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王平伝演義  作者: 阿雄太朗
蜀軍の王平
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一区切りの死

 蜀軍が東で大敗北した。王平がそれを聞いたのは、調練場で乗馬の訓練をしている時だった。

 東征に向かった荊州出身の兵はほとんど成都に帰って来ず、自然と成都の軍は東州兵と呼ばれる益州出身の兵で占められることになり、巴西生まれの王平はそれで幾らか気が楽になった。出身が違うと気を遣うことが色々とあるからだ。

「背筋を伸ばせ。腹の中に玉があると思え。それを落とさないよう乗るのだ」

 成都軍の長となった趙雲が檄を飛ばす。手綱をほとんど使わず腿の締め付けだけで馬を動かす趙雲の乗馬は見事なものだった。東征の軍が敗北したと知っても心に一切の乱れなく、調練はいつも通りだった。

 王平も趙雲将軍のようにと思い手綱をしばらく緩めてみたが、馬が嫌がりだしたので慌てて手綱を引き締めた。

「お前、何をやっている」

 趙雲に付き従っていた馬謖が目聡く見つけ、馬を寄せてきた。そして手にした竹の棒で王平の背中を打擲した。

「申し訳ありません」

 打たれた背中が熱くなった。何もそこまでしなくてもと思いながらも、王平は軍人らしい返事をした。

「勝手なことはするな。お前の行動一つで一隊が全滅することもあるんだぞ。わかっているのか」

「はい」

「何だその気の抜けた返事は」

 馬謖の竹がまた王平の背中を打った。同じところを打たれたのは流石に応え、王平は顔を歪めた。

「その辺にしておけ、馬謖」

 趙雲が言い、馬謖が舌打ちを一つ残して王平から離れて行った。ひりつきを背に負いながら、王平は手綱を握る手に力を籠めた。

 丞相となった諸葛亮は成都から荊州兵が出て行ったことを契機に軍を一新しようとしていた。劉備の軍から蜀国の軍へ。やや穿った見方をすれば、諸葛亮の軍を作ろうとしていると言ってもいい。人材が少ない中で、軍の中核を担う将校の一人となった王平は、期待されていた。調練に打ち込むことで、洛陽に残してきた想いから生まれる苦しみを消そうとした。それがどうやら周りの目からは熱心に調練に励んでいると見えるようだ。蜀軍は魏を倒し漢王朝の復興を成すためにあると周りの者は言っている。だが王平にとってそんなことはどうでもよく、戦い抜いてまた王歓に会いたいという想いがあるだけだった。

「どう違うというのだ」

 蔣琬はしばしば王平を屋敷に招いて酒と料理を振舞った。今日は文官仲間の費禕も一緒だ。魏で曹操が死んだという話になり、王平が曹操と話をしたことがあると言うと二人は食いつき、曹操と諸葛亮の違いは何かと問うてきた。

「曹操という人は力を外に発しているように見えた。諸葛亮様はその逆だという気がする」

 王平がまだ魏の軍人だったら、諸葛亮を呼び捨てにし曹操に様付けをしていたのだろう。

「確かに諸葛先生は政に関しては非の打ちどころがない。しかし戦を主宰するとなればどうかな」

「お前が言うな、蔣琬」

 蔣琬が握りこぶしを挙げ、費禕が「ひぃ」と言った。

「曹操は、悪童の親玉のような人だった。恐さがあって、その恐さが頼もしくもあった」

「魏は悪童たちがつくった国か。なあ費禕、それなら俺らも悪童の素質を持っているじゃないか。丞相は、俺らのそんなところを買ってくれているのかもしれん」

「俺はお前が恐いと思ったことはないぞ」

「ふん、恐さなんぞ、豪壮な服を着て屈強な兵を並べればそれだけで着くわい」

 この二人は元は博打仲間だったのだという。王平は、費禕とはどういう男かと気構えしていたが、話してみると小気味良く、仲良くなれそうな男だと思えた。

「その曹操は、もうこの世にはいない」

 王平が言った。

「そうだ。その跡継ぎである曹丕は大した男ではなく、欲を抑えることもできず自らが帝になりやがった。これは魏の方からもかなり反発されているようだぜ」

「そして蜀に、魏へと攻め込む口実を与えた。そこで王平、お前の出番よ。戦になれば馬を駆けさせ敵陣に乗り込み、ぱっぱと首級を挙げてくるのだ」

 蔣琬が箸を剣に模して振り、費禕が苦しみ倒れて見せた。なるほどこの二人の調子は悪童だ。

「では、北に兵を向けることとなるのだな」

 蔣琬は頭を振った。

「そういきたいところだが、それには少し時が要る。先ずは呉に頭を下げて同盟を結び直さねばならん。鄧芝のおやじさんがそのために呉に向かったことは聞いているな」

「聞いている。あの人は、文官の仕事もするのだな」

「それだけ蜀は人が不足しているということよ。俺らの先輩である馬良殿も、東征軍の中で死んだ。兵の心を掴むより、民の心を掴むのが上手い人だった」

 費禕が惜しむように言った。

「馬謖という丞相の腰巾着がいるだろう。あいつは馬良殿の弟なのだが、用兵は上手くやるのか」

 馬謖と王平は同じ軍だが会話することはほとんどなく、趙雲や鄧芝のような老練な武将と行動を共にしていることが多い。自分のような生まれの卑しい者のことを嫌っているのかもしれない。

 それより王平は、蔣琬が馬謖のことを腰巾着と言ったことが気になった。

「俺とはあまり関わりのない人だが、軍学は身につけておられると思う。でもあの人は荊州の人だから益州の将兵と折り合いが悪い」

 昼に打たれた背中はまだひりひりしている。

「そんなこと言ったら俺も荊州の出だぜ。趙雲将軍なんてもっと北の出だ。馬謖の場合は性格の問題だな。能力も無いのに人の風上に立とうとするから折り合いが悪くなる」

 蔣琬の言っていることには同意できるが、ここで調子を合わせて陰口を言ってしまえばどこで馬謖の耳に入るかわからない。王平は、苦笑して頷くだけにしておいた。

「あいつは口ばかりだよ。前に馬謖は南の越崔で太守をやっていて、賊の取り締まりも碌にできていなかった。そのくせ年長者に取り入るのだけは妙に上手い。劉備様だけはあいつのことを認めていなかったな。そこは流石は劉備様よ」

「上から見れば使い易いんだろう。命令に忠実なだけなら己の才気は必要ない」

 費禕の口調は穏やかだが、言っていることは辛辣だ。

「馬謖殿の気質は外に向かうものだ。丞相は馬謖殿のそんな性格を使おうとしているのではないか」

「それはあるかもしれんな。しかし軍事をやれと言われても、あれの下ではやりたいとは思わん。絶対にやり辛い」

 蔣琬は元々軍人を志望していて、馬謖に対しての嫉妬も多少はあるのかもしれない。

「呉との同盟が成れば、蜀軍は魏との戦いに備えて南方へと遠征するぞ」

「南へ、何でまた」

「南にはまだ手をつけられていない富がある。東征で乏しくなった蜀の国庫を南からの物資で補おうというのだ。劉備様が亡くなられてから、蜀の法に反発するようになった南蛮どもを鎮めるためでもある」

「俺も従軍したいけど、多分兵站だろうな」

 蔣琬はつまらなそうに言った。

「そうか、北ではなく、南か」

 洛陽とは反対方向だ。戦をやるなら北へ向かってやりたい。蔣琬と費禕は王平の気持ちを察して顔を見合わせた。

「南では戦をしたくないか」

「命令があれば行くさ。俺は軍人だからな」

 蔣琬が言っている通り、できれば行きたくない。南の野蛮な地に行けば、戦で討死しなくても病を得てしまうかもしれない。

 洛陽に帰る前に、よくわからない地で死ぬわけにはいかない。

「南蛮征伐の前に大規模な軍事演習があるのは知っているな」

「知っている。それがどうした」

 蔣琬の顔が、悪戯をする前の悪童のように笑った。費禕が面白そうに蔣琬の次の言葉を待っている。

「馬謖を倒せ、王平。衆目の目で、あいつの顔に泥を塗ってやるのだ」

 それを聞いて費禕が手を打って喜んだ。

「対戦相手の最終決定は丞相がされるが、案を出すのは俺らの仕事だ」

「ちょっと待て、俺が馬謖殿に勝つとどうなる」

「お前は馬謖に嫌われる。それで南方への従軍を拒み北への配属を望めばすんなり話は通る。俺からも、王平は漢中の山岳戦に長けているから漢中に配すべきだと言っておこう」

「もし、負けたら」

「南に行くことになるだろうな。参軍馬謖の部下として」

 見知らぬ地で馬謖にこき使われる自分の姿を王平は想像した。竹の棒で殴ってくるような奴だ。きっと一番危険な所に行けと命じてくるに違いない。

「おやおや、その顔はどうした。命令に従うのが軍人じゃなかったのか」

「命じられればやるさ」

 煽ってくる蔣琬に、王平は吐き捨てた。

「おい、費禕。こいつは丞相の腰巾着にすら勝つ自信が無いらしいぞ」

「何かの冗談だろう。魏軍に勝ち洛陽に帰ろうというのに、丞相の腰巾着にすら勝てないなんて了見があるか」

 苛つく王平を煽る二人。その煽り方が露骨過ぎて、王平は腹が立つのを通り越して鼻白んだ。

「こんなことをしてなんになる」

「そりゃあ決まってるじゃないか。お前が馬謖に勝てば俺らは嬉しい」

「俺を博打の種にするんじゃない」

「しかしお前はどの道勝たねばならんのだ」

「なにを」

「ここからは真面目な話だ、王平」

 散々煽りやがったくせに何を言う。王平はふんと鼻を鳴らした。

「負ければどうなるか、お前はよく知っているはずだ。戦わなければどうなるかもわかっている。だからこそお前は敗色の濃い定軍山で逃げずに戦おうとした」

 逃げてしまえば夏侯栄や王歓に合わせる顔がない。それは死ぬより嫌なことだ。

「違うか」

「それはそうだが」

「なら戦え、王平。何も俺たちは、この博打に負けても王平が痛い思いをするだけだとか、そんな不埒なことを思っているわけではない」

「思っているだろう」

 真面目な顔をした蔣琬が白い歯を見せた。

 しかし蔣琬の言っていることもわかる。馬謖に言われるがままの軍人でいるより、一度噛みついて痛い目を見せておいた方が軍内での居心地は良いに決まっている。軍事演習の機会を生かせと蔣琬は言っているのだ。

「じゃあ、やめておくか」

「やるさ。やればいいんだろう」

 王平は仕方無しに言い、蔣琬は破顔した。


 雨が濡らす永安の森から西へと伸びる寂しい街道を、諸葛亮は己が身を成都へと運ばせていた。その雨は暑さのために湿気となって人の肌へとまとわりつき、その体からはじわりと汗が滲み出ている。

 劉備が死んだ。筵売りから身を起こし、一国の皇帝にまでなった巨人であった。

 蜀から呉への国境を越えた夷陵という地で、蜀軍は大敗した。初めは順調に呉の小城を攻め陥としていった蜀軍であったが、伸びに伸びきった兵站を横撃され、後方を遮断された。そして蜀軍は呉の大軍に包囲殲滅させられたのだった。その中で、諸葛亮が信頼していた馬良が死んだ。一州の統治を任せられる、実に惜しい才覚を失ってしまった。

 かろうじて虎口を脱した劉備は、永安の白帝城まで落ち延びた。

 その報を受け、諸葛亮はすぐに白帝城へと向かった。報せによると劉備は憔悴しきり、明日をも知れぬ命なのだという。

 白帝城に着いた諸葛亮は、劉備の顔を見て息を呑まずにはいられなかった。成都を出た時にほほえんでいた面影は消え、頬は痩せこけ目はくぼみ、まるで十年も二十年も齢を得たようであった。たった一年足らずで人はこうも変わるものなのか。

「孔明か。悪いな、忙しいところを」

 劉備は、隣町のおやじが碁でも打ちにきたかのように言った。それは久しく見なかった、益州を奪う前の劉備の姿だと思えた。

諸葛亮は、深く息を吸い込み、吐いた。

「だから言ったではありませんか。呉攻めは無謀であると」

「そうであったな。全く、孔明の言う通りであった」

「早く養生なさいませ。蜀の国内は私が首尾よく整えております。国力を早々に回復させ」

「よい、孔明」

 劉備の言葉が遮った。その言葉に鋭さはなく、むしろ悲しい程に優しかった。

「もう、ここらでいい。夜になるとな、関羽と張飛がその辺りに立つのだ。よくやってくれた。さすが俺らの兄貴だと、誉めてくれるのだ」

 諸葛亮は言葉もなく、ただ頷いた。劉備のこういう言葉を聞いていると、国を富ますことに没頭していた自分があまりに小さく見えてくる。劉備は一国という財産を投げ捨てまで、友との義に殉じたのだ。文官が自分の国を栄えさせようとすることが下らないはずがない。だが劉備の言葉がこうして心の内を震わせるのは、自分が文官である前に一人の男として、劉備らと共通したものを持っているからだ。

「お前がいてくれるおかげで、こうして死ぬ間際になっても安心していられる。お前はただの文官ではない。わしのような男を理解してくれ、最後までつきあってくれた、優秀な文官だ」

「何を弱気なことを言われます。成都へ帰還なさいませ。そして漢王朝を再興するという志を」

 今度は、諸葛亮が自ら言葉を止めた。劉備がそれを鼻で笑ったからだ。

「分かっておるのだろう、孔明。そんなことはどうでもいいのだ。わしは昔から中山靖王劉勝の子孫だと言っていたが、あんなものは口からの出任せに過ぎん。ただ、人の風下に立ちたくなかった。この世にはびこる、己の信念も持たず、飼われるように生きる人間の一人となりたくなかったのだ。わしは自分の正しいと思うことを曲げずに生きてきた。そして気付けば一国の皇帝となってしまっていた。人の生とは奇怪なものよ」

 劉備が咳き込んだ。もう休むようにという側近を手で制し、続けた。

「数千の上に立つ頭領がわしには調度良かったのだ。一国の民を抱えるには、器の小さな男であった。いつ死んでもおかしくなかった命が今日まで生き長らえた、運がいいだけの男であった。しかしそれは、多くの人たちにとっての不運であったのかもしれない」

「そのようなことはございません。今でも蜀の万民は、劉備様のことを慕っております」

「いいや孔明、わしには分かっているその慕ってくれるものたちの多くの命を、この呉攻めで失わせてしまった。しかしわしがわしであるためには、我侭だと言われようとこうする他はなかったのだ。そしてそのために命を落としていった者のためにも、わしはここで幕を引かねばならぬ」

 劉備がまた咳き込んだ。彼の言葉を止めることができる者は、もういなかった。

「後のことは孔明、お前に全て任す。残ったことは、全てお前に任せたいのだ。最後まで国のことを想い、呉攻めを本気で止めようとしてくれたのはお前一人だったという気がする。お前のようなものが、国の頭となるのが一番良い。国政も軍事も、お前が仕切れ。この言葉をお前への最後の贈り物とさせてくれ」

 諸葛亮は、眼を閉じた。そして乱れそうになる心を抑えた。乱れさせてしまえば、この男の声が聞こえなくなるではないか。

「もしあの世というものがあるのならば、孔明、お前には最高の酒と肉を向こうで用意して待っていよう。そしてお前が好きだったという女には、何かしらの爵位を与えてやろうではないか」

 妙なことを憶えている。そう思うと同時に零れた目尻からの一滴を、諸葛亮は止めることができなかった。

「こんな時に、何を馬鹿なことを」

「ほう、一国の主に、お前は馬鹿だと言うのか」

 骨と皮だけになった顔が、ふっと笑った。諸葛亮は、触れれば折れてしまうのではないかというその手を取って言った。

「馬鹿です。大馬鹿者です。もっと他に色々と言っておくべきことがあるでしょうが。後継のこととか、その下で働く人材のこととか」

「そんなことは、死に逝くわしにとってもうどうでもいい。それも全て、お前の好きにやってくれ。わしがやるよりも、その方がいい」

 そして劉備は少し眠らせてくれと言い、そのまま眼を覚ますことのない人となった。最後の力を、諸葛亮への言葉に費やしたのだった。

 成都に帰る御車の上で諸葛亮は自分の中で何かが変わっていくのを感じていた。

 死んだ後のことはどうでもいいと言いながら、その遺言はきちんとした文章として残されていた。恐らく、東へと進む軍の中でそれは作られたのだろう。それは孤独な作業だったに違いない。それを想うと、諸葛亮の胸は熱くなった。

 歴史の真っ直中に立ってみたかった。それは、蜀を建国した中心人物の一人となることで果たされた夢であった。夢は大きいほど、果たされてしまえば空しいものへと変わってしまう。劉備が死んだという大きな喪失感が、諸葛亮にそう思わせた。

 これから自分は、どのように生きて行けばいいのだ。国を富ませればいいのか。軍を養い魏国に攻め込めばいいのか。蜀のような小国が魏を討てるとは到底思えなかった。魏を討つどころか、蜀国内の情勢すらまだ安定していないのだ。

 劉備は漢王室復興のことを第一義とし、王室を私物のように扱う曹操を最大の敵として転戦を重ねてきた。その意志の集大成が、蜀という国であった。ちっぽけな一人の筵売りが多くの人を動かし、ここまでに至ったのだ。それはどう考えても、信じられない程の偉業であった。諸葛亮はそんな信じられない国を任せられたのだ。

 魏という大国に挑んだ劉備という男がいたことを後世に伝えたい。昔は、知の力によって自分の名を世に轟かせたいとばかり思っていた。今となっては、それは本当にちっぽけなことなのだと思える。金や権力のためでなく、自分の好きな人のために働く。それが男としての生き方なのだと、劉備はこの世を去ることで教えてくれているようであった。

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