ばせろ。このまま滞陣が続けば敵に攻め込めと言い出し始める者が出かねん。兵にいつまでもここにいたいと思わせてやるのだ」

「軍市が大きくなると、敵の忍びが入り込んでくると思われます」

「暇な兵はいくらでもいる。軍市の警備は、軍市を利用する兵にやらせろ」

「かしこまりました」

 辛毗が退室して行った。

 辛毗は、司馬懿の戦略をよく理解している文官だった。この戦の軍政は、この男に任せておけば間違いない。

 この戦は、ただ守っていれば勝てる。しかしずっと陣内に籠っていれば、蜀軍と戦わせろと言い出す輩が魏軍内から出かねない。自軍から湧いてくるそんな輩こそが真の敵だった。

 長安では兵に支払う貨幣が大量に鋳造されている。長安を発つ前、司馬懿が指示したことだった。その銭を手にした兵が軍市で遊び、商人が長安に持ち帰る。そうして長安が富めば軍司令官としての司馬懿の名声は上がるはずだ。

 ただ銭の価値は下がり、物の値が上がることが考えられたが、そんなことは知ったことではない。この国が乱れるということは、司馬懿にとって悪いことではないのだ。銭の価値が不安定になろうと、それが司馬懿のせいだとは、愚かな廷臣にわかるはずなどないのだ。

 司馬懿は心地良い思惑の中にいた。目の前には蜀軍という敵がいて、内には魏という敵がいる。力を持つ愚か者は、全て叩き潰してやる。

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