再び、漢中へ
四年ぶりの漢中の街並みは、見違える程に様相が変わっていた。その規模は成都に比べればさすがに劣るが、曹操が漢中の住民をごっそりと北へ移した直後に比べると格段に賑わいが増している。
ここに駐屯する蜀軍は二万を越え、それら兵士を相手にする商人が方々から集まり大小の商館を建て、その下での仕事を求める人夫が集まる。魏国内に比べれば蜀の税は安く、北からはるばる峡谷を乗り越え漢中まで来たという商人も少なくなかった。山峡の足場造りが大分出来上がっていることも大きいのであろう。
「民政のことになると、丞相の手腕は流石といったところだな。俺はここで治安を守っているだけで、面白いように人が増えていく」
椅子にふんぞり返った魏延が、顎鬚に手を当てながら言った。魏延の屋敷内である。諸葛亮に何かしらを命じられた句扶も漢中に来ていて、二人は漢中太守である魏延に到着した旨を報告しに来た。
「お前の活躍は聞いているぞ、王平。演習戦で将来の丞相を継ぐ者と良い勝負をしたそうではないか」
馬謖のことである。将来の丞相などと言っているが、魏延の口調は皮肉のそれであった。
「労役夫だったお前が出世したものだ」
魏延は自分の眼力に満足するように頷いていた。
この気前の良い男に、本当は自分が勝ったのだと、堂々と言ってやりたかった。だが言ってしまうと、この男は成都のやり方に不満を募らせることになるだろう。隣では、句扶が無表情のままその話を聞いている。
「私は漢中で、何をすればいいでしょうか」
王平は話題を変えた。
「うむ、やる気満々のようだな。南が片付けば、次は北だ。その北伐をやり易くするよう下準備しておくのが、俺らの仕事よ。二人とも、こっちに来い」
通された部屋に置かれた卓には、南は漢中、北は長安周辺のことが記された地図が置かれてあった。王平は文盲だが、漢中と長安の字くらいならわかる。
「蜀軍の第一目標は雍州の州都である長安を陥落させることだ。雍州を版図に加えれば北西に孤立した涼州も自然と蜀に下ることになり、雍涼二州で国力を増した後に洛陽へと攻め入る」
魏延が地図の枠外を指しながら発した洛陽という言葉に王平は反応した。洛陽への帰還がまた一歩近付いた気がした。
「ここから長安までの道は三本ある。先ず一に、子午道。道のりでいえば一番短いが、秦嶺山脈の険しい道を行くことになり、兵站の確保が難しい。二に、斜谷道。ここは王平が以前足場を造っていた道だ。子午道と比べたら遠回りとなるが、補給はし易い。第三に、一番の遠回りとなる箕谷道。秦嶺山脈をぐるっと迂回して長安の西へと出る道だ。遠回りになるため、この道を行けば魏軍に多くの時を与えてしまうことになる」
「丞相はどの道を取るおつもりなのですか」
「それはまだ分からんが、もし俺が丞相であれば子午道を通って長安を奇襲し、北から魏の援軍が到着する前に一気に攻め落とす。魏と蜀に挟まれた雍涼二州の豪族たちはどちらに付くべきか迷っていて、長安の防備は手薄になるはずだ。何せ蜀軍は魏軍を相手に漢中で大勝しているからな」
王平はなるほどと頷いた。この魏延という男は蛮勇ばかりかと思っていたが、意外とそうでもないのかもしれない。
「諸葛亮様なら、無難な箕谷道を選ぶという気がします」
「よくわかっているではないか、王平。無難であるが、魏軍に防備を整える時を与え過ぎてしまう。丞相は文官なのだ。戦のことは、我々武官に任せてくれればいいものを」
魏延は卓の上で太い指を忙しなく動かしながら言った。
「そしてそこの小さいの。句扶と言ったか」
句扶は、静かに顔を上げた。
「丞相から書簡が届いているぞ」
魏延が懐から封をされた書簡を取り出した。
「これを開けて読み、すぐに燃やせ。必要なことがあれば、何でも言ってこい」
「御意」
王平の前ではよく喋る句扶は、他の者の前となると急に無口になることがある。魏延のような男は苦手なのかもしれない。
「今日は酒を飲もう。成都の話を聞かせてくれ」
夜になり、酒と肉が屋敷の客間に並べられた。その席には既に、句扶の姿はなかった。渡された書簡を読んで燃やすと、宴は苦手ですと言ってさっさと漢中を後にしたのだった。誘いを断られた魏延は大らかで、成都からの密命なら仕方がないと言って気にする様子もない。
並べられた料理には山中で採れた山菜がふんだんに使われていた。獣の臭いが強い肉もあって懐かしい。陽が暑い成都では食料を長持ちさせるための香辛料をたくさん使った料理が多かった。
「成都の女はいいだろう、王平。漢中のような最前線では。妓楼に行ってもばばあしかいやがらねえ」
「妓楼には、一度だけ蔣琬殿と共に行きました。確かに、綺麗な女は多かったです」
「蔣琬。あの戦下手の青瓢箪か。あいつは俺らが荊州にいた時に小部隊を率いていてな、危ないところを救ってやったことがある」
「魏延殿は南荊州におられたのでしたね。それはその時の話ですか」
「そうだ。劉備様の軍団が南荊州に進出してきた時、俺はその軍に加わった。劉備様は話のわかる優しい人だった。部下を奴隷か何かとしか思っていない野郎はこの世に五万といるが、あんな主君に恵まれた俺は本当に幸運だぜ。あの人はもう死んじまったが、俺がこんなばばあしかいない所で大人しく働いているのは、あの人のためなんだ。それは、あの人が生きていようが死んでいようが関係ねえ」
豪気に酒を飲みながら言う魏延に、王平は好意を抱いた。
「劉備様のそのような噂は聞いております。さぞ御立派な方だったのでしょうね」
「そうか。お前は劉備様に会ったことがないのだな。いいか、王平。男の幸せとはな、ああいった人の下で働くことだ。後継ぎの劉禅様はまだ若く、蜀の実質的な権力者は丞相となった諸葛亮殿だが、人の上に立つとなるとどうかな」
言って、魏延はまた酒を呷った。
「いや、楽しい席にこういう話はやめておくか」
魏延は諸葛亮のことが好きではないのかもしれない。いや、文官自体を嫌っているという節がある。もしかすると、魏延が成都から遠く離れた漢中に置かれている理由は、そういうところにあるのかもしれない。
「しかし妓楼に一度とは寂しいな。本当は、成都に何人か囲っているんじゃないのか」
「いえ、そのようなことは」
言われて、王歓のことが頭を過った。そして魏延に話そうかどうか迷った。
もう洛陽を後にしてかなり経つ。これほど一人の女に未練を残していることを、女々しいと思われたくなかった。王歓のことを忘れたわけではない。触れることもできない女のことをここまで想い続けていることを、おかしいと思われるのが嫌なのだ。そう思われることで、歓との思い出が汚されるような気がした。だがその反面、この想いを誰かに吐露してしまいたいという気持ちもある。吐露することで、一人の女を想い続ける重さを少しでも軽くしたかった。
この魏延という男は、良くも悪くも男臭い。諸葛亮のような男に女の話をしても相手にされないだろうが、魏延のような男になら話してみてもいいのではないか。
「本当は囲っているんじゃないか」
魏延からからかわれるように再度聞かれ、
「実は、洛陽に」
と、王歓のことを話した。
魏延はその話の一々に頷き、笑う素振りなど少しも見せてはこなかった。。
「あまりこのことは、周りには言って欲しくないのですが」
「言わんよ。俺は細かいことは気にしないが、そこまで無神経ではない。今の話は、俺の心の中にしまっておこう」
それを聞いて、王平はほっとした。軍を指揮する者が女のことで悩んでいると兵に知られれば、指揮官としての威信に関わってくる。
「そんな話を包み隠さずしてくれたというのが俺は嬉しいぞ、王平。さあ、もっと飲もう」
嫌な話をしてしまったと思う自分もいる。そんな気持ちが、王平に杯を重ねさせた。
それからの話題は、戦だった。魏延は荊州での転戦と益州攻めの話をした。ほとんどが自慢話のようであったが、退屈だということはなく、王平は聞き入った。戦の話が嫌いだという男はそうはいない。
王平も辟邪隊を指揮していた時の話をした。山岳戦のこととなると、魏延は興味深気に耳を傾けてきた。さすがにこの辺は、生粋の軍人なのだろう。魏延は意外と聞き上手で、夜が更けても二人は戦話に華を咲かせた。蔣琬との対等な関係とは違うが、漢中での友のような人を得ることができたのだと、王平は思った。
翌朝、王平は魏延に連れられ漢中軍の調練を見て回った。しばらく行くと、まだ少年の面影を色濃く残している二人がこちらに向かって拱手しているのに王平は気付いた。魏延がその二人に手招きした。
「こいつらはな、蜀軍の総帥である趙雲殿の子息たちだ。お前ら、挨拶しな」
「趙統です」
「趙広です」
がっしりとした体格に恵まれている兄の統に対し、弟の広は句扶のように小柄であった。体は対照的でも顔が似ているところを見ると、なるほど二人は兄弟なのであろう。
「俺は趙雲殿に頼まれて、この二人を預かっているんだ。こいつらに軍のなんたるかを叩き込んでやっているってわけよ。なあ、お前ら」
「はい」
白い歯を見せながら同時に答えた二人は魏延に懐いているように見えた。一軍を率いる将ともなれば、こういう魅力にも恵まれていなければならないのかもしれない。
「そこで王平に頼みがある。弟の広を預かってもらいたい。先ずは従者として使ってくれればいい」
「わかりました」
夏侯栄のことが嫌でも思い出される。あの時は夏侯栄と接したことで趙顒に散々蹴られてしまったが、魏延はそんなことをしそうにないので気は楽だ。
趙広が、不安そうな顔を見せている。
「何だ、嫌なのか」
魏延が咎めるように、趙広に聞いた。
「私は、魏延殿の下で学びとうございます」
いきなり初対面の男に預けると言われて不安になっているのだろう。蜀軍総帥の子とはいえ、そこはまだ子供だ。
「こら、わがままを言うんじゃない。俺はまだ漢中にいるし、お前も漢中にいる。ただ先生が変わるだけだ。別にどこかに追い出そうってわけじゃねえんだから」
魏延が荒っぽい口調で趙広を諭すように言った。粗野ではあるが、子供に優しいところはあるらしい。
王平は膝を折って趙広と視線を合わせ、肩に手をぽんと置いた。趙広はそれで、直立した。
「そんなに力むことはない、趙広。年はいくつだ」
「十四であります」
「統、といったか、お前は」
言われて、兄の趙統も直立した。
「十五才です」
「そうか。二人ともいい目をしている。俺もな、十五の時に軍に入った。趙雲殿の血を引いているのなら、俺よりずっといい軍人になれる」
言われて、二人はぱっと顔を明るくさせた。
「しかし慢心はいかん。努力を怠れば俺は怒るからな」
二人が元気良く返事した。
「よしお前ら、わかったら俺がいいと言うまで駆けてこい」
魏延が言うと、二人は調練場の方へと走って行った。
「突然のことですまんな、王平。俺が一度に二人を教えるより、一人ずつ教育した方がいいと思ったんだ。こいつらには未来の蜀軍を担う優秀な将になってもらわねばならんからな」
「素直で、良い指揮官になる資質は十分にあると思います」
「そこは、さすがは趙雲殿の子よ。しかしな王平、一つだけ言わせてくれ」
突然、魏延は顔をしかめて王平を振り向かせた。思わず、王平はさっきの二人のように直立した。
「あいつらが戦場で犬死するかどうかは、俺らにかかっている。決して半端な気持ちで接してくれるな」
「こ、心得ました」
「その点、お前は篤実な男だから心配はしていないがな、念のために言わせてもらった。頼むぞ」
「はい」
魏延の顔は、真剣そのものであった。魏延には子がいない。もしかしたら、あの兄弟のことを自分の子供のように思っているのかもしれない。
その日から、王平は魏延の部下として調練の指揮をすることとなった。やることは、成都でしていたことと同じだ。旗を振り、鼓を鳴らし、兵を自在に動かせるようにする。毎日同じことを繰り返し、動き方を兵の体に刻み込んでいった。成都にいた時と違うのは、傍で趙広が身辺の世話をしてくれるようになったことだ。この少年には当然調練にも参加させる。魏延の言葉に従い時には過酷なこともさせたが、どんなに疲れていても一晩眠れば次の日にはけろりとした顔をしていた。それは若さだけがそうさせているのではないということは近くで見ていてよく分かった。心が、強いのだ。
兄の趙統は調練にへばってよく魏延に尻を蹴飛ばされていた。時には目に涙を浮かべながらも必死についていっていた。無理もない。魏延が率いる部隊はいざとなれば蜀軍の主力となる部隊で、その調練は蜀軍の中でも苛烈を極めている。趙統はまだ十五才の少年なのである。
趙統が調練で泣いた後は、魏延は決まって王平のところに酒を飲みにきた。そして他愛もないことを話して帰っていくのであった。王平には、それが何となくおかしかった。
ある日、調練が終わった後、趙広に腰を揉ませていると彼が言った。
「王平様は昔、山岳部隊を率いられていたと聞きました。本当でしょうか」
「そんなこと、誰から聞いた」
王平は趙統のあんまにうとうとしながら答えた。
「魏延様から聞きました」
「嫌な部隊だ。森の中でじっとして、蚊にくわれても蛭に噛まれてもひたすら耐え抜かねばならん」
「それは、普通の部隊とはどう違うのですか」
「そうだな、お前が思っている普通の軍が表の軍だとしたら、それは裏の軍だ。相手の意表を突き、表の軍が勝ち易くなるよう工夫をしてやるんだ」
「今の蜀軍にも、そういった軍はあるのですか」
ある。そう答えようとして、王平は言葉を止めた。あまりこういうことは言わない方がいい。
「何故突然そんなことを聞くのだ、趙広」
「私の体は小柄です。もしかしたら、そういう軍に適しているのではないかと思って」
「余計なことは考えなくていい。お前は言われたことを黙ってこなせばいいんだ」
そう言いながらも、王平の心は少し動いた。
「折角、王平様の下で学ばせてもらっております。そういった技があるのなら是非教えて頂きたく」
「余計なことは考えなくていいと言っている。黙って腰を揉め」
「はい」
趙広はむすっとしながらも、あんまを続けた。
面白いかもしれない。王平は趙広を叱りながらもそう感じていた。だが懸念しなければならないことが一つある。
「趙広がそんなことを言っていたのか」
王平が相談すると、魏延は腕を組んで唸った。山岳部隊の指揮官は普通の指揮官とは違い、部下の先頭に立って敵陣へと斬り込んでいく。当然、討死する可能性は高くなる。諸葛亮がこれを聞いたら何と言うであろうか。
「王平、お前はどう思うのだ」
「正直、向いてはいると思います。教えられたことを吸収する若さもあります」
魏延は、鼻から長い息を吐いた。目を閉じ考え込んでいる。嫌な決断を魏延に押し付けてしまっているのかもしれない。だが王平が独自に決められることでもない。
「そういう指揮官も、これからの軍には必要なのかもしれないな。他の者であれば二つ返事で良しとするところなのだが」
魏延は苦笑いしながら言った。預けられた趙雲の息子を簡単に死なせるわけにはいかない。そしてそれ以上に、軍内の生活を共にして王平は、あの兄弟に対し魏延と同じ感情を持つようになっていた。
「いいだろう。自分でやりたいと言っているのなら、やらせてみろ。そのかわり王平、しっかりと教えるんだぞ」
「御意」
形としては、上官からの許可が下りた。趙広の指導には、大きな責任がのしかかってくることになる。
「趙広、来い」
その日の調練が終わり、井戸の水を頭からかぶっていた趙広を呼びつけた。
「はい、なんでしょうか」
「お前、山岳部隊の技を身につけたいと言っていたな」
趙広の口元に笑みが浮かんだ。
「はい、言いました」
「今日から、お前に山岳戦の技を教える。ただし通常の調練が終わった後にやるんだ。できるか」
「望むところです」
「馬鹿者。軍人の返事は、はいだ」
「はい」
王平はその日から、趙広に血がにじむような調練を課した。森の中でのこごみ歩き、狭い空間での短剣を使った格闘術、そして長時間に渡って体を静止させる訓練。時には動きを止めたまま、陽が落ちてまた昇るまで一睡もさせないということもした。実のところ、辛い調練を課すことで根を上げて欲しいという気持ちもあった。しかし確実に、趙広は王平の技を会得していった。
王平は心配する反面、調練に励む趙広の姿を見て、これはいい指揮官になるという期待を持った。定軍山で死んだ夏候栄も、生き延びていればこんな風になっていたのかもしれない。
趙広は毎日へとへとになりながらも、良い意味で王平の期待を裏切り続けた。始めは苦しんでいた調練は一月も経つと難なくこなすようになり、めきめきと腕を上げていった。趙雲の息子だけあって戦闘の才は多分にあった。
どこかで忍び働きをしている句扶が戻ってきたら、その下に付けてみたいと思った。もしかしたら句扶はこういうことを嫌がるかもしれないが、王平が頼めば嫌々ながらも引き受けてくれるはずだ。
そんなことを考えていると、王平の血は騒ぎ、たまらなく楽しくなった。




