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王平伝演義  作者: 阿雄太朗
蜀軍の王平
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王平と諸葛亮

 魏との漢中争奪戦を制し外敵を退けたものの内なる敵は消えたわけでなく、戦時を脱した後に句扶は益州領内に潜む反劉備勢力を排除するため動き回っていた。

 山中に潜む技がそのまま暗殺の技として使えると観たのは、蜀の主となった劉備とその右腕である諸葛亮という男だった。暗殺を卑怯なこととして忌み嫌う者はいるが、句扶にそういった抵抗感はない。人を殺すことが好きだというわけではない。物事の道理を無視する者や、何かにつけて反対意見ばかり言っている者を見ると虫唾が走る。死んだ句扶の父も、そういった種の男だった。

 暗殺を決行する時は、相手を父だと思い定めて殺した。幼い頃に散々暴力を振るってきたあの害悪を葬れるのならそれに抵抗感などあるはずもない。劉備と諸葛亮が、句扶のそんな性格をよく見抜いていた。

 句扶の暗殺部隊は五人で一組であり、情報を集めて工作するのが四人でその中には女も一人いる。そして直接手を下すのは句扶の役目で、その役柄上、句扶は自然とその中の隊長格となっていた。諸葛亮から任務が届けられると、商人や農民の格好をした四人から句扶へと情報が送られ、隠密に殺した。

 一人を殺すのに、句扶は一月を費やし確実に殺した。部下に標的の行動を徹底的に調べさせ、確実に一人となる時に誰にも知られないように消す。それは決して表沙汰になることではなく、誰からも称賛される仕事というわけでもなかったが、この暗殺のために益州が急速に安定してきているという実感はあった。句扶にとっては、その事実だけで十分であった。

 成都の商店が並ぶ通りの一端に人知れず句扶の棲家はあり、そこでごろごろしていると乞食の身なりをした者が次の任務を伝えてきた。

 任務は諸葛亮を主とする漢中視察団の護衛であった。それを聞いて句扶は胸を明るくさせた。漢中には、まだ死んでいなければ、王平がいる。漢中での労役は過酷であると聞いているが、王平なら必ず生きていると句扶は信じていた。

 句扶が勤める護衛とは諸葛亮の近くに侍ることではなく、諸葛亮が通る道から目に見えない脅威を排除しておくことである。主要な街道周辺の反抗的な豪族は既に句扶が殺している。諸葛亮が直接街道を行き句扶を配することで、さらなる反乱分子を炙り出そうとしているのだろう。

 漢中は天然の要塞だった。周りは高い山々に囲まれ、漢川を主軸とした水路がその山々に深い切り込みを入れ幾筋もの外堀となって侵入者を拒んでいるかのようであった。だがそれは劉備軍が漢中から北へと侵攻する際の障害にもなる。蜀軍兵の通行を容易ならしめるための工事を視察しに行こうというのだ。

 漢王室の復興が劉備の持つ大義であり、北の魏を倒し曹操が形骸化させた漢の帝を擁して中華を再統一することを目指している。漢中から北へ行くと古都である長安があり、そこから東へ進むと洛陽、そのさらに先に帝のいる許昌がある。先ずはこの山脈を通行可能にすることが劉備軍の戦略の第一歩だった。

 諸葛亮の視察団は何事もなく漢中に到着した。漢中ではたくさんの人が働いており、たくさんの物資が運び込まれている。周辺からは富の匂いを嗅ぎつけた商人が集まりそこでの労働者を相手に商いをして、そのため市場を中心とした簡素な村が点々とでき始め、またそこへと人が集まってきている。

 無事に諸葛亮を政庁に送り届けると、句扶は王平を探した。ここで監督をしている魏延の元で働いている王平の姿を見つけるのにさほど時間はかからなかった。王平に会うことを楽しみにしていた句扶であったが、彼に対する暗澹とした負い目も同時にあった。戦だったとは言え、王平が率いていた辟邪隊を壊滅させたのは、他でもない句扶だったからだ。


「兄者」

 成都から届いた物資の積み降ろしをしていると、肩越しから細い声が聞こえた。顔を見るまでもなく分かる声だった。王平の胸に、一つ大きな鼓動が打ち鳴らされた。

 句扶に会えばどんな顔をすればよいのか。死ぬことばかり考えていた合間に、そんなことも考えていた。自らの手で育ててきた辟邪隊を壊滅させたのは、この男なのだ。戦だったのだとは分かっている。だが戦だったからと言って、辟邪隊を壊滅させた者と親しくして、死んでいった仲間達に面目が立つというのか。

 声がした方を向いて句扶の顔を見たが、やはり何も言葉はでてこなかった。

「兄者、よくぞお元気で」

 王平は、天を仰いだ。

「なぜ殺さなかったんだ」

 答えることのできない質問だとは分かっていた。しかし、言わずにはいられなかった。句扶は押し黙っていた。その表情は悲しんでいるのかどうか、何も読み取れない。

「どうした王平、知り合いか?」

 具足の音を立てながら魏延がやってきた。王平は、無理矢理笑みをつくって小さく頷いた。

「なんだ、意外と顔が広いんだな。俺はこれから諸葛亮殿と話をしてくるから、その間だけなら休憩しててもいいぜ」

「ありがとうございます」

 魏延は馬鹿でかい声で休息の号令をかけ、のしのしと歩いていった。周りの人夫が働く手を止め一息つき始め、王平と句扶だけがその場に残された。目の前の友に言ってやりたいことは山ほどある。しかしその口からは何一つとして言葉が出てこなかった。草むらで鳴く虫の声が、やけに耳障りだった。

 気付くと、泣いていた。自分でも驚くほど、それは唐突なものだった。一度溢れた涙は止められるものではなく、王平は膝を折って手で顔を覆った。

 憎めるものなど何もない。憎めるものがあれば自分はこんなにも悩み苦しむことはなく、こうやって女のように泣くことだってない。ならばこの気持ちは、どこに向かってぶつければいいというのか。

「俺のことを、殺しますか」

 それはとても穏やかな声であった。

「違う。そうじゃないのだ、句扶。俺は」

 俺は、何だ。仲間を守れず、女一人幸せにできなかった負け犬ではないか。殺されるべきは自分の方ではないか。何を言っていいか分からなくなり、句扶もただ黙然としていた。体を丸めた王平の目蓋の裏には限りない暗闇が広がっていた。優しい言葉が欲しかった。何でもいい。瞳を閉じて暗闇の中にいると、暗闇の向こうから王歓の声が聞こえてくるような気がした。しかし、気がするだけで何も聞こえない。暗闇の中に、自分だけがぽつんと残されていた。何故、句扶は俺の仲間を殺さなければならなかったのか。何故、俺が句扶を殺さなければいけないのか。何故、俺は俺のことを殺すことができないのか。

「おい」

 野太い声がして、王平は我に返って顔を上げた。するともうそこに句扶の姿はなく、代わりに魏延の大きな体があった。

「何やってんだ、お前。泣いてやがるのか」

 王平ははっとしてその場を取り繕うとした。

「いえ、目に砂が入っただけです」

 王平は直立して答えた。

「おかしな奴だな。まあいい。諸葛亮殿がお前のことを呼んでいたぞ。今からすぐに行ってこい」

「えっ」

「要件はよく知らん。まさかお前、また隠れて麻でも吸ってたんじゃないだろうな。ともかく早く行ってこい。失礼な態度だけはとらないようにな」

 魏延の大きな両手が王平の肩を押した。

「わかりました」

 魏延があっちだという方へ行き、見張りの衛士に案内してもらい、『蜀』と大きく書かれた旗がはためく幕舎の中へと通された。そこは、意外なほどに豪奢さがなかった。壁にはこの辺り一帯の大きな地図がかけられており、羽でできた扇を手にした背の高い男がその地図をじっと見つめていた。虎髭将軍や魏延とは違って芯は細いが眼光は鋭い。名は、諸葛亮。魏延が益州内の民政の元締めをしていると言っていた人だ。どこかで見たことがある、と王平は思った。羽の扇を見て、朴胡と劉備軍を見物しに行った時に見たあの人だ、と思いだした。

 じっとこちらを見つめてくる諸葛亮の眼には異様な迫力があって、王平は気後れした。それは、曹操が持っていた恐怖を感じさせるそれとは違う種のものである。王平は曹操と対面した時と同じように拝礼し、名乗った。

「お前は、辟邪隊という山岳部隊を率いていたことがあるらしいな」

「はい」

 罰せられるのか。麻を吸って落とされた首が頭によぎり、死ねばいいと思っていたくせに恐怖が胸の内から湧いてきた。その心の内を読み取ったのか、諸葛亮は小さな笑みを見せながら続けた。

「我等は益州に蜀という国をつくり、新しい軍を編成している。その軍に、お前も加わってみる気はないか」

 意外なことを言われ、王平は耳を疑った。

「私は蜀軍の敵でありました」

 そんなことは分かっている、とでも言うように諸葛亮は首を振った。

「句扶という者を知っているな。お前を推薦してきたのは、お前の友人である句扶だ。下弁で我が軍をかく乱した手並みは見事であった」

 言葉では褒めてくれてはいるが眼は笑ってはいない。曹操に褒められた時は嬉しかったが、やはりこの男は曹操とは違うようだ。

 諸葛亮の冷たい眼が答えを待っている。答えによれば殺されるかもしれない。軍人として扱われるということは、つまりはそういうことなのだ。洛陽に残している家族のためにも、まだ死ぬわけにはいかない。

「有難き御言葉に御座います。私のような者を取り立てて下さるというのなら、粉骨砕身のつもりでこの身を捧げます」

 洛陽で覚えたこんな言葉使いも、もう慣れたものだった。

「そうか。そう言ってくれると助かる」

 その時、後ろから誰かが慌しく入ってきた。その男は、王平の背中を押しのけながら言

った。

「先生、このような下賤の者と、一人きりで会ってはなりません」

「誰に会おうと私の勝手であろう」

「どんな不測の事態があるやもわかりません。先生の御身は既に先生だけのものではなく、蜀国のものでもあるのです」

 王平より幾らか年が上に見えるその男は、いからせた眼を王平に向けてきた。

「お前はいつも大袈裟過ぎるのだ、馬謖」

 王平は直立したまま、そのやりとりを聞いていた。

 まだ何か言う馬謖をいなして諸葛亮は王平に向き直した。

「ところで王平、お前は兵法をどこで身につけた」

「洛陽近郊の森の中で調練を積み、そこで様々なことを試しながら身につけました」

 馬謖と呼ばれた男が諸葛亮の隣に座った。そしてあからさまに警戒の眼をこちらに向けている。

「独学か。それはたいしたものだ」

「それと、史記を少しばかり知っております」

「ほう、史記か」

 歓に読んで聞かせてもらったことを少しでも役立たせたかった。それはどんな小さなことでもいい。歓がしてくれたことは無駄ではなかったのだと、どこかで証明したかった。

「私は文字が読めませんが、私と親しい者がそれを読み、聞いて学びました。中でも楽毅という人物が好きです」

 それを聞いた諸葛亮の口元が少し笑ったように見えた。

「楽毅なら私もよく知っている。楽毅のどんなところが好きか、言ってみろ」

 しばらく、二人は楽毅のことで話し込んだ。諸葛亮は一国の高官だけあり深い知識を持っており、王平が知っていることから知らぬことまでこんこんと話し続けた。いつの間にか、諸葛亮の眼から冷たさが消えていることに王平は気付いた。話が合えば気は解れる。この冷たそうな男も人の子なのだ、と王平は思った。

「先生、そろそろ」

 隣で黙って話を聞いていた馬謖が口を挟んだ。

「少し長く話し過ぎたかな」

 はっとした諸葛亮は居住まいを正し、話に一区切り打った。冷たくても気に障ることは何も言われず、嫌な印象は持たなかった。

「成都へ来い、王平。句扶と同じく、しばらく私の下で働くのだ」

 王平は恭しく礼をして幕舎を出た。おかしなことになってきた。漢中で人夫として死ぬのが関の山かと思っていたが、まだまだ軍人として生きていかなければいけないらしい。歓に読んで聞かせてもらったことが役に立ったのだろうか。

 幕舎を出ると心配そうな顔をした魏延が待っていた。

「おい、何を言われてきたんだ」

「諸葛亮様の下で兵になれと言われました。漢中戦で私が山岳部隊を率いていたことを、あの御方は知ってくれていたようで」

「そうか、そりゃよかったじゃねえか。浮かない顔をしてるからって心配して損した。元々お前はそんな顔をしているのだな」

「幸は薄い方だと思います」

 そうだろう、と魏延は大笑して王平の背中を数度叩いた。

「お前を他の軍に取られるのはちょっと惜しい気がするが、北へと進攻する時はお前と協力することもあるのかもな。その時はよろしく頼むぜ」

「私のような者に好意をかけてくれたことに感謝します。私はここで死ぬことになるのだろうと思っていましたが、もう少し頑張ってみることにします」

「お前は運がいい。戦場ではな、お前のような強運の持ち主が強かったりするんだ」

 運がいいことなどあるものか。王平は心の中でそう呟いた。


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