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王平伝演義  作者: 阿雄太朗
司馬懿の台頭
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成都の宮中

 漢中からの旅を終え、王訓は蜀の首都である成都に到着していた。

 初めて見る成都の街は、活気のある漢中の街とは違い、静々としたものだ。南の暑い地域なので、そこに住む人達も暑苦しいのだろうと何となく思っていたが、そうでもないらしい。

 王訓が起居することになったのは、蔣琬という人の大きな屋敷だった。

 その屋敷には蔣琬の息子である蔣顕という少年がいて、少し話しただけで仲良くなった。自分より一つ上の十三歳で、新しい土地で齢の近い友ができたのが嬉しかった。

 成都に来てからしばらくは、蔣顕に成都の街並みを案内してもらった。洛陽とは違う人々の暮らしが新鮮だった。街に建ち並ぶ家々の見た目も、人々が喋る言葉も、王訓が知っているものとは微妙に違っていた。

「明日から蔣顕の父御に従って宮中に行けと言われたんだけど、俺は何をやらされるのかな」

 成都の街を見物し終わった帰り道に、王訓は蔣顕に聞いた。

「何だろうな。私は行ったことがないから分からないけど、使用人みたいなことだろうと思う」

 蔣顕は、自分のことを俺とは言わず、私と言っていた。高貴な人と話している気がして、王訓はなんだかむず痒かった。

「蔣顕の父上は、宮中で何をしているんだい」

「それが、よく知らないんだ。ミカドっていう人の近くで仕事をしているとは聞いたことがあるけど、それ以上のことは母上もよく知らないって言ってた」

「父上には、直接聞いたりしないのかい」

「ほとんど家にいないからね。家には私が寝た後に帰ってくるし、起きた時にはもう家を出ているんだ」

「ふうん」

 あまり父のことは話したくないのか、蔣顕は蔣琬の話になると口数が減るので、それ以上は聞かないことにした。

 屋敷に帰ると、夕餉の支度がされていた。卓には、蔣顕が食うものとは違うものが出されていた。ここで出されるものは王訓の口には辛過ぎるため、気を遣った蔣顕の母が王訓のために違うものを作ってくれていた。

 蔣顕は、その辛いものを何でもないように食べている。よくこんなものが食べられるなと思ったが、それは食べ続けることで慣れるのだと蔣顕は言った。それで少し食べてみようかという気になったが、やはり口には馴染まなかった。

 翌朝は蔣琬の供をするため早くに起床した。何人かの使用人と蔣琬は既に起きていて、蔣顕と母御はまだ寝ていた。蔣琬が何故か嬉しそうに飯を食おうと誘ってきたので、静かな屋敷内で蔣琬と朝飯を食い、屋敷を出て宮廷へと向かった。その道中、五人の強そうな男達が二人の周りを囲んでいた。この人達は何なのだろうと思ったが、口には出さなかった。後で蔣顕に聞いてみよう、と思った。

 門の前に直立する兵士の間を通り、宮中へと入った。大きな建物へと導かれ、どうも自分には場違いな気がしてきて、王訓は不安になった。

 執務室に入った蔣琬は椅子にどっかりと座り、大きく息を吐いていた。これから仕事だというのに、既に疲れているように見えた。

「成都の生活には慣れたか、王訓」

「はい」

「蔣顕とは仲良くやっているようだな。良いことだ」

 蔣琬の手が、王訓の頭をぽんぽんと撫でた。叔父である王双の手はもっと固かった、と思った。

 戸が開き、盆に二つの茶を乗せた若い男が入ってきた。蔣琬がその男に軽く手招きして言った。

「こいつは、郤正という。ここでのお前の先輩のようなものだ。仲良くやってくれ」

 無表情の郤正が、静かに二つの茶を机の上に置いた。齢は蔣顕よりも少し上といったところか。

「王訓といいます」

 言うと、郤正の顔が少し微笑んだ。微笑むだけで何も言わず、音もなく部屋から出て行った。自分もあのように振る舞わなければならないのだろうか。

「あの、私はここで何をすればいいのでしょうか」

 自然と、自分のことを私と言っていた。

「今のところは、これといったものはない。北で戦が始まれば忙しくなるんだが、今はのんびりとここの空気に慣れてくれ」

 そう言われて、ほっとした。何か難しいものの読み書きでもさせられて失敗でもしたらどうしようかと思っていたのだ。

 蔣琬が茶を啜ったので、王訓も一口啜った。ほどよく熱いその茶は、美味いものでも不味いものでもなかった。

「あの」

「なんだ」

「これから仕事だというのに、もうお疲れのように見えます」

 蔣琬が苦笑した。失礼なことを聞いてしまったのだろうかと思い、王訓は少し狼狽した。

「私はな、家にいると息が詰まってしまうのだ。そんなところに気が付くとは、なかなか良い目を持っているではないか」

 褒められているようだが、そうでもないという気がした。しかし自分の家だというのに、息が詰まることなどあるのか。

「お前の父はいいな。こんな小さな部屋に押し込められることなく、外で兵と共に駆け回っているのだろう」

「父のことは、あまり知りません」

「漢中では食堂で働いていたらしいな。父のいる軍営には遊びに行ったりしなかったのか」

「特に、行く理由もなかったので」

 言って、王訓は俯いた。その顔を、蔣琬が覗き込むようにして見てきた。

「父のことが、嫌いか」

 王訓は答えに詰まった。昔は嫌いであったが、今は少し違うという気がする。しかし好きかと聞かれれば、そうだとは答えられない。

「王平殿のところに、私の上の息子が行っている。蔣斌というのだがな。蔣斌は、王平殿のことを嫌っているかな」

「そんなことはないと思います」

 即答していた。父のことは好きにはなれないが、周りの人間には慕われているのだ。

 そんな王訓を見て、蔣琬は笑っていた。

「仕事の前に、少しお前の父の話でもするか」

 蔣琬が自ら小さな腰かけを持ってきたので、王訓は黙ってそこに腰かけた。


 魏軍を撃退したことで静謐を得ていた成都の宮中が、また慌ただしくなり始めていた。

 また諸葛亮が北に兵を向けると言い始めたのだ。第一回の北伐が始まる前夜、まだ成都にいた諸葛亮は魏を討ち果たすまで帰らないと、帝に上奏していた。それはもう四年も前のことで、はじめは諸葛亮の気概に心を打たれて涙を流していた廷臣達も、長い戦に倦んでいた。

 仕方のないことだ、と董允は思った。これだけの時と財力を注ぎ込んでも、蜀軍は長安を落とすどころか、漢中からほとんど前進できずにいるのだ。戦を続けることで蜀国内はかなり疲弊していて、もうこの辺りにしておこうという意見が出るのは当然のことだった。南方の異民族の間でも、徴発に対する不満がかなり出ていた。

「お前は昔、戦場で功を立てたいと勇んで言っていたな、蔣琬」

 もう一通りの仕事を終えた夕刻の、蔣琬の執務室だった。蔣琬も体裁としては諸葛亮からの命令を着々とこなしているが、心の中では戦を止めてもらいたいと思っていることを、董允は知っていた。

「言ったさ。だからと言って、この戦で俺が戦場に立てるわけではないだろう」

「いや、行けばいい。俺が今度、丞相に言上してみるさ。ここの仕事は、もう俺に任せておけ」

「ふん。そんなことをしても、大人しく成都で兵站をやれと言われるだけさ。そんなことはお前も分かっているはずだ。それにお前が兵站をやれば、誰が代わりに戦に反対する廷臣を抑えておくのだ」

 蔣琬がぶっきらぼうに言った。着実に仕事をこなすといっても、この男も倦んでいた。最近は新しい従者を得て、仕事の合間にはその従者と他愛もない話をしていることが多かった。

「あの新しい従者はどうした。名を何と言ったか」

「王訓のことか。あいつはもう屋敷に帰したよ。もう子供は寝る時間だ」

 そう言う蔣琬はほとんど家に帰らず、ここに寝泊まりすることが多かった。家族と上手くいっていないのだという噂を耳にしたことがあるが、蔣琬の口から直接そういう話を聞いたことはない。

「漢中に王平将軍がいるだろう。あの子はな、王平殿の息子なのだよ」

「ほう、それは初耳だ。従者にしたのは、ここで色々と学ばせてやろうというわけか」

「そういうことだ。俺は兵站の仕事もやり、未来の蜀を背負う若者を育てるという仕事もしているのだ。俺は優秀な廷臣だろう」

 言って蔣琬が皮肉っぽく笑った。

 傍らの机には、戦に関する書類が山積みされてある。一日の仕事は終わったといっても、まだまだやらなければならないことはたくさんあるのだ。

「そういえば、お前の従者はどうした。俺はあいつが近くにいると、息が詰まる思いがする」

「郤正のことか。あいつは今、ちょっと仕事に出かけさせている」

 諸葛亮から付けられた従者だった。まだ年若く十六で、その若さに伴う純真さが、諸葛亮の言いつけをよく守る忠実さとなっていた。

「そのことなんだがな、蔣琬」

 真剣な顔をして見せたので、それを汲み取った蔣琬も姿勢を正して真剣な顔をしてきた。

「句扶というのがいるだろう」

「忍び集団の蚩尤軍を束ねている男のことか」

「郤正は、句扶が部下の中から選んだらしい」

「ほう」

 蔣琬の顔に、幾らか興味の色が湧いた。

「あれも、蚩尤軍の一員だったということか。なるほどそう言われれば、音を立てないあいつの歩き方にも合点がいく」

「黙っていたことは、謝る。お前にこれを言ったのは、あいつにそろそろ仕事をさせろと丞相から命じられたからだ」

「仕事だと。物騒な臭いしかしないな」

 そう言う蔣琬の顔に驚きの色は無い。もしかしたら、蔣琬は郤正の正体に薄々気付いていたのかもしれない。

「お前が今、一番大変だと感じている仕事を挙げてみろ」

「そんなもの、たくさんあるさ。例えば、これから始まる戦のために送る、半年分の兵糧のこととか」

「それだ」

 漢中防衛戦で魏延と李厳が担当した西雍州戦線で、折角育てていた屯田地がかなり荒れてしまっていた。麦秋を迎える前のまだ青い麦が、魏軍の騎馬隊にことごとく踏み潰されたのだ。その穴埋めをするために、南方の地域で大規模な徴発が行われたのは、つい先日のことだった。

 それに声を上げて反対しているのは、黄皓という宦官だった。帝の近くに侍り、諸葛亮の方針に反対することを色々と吹き込んでいるという気配があった。そして密かに、漢中にいる何者かと書簡のやり取りをしているということを、郤正が調べ上げていた。その誰かはまだ判明していなかったが、恐らく李厳であろうと董允は見ていた。

「あいつの仕事とは、暗殺か」

 董允が静かに頷いた。

 これまでも自分達の知らないところで、暗殺が行われていたという気配はあった。蜀建国の当初、新体制の都合に悪い者が悉く急死していた。それが暗殺であったなら、下手人は句扶だったと考えるのが自然で、廷臣の多くは口外せずともそう信じていた。

「黄皓殿を殺すか。気が重いな。仕事の邪魔をされるのは困るが、徴発に反対するということ自体は間違っているとは思えない」

「標的は、黄皓ではない。黄皓に近い者を一人殺すことで、恫喝する。帝の世話をする宦官にまで殺してしまえば、陛下ですら丞相に反発の意を示されるかもしれない」

 蔣琬は知らないようだが、黄皓は宮廷内で増大する反戦派の声を煽り、その声に乗ることで自分の地位を上げようとしていた。北伐を続けるためには先ず、黄皓の首根っこを押さえておくことだった。

「恐い男になったな、董允。俺は臆病者だから、そんな仕事は到底できそうもない」

「そう言うな、蔣琬。俺も好んでそんなことをするわけではない。所詮、俺達は自分の意思を持ってはいけない日蔭の人間なんだからな」

「俺達だと。俺のことを、勝手にその日蔭の中に入れるなよ」

 言われて董允は、この暗殺に蔣琬も巻き込もうとしていたことに気付いてはっとした。確かにこのような暗い仕事は、自分ひとりの責任でやればいい。

「意思を持ってはいけないという点では同意するけどな。お前は分かっているかもしれんが、俺は戦を止めてもらいたいと思っているよ」

 蔣琬は巻き込まれるのを拒絶したことに後ろめたさを覚えたのか、取り繕うようにして言った。

 不意に戸が叩かれる音がして、二人はそちらに目をやった。

 戸を開けた郤正が、静かにこちらに頭を下げていた。

「終わったようだな」

 董允が言うと、郤正は頷いた。

「じゃあ俺は行くぞ、蔣琬」

 姿勢を正した蔣琬も、同じように頷いた。蔣琬は、必要以上に郤正のことを畏れていた。それは成都にまで目と力を届かせる諸葛亮への畏れと言っていい。董允の中にもその畏れはあるので、若い郤正の前で緊張している蔣琬をからかう気にはなれなかった。

 董允は郤正を伴い退室した。後方から付いてくる郤正の歩調に音は無く、本当に付いて来ているのかどうか疑わしくなり、横目でちらりと返り見た。人を消してきた後だというのに、いつもと同じ顔をした郤正がそこにいた。

 郤正を預けられた時、何故蔣琬ではなく自分なのかわからなかった。蔣琬は諸葛亮の一番弟子のようなものであり、預けるのなら蔣琬であろうと思ったからだ。しかしこうして暗殺を終えてきた郤正と何でもないように歩いていると、その理由が分かるような気がした。諸葛亮は董允の中にある、自分でも知らなかった冷酷さに気付いていたのかもしれない。

 蔣琬の中には董允にはない臆病さがあった。それは悪いばかりのものではなく、臆病さは慎重さを生み、仕事の確実性に繋がっていく。事実、見ただけでもうんざりしてしまう量の仕事を、蔣琬は愚痴を零しながらも驚くほど正確にこなしていた。

 後ろから音無き足音が聞こえてくる。どうやって殺したのかは聞こうとは思わなかった。これが蔣琬なら我慢しきれず聞いていたのかもしれないと、董允は何となく思った。


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