夏侯覇の成長
馬の肌が目の前にあった。手を当てると、厚い皮が温もりを持って動いている。戦場では、生死を共にする馬だった。
夏侯覇は、自分は二度死んだのだと思っていた。一度目は街亭で、二度目は天水の東。郭淮からは、運だけは人一倍あると、皮肉めいたことを言われた。
十二年前に死んだ父は夏侯淵といい、魏の将兵なら誰もが知っている将軍で、兄の夏候栄と共に定軍山で討死していた。昔から父のようになりたかった。戦場で剣を振り、矢を放ち、蝗の大群のような敵軍を打ち砕いてみたかった。しかし本当の戦場は、そんな華々しいものではなかった。
父と兄を殺した蜀軍を憎んでいた。初陣の前に、死に物狂いで調練に打ち込めたのは、その憎しみがあったからだ。剣を持っても、馬に乗っても、同じ年代の人間に負けることはなかった。戦など、簡単なものだとどこかで思っていた。
しかし、二度死んだ。
自分の持っていた自信など、つまらないものだったのだ。また同時に、蜀軍に対する憎しみも、戦場では何の役にも立たないものなのだと知った。憎むことで、自分の戦いを彩りたかっただけなのかもしれない。
長安を離れた張郃とは、書簡のやり取りはあった。定軍山の戦いで、父の副官を務めていたこの将軍に、父に対するような感情を持っていた。
自分の持っていた憎しみなどつまらないものだったと、張郃への書簡に認めたことがある。返ってきたものには、今更気付いたか馬鹿者が、と書かれてあった。
張郃は今回の戦で、漢中の東にある上庸から攻め上がることになっていた。夏侯覇は、曹真の下で、子午道を通って攻めることになっている。郭淮の下でなく良かったと、密かに思っていた。あの人の下では、いささかやり難いのだ。郭淮は長安から西へと進み、昨年の戦で奪われた西雍州を攻めることになっていた。
郭淮は復讐の炎に燃えていた。夏侯覇はそんな郭淮を見て、それもつまらないものだと思った。戦場では、敵の兵がいて、味方の兵がいる。それだけのことなのだ。
そのことは、口に出して言ったことはない。曹真には、郭淮との不仲を見通されているという気配があった。
進発前夜である。
二年前と違い、戦を怖いと感じるようになっていた。怯懦が先立つというわけではなく、それは心の中にしまっておくことはできる。その怖さに打ち克つことが、戦なのだと思えるようになっていた。
子午道は険しかった。蜀が初めて攻めてきた時、この道から来られると長安は危うかった。魏は何の備えもしていなかったのだ。
実際に通ってみると、この道を取らなかった理由がよく分かった。山の岩肌を穿って造った桟橋を通り、胸の深さまである河を渉ることもある。そして、よく雨が降る。この道に兵站を通すのは、大変なことだろう。しかしやはり、ここから来られたら危うかったと思う。曹真は、兵站の準備にかなり苦心したようだ。
黒蜘蛛の調べによると、蜀への入り口に、大規模な城が築かれているらしい。郭奕が束ねる黒蜘蛛は、曹真軍に付随してきていた。先ずは、地図上に「楽」と記された、この城を抜かなければならない。
曹真軍は、楽城から五十里東北に離れた山頂に陣を構えた。どこに水源があるかも、事前に黒蜘蛛が調べ上げている。
夏侯覇が兵を指揮して山麓に柵を組み立てていると、曹真に呼ばれた。
それぞれに作業をしている兵達を横目に幕舎の前まで行くと、そこから出てきた郭奕と鉢会った。
「おう、夏侯覇」
郭奕が気軽に声をかけてきた。男色だという話を聞いて、はじめは気持ちの中で構えることがあったが、今ではもう慣れた。郭淮なんかは、それを露骨に嫌がったりする。
夏侯覇は立ち止まり、郭奕に一礼した。
「やはり、負けから立ち直った男は違うな。良い目をしている」
近づいてきて、郭奕は夏侯覇の肩をぐいっと引き寄せた。夏候覇は眉をしかめた。郭淮のように嫌がりはしないが、迷惑なことだとは思う。
「敵があの城から出てきたら、先鋒はお前だ」
郭奕が囁くように言った。
「敵が、あの城から出てくるのですか」
夏侯覇は怪訝に思った。普通に考えれば、蜀軍は野戦でなく、籠城戦を選ぶはずである。
「お前、俺のことを舐めているのか」
「言っている意味が分かりません」
「まあいい」
郭奕は夏侯覇の肩を放した。
「次は、もう死ぬな」
そう言い残し、郭奕は歩いて行った。おかしな男だと思った。
幕舎に入る前にちらりと振り返ってみたが、もう郭奕の姿はなかった。
「夏侯覇です。入ります」
曹真の従者が出してきた床几に夏侯覇は腰を下ろした。張郃を見倣っているのか、昔とは違い、華美さの一切が排除されている。
「城から敵が出てきたら、お前が先鋒だ」
あばた顔の曹真が、夏侯覇の顔をじっと見つめながら、郭奕と同じことを言った。
「先程、ここから出てこられた郭奕殿から伺いました」
「敵の指揮官の名は聞いたか」
「聞いておりません」
「王平」
言われた瞬間、夏侯覇の体の中の何かがかっと熱くなった。二度、自分を殺した男の名だ。
「気負うな、夏侯覇。過去のことがあるから、お前に先鋒を任せるわけではない」
「はい」
「あの城から、王平を釣り出す。その首を、お前は奪ってくるのだ」
「はい」
王平があの城から出てくるのか。そう思ったが、口には出さなかった。街亭での初陣では、敵の一挙手一挙動に疑問を持ったものだ。その疑問を張郃にぶつけると、郭淮から怒鳴られた。いちいち疑問を持っていればきりがないのだということは、戦を通じて学んだことの一つだ。
そんな夏侯覇の心情を見透かしてか、曹真のあばた顔がにやりと笑った。
「お前は、強くなった。自身ではどう思っているのか知らんがな」
外で、山鳥が思い出したように一つ鳴いた。
「私は、二度負けました。軍法により首を落とされても仕方がなかったと思っています」
「だから、次も負けるのか」
「それは」
「負けを恥だと思うのは、悪いことではない。負けは、男を強くする。しかし、腐らせもする。負けて腐らなかったのは、お前の強さだ」
「恐れながら、負けは負けです。負けるのは、自分が弱いからです」
「それでいい。お前がまだ弱いかどうかは、この戦で確かめればいい」
「はい」
望むところである。いつまでも、負け犬のままではいたくないのだ。
戦に対する怖れはあったが、死に対する恐怖はない。二度死んでいるのだ。本当に死んでしまえば、恥も糞もない。
「では任せたぞ。それまでは、ここの陣を強固なものにしておけ」
「御意」
行け、と言われ、夏侯覇は幕舎を後にした。
何故、とはもう思わない。思うだけ、無駄なことなのだ。自分は、全力で命令を遂行するだけの軍人であればいい。夏侯淵の子だという肩書きは、戦場では何も生み出さない。
王平。その名を思い出すと、夏侯覇の腹の底はどうしようもなく熱くなった。怨みや憎しみがそうさせているのではない。悔しさが一番近いという気がするが、言葉では言い表せないものだ。自分が男である限り、それはどうしようもないことだった。
自分を二度殺した男が、戦場の向こうにいる。夏侯覇は柵を作る兵の指揮に戻っても、そのことだけを考え続けた。




