楽城
劉敏は王平の副官として、三万の軍勢と共に楽城へ入った。
楽城はコの字形に折れた河川にすっぽりと入る位置にあり、川の流れがそのまま外堀の様相を呈している。周りには草木が青々と茂っており、兵を伏せておける場所は少なくない。我ながら良い場所に城を築いた、と劉敏は思っていた。
諸葛亮は楽城から南東五十里の成固に陣取った。楽城と成固を結ぶ線が、蜀軍の防衛線である。魏軍は東の上庸と、東北の長安から進軍してきていた。
王平軍が受け持つ曹真軍は、楽城から東北五十里の山中に本陣を築いていた。
楽城の士気は、悪くない。北への遠征ではやる気のない兵が多々いたが、今回は故郷を守る戦だった。こういう時は何かをしなくても、兵の士気は自然と上がる。
蜀軍を進ませまいと陳倉に入った魏軍の兵達は、寡少ながらも驚くべき粘りを見せた。そして、多勢であった蜀軍は負けた。
今度は、こちらが守る番である。兵に士気はある。将はどっしりと構えておけばいい。堂々とした将の姿を見て、兵士は不安を抱くことなく戦場で力を出し切ることができる。
しかし楽城の守将である王平の心が乱れていた。漢中を発つ直前、黄襲の飯屋で息子の王訓が攫われたのだ。王訓の行方は、それ以来分かっていない。
それに責任を感じた句扶は、自らの左目を抉り出していた。黄襲の飯屋の女中に、黒蜘蛛が紛れ込んでいたのだ。黄襲に羊の肉を売っていた商人は、黒蜘蛛を束ねる郭奕という男だったという。
それを、見抜けなかった。左目を潰した句扶は憤怒を顔に露わにさせて、静かにそう呟いていた。それは今までに見たことのない恐ろしい顔で、劉敏は何も言ってやることができなかった。
劉敏は、句扶に良い感情を持っていなかった。句扶のことを気に入らないのではなく、句扶が劉敏のことを嫌っていた。何故かということは、自分なりに考えた。
嫌われているのは、諸葛亮の意を汲む者として、王平に色々と口うるさく言うからだろうと思っていた。それは自分の役目であるので、仕方のないことだと割り切った。しかしそう割り切っても、句扶のことを好きになることはできなかった。
付き合いを持つ内に、自分の考えは間違いだったと思え始めた。句扶は多分、王平と親しくする自分に嫉妬を感じていたのだ。王平と句扶は、軍営の同僚という以前に、若い頃からの友だった。昔は魏軍に属していた王平が蜀の将として取り立てられたのは、句扶が丞相に進言したからなのだという。丞相に進言できる程の仕事を、句扶はしていた。
それに気付いてから、王平と句扶が同席している前では、一歩下がるようにしていた。それで幾らか、句扶からの風当たりは緩いものになった。
嫉妬しているのか、とは本人の前では口が裂けても言えない。言えば、首を飛ばされかねない。あの句扶なら、多分やるだろう。
句扶から武術を仕込まれると決まった時は、心底嫌だった。武術はできるようになるべきだとはいうのはわかる。昔から、体を動かすことより、書物を読むことに力を入れていたのだ。
どのようにして虐められるのかと思ったが、句扶は意外と親切に、剣の持ち方から教えてくれた。しかし親切だったのは初めだけで、すぐに厳しくなった。剣に見立てた木の棒で何度も打たれ、突き倒された。打たれる時に目を閉じるな。倒されたらすぐに立ち上がれ。耳にたこができるくらい、そう言われた。とりあえずはそれだけでもできるようになれ、とも言われた。
打たれる度に痣ができ、傷ができた。一日が終わり、寝台で横になれる時間が毎日待ち遠しかった。
その間の兵の調練は、王平が全て受け持ってくれた。
句扶のしごきが無駄ではなかったということは、黄襲の飯屋で証明された。黒蜘蛛が襲撃してきたのだ。
入ってきた女中の額に剣が突き立ち、天井から三人が降ってきた。王平と句扶が二人を瞬時に斃し、残りの一人が自分に向かってきた。剣を突き出されたが、目は閉じなかった。敵が喉を狙っていると瞬時に分かり、身を捩った。頬を斬られはしたが、それでなんとか一撃をかわすことはできた。しかし、腰が抜けてしまった。上を見ると、敵がこちらを吹き矢で狙っていた。やられる。そう思った瞬間、卓を盾にした句扶が間に入ってきた。そしてすぐに、句扶の手の者が助けに来た。
腰を抜かしてしまったことを、劉敏は恥じた。次に同じようなことがあれば、必ず立っていようと思った。
それから、劉敏は句扶に親しみを感じるようになっていた。漢中の職人に命じ、鉄を丸くした眼帯を作らせた。その表面には、両手に武器を持った蚩尤の姿が模られている。それを持っていくと、句扶は鼻をふんと一つ鳴らすだけだったが、一応受け取ってはもらえた。
劉敏は顎から左耳にかけて走る傷にしばしば手をやった。喋るとまだ痛くはあるが、すぐに縫ったので傷はもうほとんど塞がっている。その傷の様子を確認するのが、劉敏は嫌いではなかった。なんとなく、男になれたという気がするのだ。今までは軍内にいても、文官あがりだということで微かな気後れがあった。この傷ができてから、それは心の中からきれいに消え去っていた。
「劉敏、句扶はまだ戻らないのか」
城外での調練を終えて帰ってきた王平が言った。
「句扶殿の手の者が、日に一度報告にあがっております。心配されることはないでしょう」
楽城を出る直前、句扶は劉敏のことを呼んだ。王訓のことを取り返すまで帰らない、と言われた。王平には、敵情視察とだけ伝えてあった。劉敏は、ただそれに頷いて答えた。自分にだけそう語ってくれたということが、何となく嬉しかった。
「王訓が攫われたのを、俺は句扶のせいにしてしまった」
「王平殿、戦です。そんな愚痴めいたことは、終わってからになさいませ」
「お前は厳しいな。いや、お前の言う通りか」
王平の目が、どこか泳いでいた。戦を前にした城の中である。将の気持ちが緩んでいると、それは兵にも伝播する。
「しっかりなさいませ、王平殿。あなたはここの大将なのですぞ」
「わかっていると言っている。戦が始まれば、俺が率いる騎馬隊の騎射を見せてやろう。街亭では、それで何人もの味方を助けた」
「今回は、籠城です。騎射などする機会はありません」
「言ってみただけだ。冗談が通じないのは、お前の悪いところだ」
王平は手を振り、つまらなさそうに自分の居室へと戻って行った。
しっかりしなければ。劉敏は自分に言い聞かせた。
劉敏は城壁に登った。壁上では、歩哨が四方に目を配っている。馬はどこまで駆けさせられるか、どこに兵を伏せることができるか、ここら一帯の地形は頭に入れていた。この城は、自分が築いた城なのだ。
今のところ、楽城は静寂に包まれている。いつ戦が始まるのかは、蚩尤軍が掴んでくる情報で分かるだろう。それまでは兵の士気を持続させることが、自分の戦だった。
ぱらぱらと、雨が降ってきた。漢中は雨の多い地域である。こういう時、劉敏は進んで櫓に上って見張りをした。将が雨に打たれることで、歩哨もしっかりと見張りの任を果たすのだ。
ふと、左頬の傷に手を当ててみた。このところ、それが癖になりつつある。傷を確認することで、自分は戦う男の上に立つ者なのだという気持ちになれた。
劉敏は、敵が攻め寄せてくるであろう山間を、じっと見つめた。漢中を守る山麓の木々が、静かに雨に濡れている。




