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王平伝演義  作者: 阿雄太朗
蜀軍の王平
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成都の蔣琬

 成都城郭内は洛陽内とずいぶん様相が違っていた。中原からこれだけ離れていると、文化自体が違うのである。新しくできた国の人々の活気は凄まじいものがある。街を歩いてみると洛陽では目にしたことのない珍妙な偶像などが露店に並べられており、王平の眼を引いた。成都の城郭内に入るのはこれが初めてだった。

そして街中の至る所に立札があったが王平は読めない。人に聞いてみると「曹家、帝を弑す」と書いてあるのだと言う。自分には関係のないことだった。

 句扶の口利きにより、蜀の軍人として働くこととなった。普通なら喜ぶところなのだろうが、王平の胸中にはまだ洛陽にいる妻への想いがあり、正直に喜ぶことはできなかった。

 成都の軍営内の一室に通され、今日からここで起居しろと言われた。思っていたよりずっと清潔な部屋だった。

 王平を案内したのは蔣琬という年が同じくらいの男だった。口からは、微かに酒の臭いを漂わせている。

「この国はまだできたばかりでな、今は有能な人材を広く集めているのだ。でも使えない人材だと判断されればばっさりと切られることもあるから、油断はしないほうがいいぞ」

 憎まれ口を言うが、嫌な感じのする男ではなかった。蔣琬に連れられ政庁、宮殿と見て周り、軍営へと戻った。やはり軍営内の空気は洛陽のそれと同じような緊張感があり、王平の気持ちを引き締めさせた。

「鄧芝殿」

「おう、蔣琬か」

 将軍の風体をした、小柄な男だった。

「お前は今日からこちらの鄧芝殿の下で働くのだ」

 王平は、頷いた。

「お前が王平か。森の中で兵を上手く使うらしいな。しかしここでは、原野戦のイロハを学んでもらうぞ。軍の命運を担う大事な仕事だ。覚悟しておけ」

 そこで行われている調練は、辟邪隊がしていたような小規模なものでなく、兵を何百何千と並べて行う壮大なものだった。王平は先ずその中の一小隊長として入れられ、太鼓や旗による合図の仕方を徹底して覚えさせられた。兵を動かすことは、合図さえ覚えてしまえばさほど難しいことではないと思えた。これまでは森の中で姿の見えない部下達に指示を出していたのだ。それが原野戦では、見える。ただ兵数が多いため、指揮官の一つの誤りで大軍が混乱に陥る危険が常にある。難しくはあるが、面白い、と王平は感じた。

 夜になると、王平はよく一人で星を眺めた。遠く離れている洛陽の歓も同じ星を眺めているのではないかと思うと、それが慰めになった。

 自分は幸運なのだ。定軍山で失っていてもおかしくない命だった。それが、こうしてまだ生きながらえている。生きてさえいれば希望は持てる。漢中での使役中には死ぬことばかり考えていたが、成都の活気は王平をそんな風に力付けた。

 句扶には自ら会いに行った。どうすればいいか分からないといった顔をしていた句扶であったが、笑顔を見せるとすぐに昔のように戻ることができた。

 調練は、五日続けて一日休む。最初の休暇に、王平は久しぶりに生家に帰ってみることにした。北へ連れていかれたので、実に五年ぶりの帰宅である。

 だがそれを句扶に言うと、句扶は急に困ったような顔をした。

「なんだ句扶、なぜそんな顔をする」

 句扶は、昔のように口の中で何かもごもごと言った。五年間である。その間に何か自分に会えなくなる理由が母にできたのだろうか。それでも王平は生家のある懐かしい村へと句扶を伴って行った。

 母は、見知らぬ男と暮らしていた。そしてその男との間に生まれたのか、まだ小さな赤子をその手に抱いていた。それを見て嫌な感情は湧いてこなかった。あの人には、あの人の幸せがあるのだ。王平はしばらくそんな母の姿を眺め、何も言うことなくその場を後にした。

「人とは変わるものだな、句扶」

 句扶は黙ったままだった。何と返していいのか分からないのだろう。

「お前も変わった。昔は何も喋らず困らされたものだが、ずいぶんとやり易くなった」

「母者は、兄者のことを忘れているわけではありません」

「いいのだ、句扶。もう死んでいてもおかしくない俺が、またここに帰ってこられたというだけで良しとしよう。昔はこの辺で友達とよく駆け回った。あの木を見てみろ、傷だらけだろう。戦に行く前に、木でできた剣で打った時の傷だ」

「あの家の奥では、もう寝たきりとなった婆様がおられます」

「そうか。婆さんもまだ生きていたか。俺が顔を見せたら、驚いてぽっくり逝ってしまうかもしれんな」

 言って王平は低く笑った。いつになく口数が多くなっていた。

「俺はもう何平ではなく、王平なのだ。それを忘れていたわ。これでようやく、心の芯まで王平になれる」

 巴西を故郷とする何平はもういない。俺はもう蜀軍の王平なのだ。洛陽へ帰りたければ、魏軍を討ち果たせばいいだけのことだ。


 繰る日も繰る日も、王平は調練に励んだ。今の自分にとっては、軍を率いて洛陽へ帰るという目標だけが今日を生きる糧となっている。弩の扱いも蜀軍に入って学んだ。一抱えほどの矢を置き、暇さえあれば的に向かって矢を放った。母のように、洛陽で王歓は見知らぬ男に抱かれているのだろうか。それが男を失った女の唯一の生きる道だったとしても、それを考えただけで王平の胸は締め付けられた。弩を構えて的の中心に全神経を集中している時は、そんな想いからわずかながらも開放された。

とある休日、その日も弩の練習に行こうとしていると客がやってきた。

「よう、ここでの生活はどうだい」

 蔣琬である。

「悪くないですよ」

「それは結構。今日は休みなんだろ? 俺も休みだからちょっと付き合えよ。たまには羽を広げて遊ばないとな」

 普段は政庁で働いているこの男は、魏で見た偉そうな文官とは違って気さくであった。

 青い晴天の下、二人で成都の街を闊歩した。城郭内の賑やかさはを見ていると、嫌でも洛陽のことを思い起こしてしまう。

ある飯店の前で、蔣琬は足を止めた。

「ここの肉料理は旨いんだ。香辛料の扱い方が手練れてやがる」

 中に入り、卓を挟んで二人は座った。

「政庁で働く高官も、こんな所で食事をするのですね」

「何を言う。民政をする者が民の生活を知らずしてどうする。しかし高官といっても俺は雑用程度のことしかさせてもらってないんだがね。この間まで田舎町の長をやっていて、仕事もしないで酒を飲んでいるところを劉備様に見つかってこっぴどく怒られちまってな。そのお陰で片田舎から中央に戻ってくることができたんだが」

 料理が運ばれてきた。焼かれた羊の肉に野菜が添えられている。肉は何か固いもので覆われており、かじってみると中は柔らかい肉だった。

「なんですかこれは、辛い」

 外側の殻をかじると、口の中が燃えるように熱くなった。

「はっはっは。そんなにいきなり食ったらいかんよ。少しずつ食わないと。口の中が辛くなったら、野菜を食うんだ」

 言われたとおりに野菜を口に入れ、しばらくの間咀嚼した。いきなりの辛さに驚きはしたが、この辛味は少しずつ食えばなるほど旨いと思えた。

「成都は暑いだろ? だからここの民はこうやって香辛料を使って食物を保存しているのよ」

「蔣琬殿も人が悪い。それならそうと言って下されば良いものを」

「はっはっは、悪いな。しかしお前さんの面白い顔が見れた。でも、旨いだろ」

「確かに、これは旨いですよ」

「そうだろ。休みの日には旨いものを食って、心身ともに休める。俺の師匠がよくそう言っていたものだ。もっとも俺は、休み過ぎて処罰されそうになったがな」

 と言って、蔣琬は香辛料のついた歯を見せながら笑った。

「師匠とは、諸葛亮様のことですか」

「あの方のことではない。いや、あの方も俺の師匠ではあるのだがな。劉備様に昔から付き従っている簡擁って人がいてな、前に日照りが続いて旱魃になった時に禁酒令が出されたんだ。そこで酒を造るための道具を所持することも罰すべきかどうかで議論となった。そしたらあの人、こう言うんだ。『私は今日、街中で二人の男女を見ました。私はどうしてこの二人が処罰されないのかが不思議でたまりませんでした』その場にいた全員がきょとんとした。すると続けて『二人は淫らな道具を持っているではありませんか。それは酒を造る道具を所持することと何が違うのでしょう』ってさ」

「ふむ。それで、どうなったんですか?」

「一番笑ったのが劉備様でね。それは仕方のないことだって道具を持つだけなら罪にはならないということになったんだ。俺は、そういう冗談を言えてこそ本当に良い仕事ができるのだと思う。まだその人の面白い話はあるぞ」

 酒も回り始め、しばらく二人は談笑した。蔣琬の話は面白く聞いていて飽きず、王平はここしばらくなかった心地良さに包まれていた。

 かなり長い時間が過ぎ、日もずいぶん暮れてくると二人はそこを後にした。

「じゃあ女でも抱きに行くか、王平」

「女、ですか」

 楽しくはあったが、王平は素直にそれに乗ることができなかった。

「なんだお前、女を知らんのか」

「そうではありません」

 からかうように言う蔣琬を、王平は否定した。

「では何だと言うのだ」

「私には、その、妻がいまして

「ふうん、真面目なんだな。じゃあついてくるだけならいいだろ? 一人っきりじゃ寂しいしよ」

「じゃあ、ついていくだけなら」

 体が女を求めないわけではない。求めようにも、それ以上の罪悪感が心の底から湧いてくるのだ。それは歓に対してであり、戦場で死んでいった者に対してである。

 蔣琬はよくここに来ているのか、妓楼の主人は満面の笑みで迎え入れてくれた。そして、二人は奥の一室へと通された。

「王平、これをやったことはあるか」

 蔣琬は懐から包みを取り出し、それを王平に開いて見せた。乾燥された植物だった。

「麻、ですか」

「そうだ。よく知ってるじゃないか」

「漢中で、これを勝手に吸っていた者が首を落とされていました」

「麻は官営だからな。塩や鉄と同じで、許可なく使えば処罰される。この麻や塩や鉄が金に変わって国庫に入り、お前さんら軍人の武器や具足となるのだ。軍人なら、おぼえておくべきことだな」

 宿の主人が筒を二つ持ってきて、二人に渡した。筒の片方に麻を詰めて火を点け、もう片方に口をつけて吸う。蔣琬は手馴れた吸いっぷりで、ふうっとうまそうに煙を吐いた。薄暗い宿の中で、蔣琬の長くも短くもない髭が妖しく揺れた。

「心配することはないぞ。これはちゃんと金を出した買ったものだ。これを吸ったからといって、お前が見た某のように首を斬られることはない」

 早くも眼をとろんとさせた蔣琬が楽しそうに言うので、王平も麻に火を点け煙を吸った。それを見届けた蔣琬は満足そうな顔をして、

「じゃあ、俺は行ってくるからな」

 と、宿の奥へと消えていった。

 遠くから誰かの歌が聞こえてくる。香も微かに匂っている。歌も匂いもとても心地の良いものであった。今日は楽しい一日だった。しかし楽しいことがあれば、必ず思い出すことがある。王双や辟邪隊の皆や、洛陽の歓のことだ。特に歓は今この瞬間も苦しみながら生きているのではないか。そしてもう生まれているはずである俺の子は、どうしているのか。俺にこのような楽しい思いをする資格があるのか。王平は滾々と湧いてくる苦悩に頭を抱えさせられ、

「こんな所で何をしているのだ、早く洛陽に帰らなければ」

と地面を見つめながら何度も呟いた。今日はもう帰ろう。そう思い顔を上げたと同時に、声をかけられた。

「どうされましたか」

 いつも間にか、隣に女が座っていた。女は妖艶な笑みを浮かべながら、王平の太腿に手を当ててきた。王平の体は、自分の意思とは関係なしに力強くそれに反応した。歓。いや違う。歓は洛陽にいるはずだ。ああもうこいつが歓でいいではないか。上手く考えることができず、体が求めるままに両腕でその女を抱き寄せ、その口を吸った。女の唇はまるで他の生き物のように絡み合い、気づけば誰もいない暗い一室に身を移していた。女の手に弄ばれた王平は、そのまま強かに精を放った。精を放つと、歓の顔が頭の中に浮かんできた。すまん。そう口の中で呟くも、王平の内側からは悲しいほどに女への欲が湧き上がってくるばかりだった。女を押し倒した時、王平は自分が泣いていることに気がついた。女が、どうして、という顔をしていたからだ。王平は眼をつむって女の中に入った。目蓋の裏には、歓の顔があった。温もりも柔らかさも歓とは違うと分かっていながら、王平は何度も歓の名を叫んだ。そして、その偽りの歓の中に精を放った。

 気づけば既に朝で、窓からは差し込む穏やかな光が王平の寝顔を照らしていた。女はもうそこにはおらず、昨晩の酔いの名残りとほどよい気だるさをまとい、知らぬ間に昇っていた階段を下りた。下の卓には蔣琬がいて、はつらつとした顔で旨そうに粥を啜っていた。

「おう、王平。昨晩はよく眠れたかい」

「蔣琬殿、こうなると分かっていてここに連れてきましたね」

「はっはっは、そう難しい顔をするな。この妓楼で一番いい女を抱かせてやったというのに。お前があまりに気張った顔をしていたから、息抜きをさせてやろうと思っただけよ」

 王平も卓につくと。すぐに温かい粥がだされた。粥を口の中に入れると体の内から染み渡り、うまかった。

「しかし、夜中に叫び声を上げるのはちと野暮だったな。歓さんってのは、洛陽にいる妻のことかい」

 言われて、王平は赤面した。あれだけ叫んだのだ。聞こえていたのは蔣琬だけではなかっただろう。

「まあ良いではないか。いきなり成都まで連れてこられて、たまっていたものが無いという方がおかしいのだ」

 そう言い繕ってくれる蔣琬の顔は、少しも笑っていなかった。

「叫び声のことは気にするな。声は聞こえていても顔までは分からんよ。知っているのは俺とここの主人くらいだよ」

 水を運んできた主人が、心配するなという眼を王平に向けていた。

「女など全て同じだと思えるようになればどれだけ楽になれるだろうって、たまに思いますよ。でも一人にこれほど縛られる馬鹿な男も、この世にはいるのです。全く、私にはあなたが羨ましい。皮肉じゃなくて、本当に心からそう思いますよ」

「ほほう、なかなか喋るようになったじゃないか。お前はそう言うが、俺だってお前のことが羨ましいんだぞ」

「何がです」

「それだけ一人の女に惚れることができることよ。俺にも妻はいるが、ただ口うるさいだけの女だ。お前のようにはなれん」

「融通がきかない性格だ、というだけのことですよ」

「それともう一つ、女のことではないがな」

 蔣琬は器に残った粥を口の中にかきこんだ。

「お前は兵を上手く指揮する。俺も男だ。男は戦場で戦うものだろう。しかしどうも俺はそっちには向かないようでな」

「兵を指揮するということは、部下を殺すということですよ。それを分かって言っていますか」

「分かっている。いや、本当のところでは分かっていないのかもしれんな。諸葛先生は俺のそんなところを見透かしているのかもしれん。ただ、男は戦場で潔く死ねばよいとは本気で思っているよ。いくら諸葛先生にそれを言っても相手にもしてくれん。あんまりしつこく言っていたら、田舎に飛ばされてしまった」

「それは、俺が女のことで悩んでいることとは種類の違うことです」

「男は大なり小なり、自分に劣等感を持っているってことよ。そしてそれが、時に男に良い仕事をさせる。これも先生の受け売りだけどね。俺はお前の劣等感を知った。だから俺も自分の劣等感を話した」

「そうですか。そんなに悩むことでもないと思いますが」

「まあ人の劣等感なんて他人にとってはそんなものだ」

 俺の悩みも他人にとっては小さなことなのだろうか。王平はそう思った。

「そういえば、昨日の麻の代金がまだでした」

「なんの。欲しくなったらいつでも言いに来い。政庁にいる王連という人のところに行けば買うこともできる。頭の固いおやじさんだが、金を払えば黙って渡してくれるだろうさ」

 宿の外が騒がしくなってきた。この街は、朝から元気が溢れている。それも、蔣琬ら文官の働きのおかげなのだろう。

「ところで、そのかしこまった話し方はなんとかならんか。俺らは歳もそう離れていないし、もっと気楽な仲になろうや」

 蔣琬が、窓の外の喧騒さに眼をやりながら言った。

「……わかった、蔣琬。これから呼び捨てにさせてもらうが、後で文句は言うなよ」

「はっはっは、そんなことは言わんよ。ところで王平、今朝の調練はいつからなのだ」

 すっかりそのことを忘れていた。

「いかん、もう調練が始まっている時間だ。早く行かなくては」

 王平は器を傾けて残った粥を飲み干し、腰を上げた。

「鄧芝殿には俺から上手く言っておこう。俺が引きとめたのだとな」

 王平は口に粥を入れたまま頷き、宿を飛び出し軍営へと走った。走りながら、自分は麻の金どころか宿の代金まで払っていないことにきづいた。しかし蔣琬は快く払っておいてくれるのだろう。次に会うときにはそのことでいびられるのかもしれない。それも悪くはないかもしれない、と王平は思った。


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