第四十一話 『時渡し-02』
生物の気配は消え失せた静かな講堂をひた歩く。
膨大な聖気の、残り香だけが微かにレイヴン達の鼻腔をくすぐっている。
むず痒いような違和感程度でしかない聖の気配は、レイヴン達の足取りに影響を及ぼすものではなかった。
ガーネットの能力により神殿の内部へと降り立ったレイヴンは、道すがら見覚えのある景色を我が物顔で進んでいた。
聖たる神殿が魔が者達を拒めたのは、最早聖剣の間へと続く大通りのほんの間口まで。
目線の先に捉えた豪奢な扉、その距離が聖剣の残した気で拒まれた隔たりに過ぎない。
それすらレイヴンの勇んだ足取りを落ち着かせるだけのお膳立てに過ぎないのだとすれば、彼の神殿も聖剣の容れ物以上としての価値は失われたことを物語ってい るのだろう。
どこか機嫌良さげにすら見えるレイヴンの足取りは軽やかに進んでいく。
相対的に、歩が進むにつれクロノスは独りでに眉間を寄せていた。
「――見ろ、クロノス。アレはファントマがやってみせたのだぞ」
豪奢な扉の隙間から垣間見える異形。
鼻腔にこびり付く死臭で思わず顔をしかめたクロノスは、興奮気味なレイヴンの語気に平静を装う。
凄絶な死闘を裏付ける痕跡に彼の男の活躍ぶりを想見しつつ、視覚が捉える醜悪な状況への嫌悪は隠しきれなかった。
「……流石、としか言い様もありませんね。私の力では剣を突き立てることが出来てもあの異形から命を奪うまでは難しい。彼の膂力があってこそ、そしてその適材を見抜いたレイヴン様の素晴らしき慧眼に感服するばかりです」
「そう。そして次は――お前の出番だ」
レイヴンの尊大なエスコートがクロノスを誘う。
穿たれた地に散乱した瓦礫の転がる空間へと、急き立てられたような足取りで邁進する。
倒れ伏した異形の横を一瞥も下すことなく素通りし、刀身だけが正確に残された台座の下へ。
美しくさえ思う光沢を纏った刃が鎮座し、その傍らで手折たれた柄は雑に転がっていた。
「見ての通りだ。強引な力任せでは、引き抜くことも出来ん。まして我々魔族の手では尚更の事、己の力を過信した自惚れの結果がコレさ」
決して相容れぬ存在、故に世の摂理を体現している。
この状況こそ正に聖と魔の反発し合う性質を表した図式とも言えよう。
誰しも虚空が掌をすり抜けるのと同然に、魔の者に聖剣を掴む事など出来ないのだ。
揺るぎないその事実をまざまざと見せつけられた上で、クロノスに思い当たった次なる下命への疑問はいささか残る。
そしてその予見に違う事なく、レイヴンの口は悠然と開かれた。
「……クロノス、お前の能力で聖剣を元に戻してもらいたい」
何の面白味もないほど予想通りに、簡潔な命令だった。
何処か遠慮がちで、されど淡白に紡がれた言葉は素直にクロノスの耳へと染み渡る。
「御意のままに」
現地に赴いてより強固になった疑問が解決されることはない。
しかし、クロノスもまた淡々と仰せつかる。
能力を失うことへの畏れは微塵も感じさせなかった。
健気なまでの忠誠が懐疑すらも掻き消す。
この場に勝算もなく立っているはずのない君主の、その一挙手一投足こそ疑問の答えとなるだろう。
レイヴンという存在こそ、クロノスが躊躇いもなく身を投げ打つ事の出来る由縁である。
「今一度ここに誓いを立てましょう。我が身、我が能力は生涯レイヴン様に捧げます」
能力を失う、覚悟を問われるその瞬間にクロノスは契りと共に表情を綻ばせた。
今更口にするまでもない決意が、魔法の発光作用により具現化する。
クロノスがかざした掌の下で聖剣は光りに包まれた。
もはや後戻りも利かぬ状況、あるいは、聖と魔の反発し合う性質が聖剣を復元するに至るまでクロノスの魔力を保たせてくれるのかさえ定かとも言い難い。
それでも悲観的な可能性は度外視し、レイヴンの慧眼を裏切らない為クロノスは人事を尽くすのみ。
全ての意識を聖剣へと向け、聖の気が強まっていく毎に徐々に復元していく手応えを掴む。
肌に纏わりつく気が生み出す灼けるような不快感。
その苦痛の中、クロノスの掌の下で聖剣は着実に元の姿へと生成されていく。
地に転がる柄は光に溶け、一振りの剣を模した光が刀身を包んでいる。
そして聖の気に圧されそうになっていく最中、クロノスを襲ったのは違和感と焦慮だ。
時を操るという禁忌に触れる当事者であるからこそ、クロノスが目ざとく嗅ぎつけた違和の正体をいち早く諭す。
「……レイヴン様、お気をつけ下さい。どうやら私の能力では、この聖剣と彼の異形との癒着は断てないようです」
生物の気配は失ったはずの神殿。
背筋を這う鼓動が、生命の息吹を裏付けた。
「――レイヴン様……!」
半身を翻したガーネットが僅かに声を荒げて警告する。
彼の異形を討ち倒した者はこの場には居ない。
その焦慮が胸中を埋める中、ガーネットの視界には今まさに巨躯を起こす異形の姿が映っている。
傷痕のない粗大な図体が、明確な敵意を剥き出しにしていた。
聖剣という、それ自体に結びついた生命の存在をクロノスの能力では拒絶出来ない。
時を操る禁忌の代償とでも例うべき危難を予見し切れなかったことにクロノスは独りでに気が咎めた。
「まあそう慌てるなガーネット。クロノス、手を休めるなよ。俺が相手をしてやろうとも」
迫る脅威に対し背を向けたままレイヴンは悠然と口を開く。
蘇りつつある息の詰まるような聖の気配に相反するその落ち着き様が両者へこの上ない安堵を与えた。
「――聖域ヲ犯ス者ニ、裁キヲ……!」
言葉少なに、されど闘争の意志で満たされた息遣いに最早歯止めは利かない。
対話の余地もなく襲い掛かってくる聖域の番人とは対照的に、尚もレイヴンの視線は変わらず聖剣を睨んでいる。
剣の形に復元されていくその様を眺めながら、ようやく半身ほど翻したレイヴンを襲う圧倒的な膂力。
忽然、レイヴンのかざした掌は今正に衝突しようとする異形の拳へと向けられた。
「……邪魔だ」
それは、さながら服についた埃でも払うかのように。
ほんの手の先ほど触れ合った瞬間、言葉の短さに反する絶大な威力。
その一部始終を見ていたはずのガーネットが認識したのは、レイヴンから放たれた魔力の痕跡のみだった。
伸ばしたはずの拳の肩口までを失い、吹き出した己の血溜まりの上で茫然と立ち尽くす異形。
レイヴン以外の三者が一様に状況を理解出来なかったのは同じことだ。
暫時続いた静寂にレイヴンが嘯く。
「今、良いところなんだよ。黙って見ていろ」
あるいは、純真なまでの本心なのか、言葉の端に垣間見える苛立ちがありのままの真意を裏付けている。
身勝手な言い分に従うしかない威圧感と片腕を失った事実が異形から言葉を奪った。
「フッ……ウウウウゥゥッ!」
状況に理解が追いつき、ようやく腹の底から捻り出したうなり声は番人という立場が出させただけに過ぎない。
圧倒的な彼我の差を知りながら手を止めることの出来ない大儀が強張った巨躯を強引に動かした。
「――黙れ、と言ったはずだ」
短い言葉と共に放たれた魔力が理不尽に遮る。
異形の身体が再び臨戦態勢へと移るよりも早く、胴体にあいた風穴は大儀への不義に直結する。
くり抜いたように均整な肉の大円が巨躯の背後を透かしていた。
レイヴンはゆっくりと倒れていく巨躯から透ける景色の変化を見届け、何事もなかったかのようにまた身を翻す。
淡白なまでのその佇まいに賛辞さえ憚られたが、レイヴンの苛立ちを紛らせる為にガーネットが敬服する。
「お見事です」
ガーネットもまた淡白に、それ以上の賛辞が過言になるほどレイヴンの気変わりも早かった。
レイヴンは半ば義務的な奨励に鼻で笑い、冗談混じりに吐き捨てる。
「せめて聞き分けが良ければペットくらいにはなったかもしれんな」
それっきり一瞥することもなく、レイヴンの関心が聖剣を勝ることはなかった。
その内に剣を模した光は徐々に落ち着き始め、やがて鮮明に元来の姿を象っていく。
寸分と違うことのない以前見たままの象形。
レイヴンには蘇った肌に焼け付いてくる聖気の感触さえ心地良く思えた。
傍らの二人がその息苦しさに堪えていることなど露ほども知らず、ただ己が欲求に忠実に独善へ陥る。
「ご苦労だクロノス。今度は、俺の出番だな」
ファントマ、クロノスと紡ぎ、今再びレイヴンの目の前に現れた聖剣を手に入れる機宜。
片や傷付け、片や能力を奪ってまでこの瞬間を迎えることにレイヴンの血が騒いだ。
奮い立つ身体、それでも、冴え切った頭が冷静に抑制する。
「……二人とも、下がっていろ」
魔力の消費による疲労で肩を上下するクロノスの前へ、聖気を浴びる二重苦への気休め程度庇うように割って入った。
肩口越しに覗いたクロノスは自らの手元に目線を落とし何度か拳を握り込んでいる。
その手元に残された僅かな感覚を確かめているのだろう。
改めて聖剣へと向き直ったレイヴンは、背後から聞こえる荒い息遣いの声を無視することはできなかった。
「――今更無礼は承知の上で、一つお聞かせいただけますか?」
「構わん、言え」
「今この場を持って、私はこの能力の大半を失いました。予想していた通りに、どうやらそれは紛れもない事実のようです」
「……そうか」
「どんな答えでも後悔はありません。後戻りすることも出来ない今こそ、敢えてその真意をお尋ねしたいのです」
至極当然の疑問、故に、能力を失ったなりの対価を求めることもまた当然の権利だ。
その理由がどんなに陳腐なものであろうと、よもや後悔は先に立たない。
失意や疑念を抱く可能性を残して能力を手放すことも厭わぬ忠義、最早取り返しのつかないこの状況に敢えて今という覚悟が理屈をこねる気さえ削いだ。
レイヴンの深層心理に潜む勇者としての二面性がこの瞬間ほど煩わしいこともないだろう。
魔王としての言葉に変換しなければならないもどかしさが、クロノスの覚悟と向き合う本心に矛盾する。
「――いくつかの可能性がある」
忽然、語り出すレイヴンは曖昧な言葉を選んだ。
聖気が魔族の身体にとって毒気となる圧力を吐き出し続ける最中、クロノスは悠長に復唱する。
「可能性、ですか」
「例えば、人類にお前と同じ能力を持つ者が居るとすれば?」
曖昧な言葉選びから一転したレイヴンの具体的な例え話。
自らの能力をなぞられた発言にクロノスは感銘を受けた。
他に類を見ぬ能力、故の自惚れに気付かされる。
可能性と引き合いに出した、その脅威を考慮出来なかった自分にクロノスは四忠臣としての立場を恥じるしかない。
己の能力に対する特別感など無い、という傲慢が生み出した浅はかな自惚れ。
君主の思慮深さに至らぬ浅識を痛感する。
「いずれ聖剣に選ばれし存在が現れた時、人類はその能力を我々と同じように使うことだろう。そしてその聖剣を手にする者に人々は敬意を持ってこう呼ぶはずだ……――勇者、とな」
魔王と対を成す、今は亡き勇者という存在。
魔王という立場だからこそ、先見の明を持って対策を講じるのは当然のこと――と、クロノスの思考がレイヴンには手に取るように解ってしまう。
かつて勇者だったレイヴンが、聖剣への戒めを持つことは尚更必然的な目算なのだ。
それが真意を問われたこの状況においても答えることの出来ない不動の事実である。
「勇者という存在への警戒。臆病な考えかもしれんが、魔の王たる者として軽んじることは出来なかったのだ。それは解ってくれるな?」
「……忌憚のない御言葉、有り難く存じます。手折たれた聖剣を捨て置くことが出来ない理由は確かと解りました。では、お話し頂いた上で更なる無礼をお許し下さい」
クロノスは一度レイヴンの言葉を飲み込んだ上で、更なる真偽への欲求を隠せなかった。
それを確かめないことにはクロノスの腹の底は煮え切らない。
クロノスは腑に落ちない思いを抱えながら訝しげに言葉を重ねた。
「聖剣という形に拘るのは、何故でしょうか?」
身に及ぶ脅威として対策を持つことが当然だとしても、一振りの剣の形を再現することの必然性はクロノスにはいささか欠落して見えてしまう。
人類の手に渡りさえしなければ目的は果たされるのではないか、と当初からの晴れない疑問は未だに付きまとう。
能力を差し出した手前、クロノスにはそれを知っておく義務がある。
「――ハワード・ストラトスという男。お前の目には、アレはどう映っている?」
レイヴンが突拍子もなく口ずさんだのはハワードの名だった。
今や同じ魔王の配下となった人間の名前が、クロノスの中でこの状況に結び付かない。
困惑と思考の暫時、クロノスは言葉を絞り出す。
「……かつて帝国に名を馳せたにも関わらずレイヴン様の手に寝返った奇特な者、かと」
「そうだな。奴はその優秀な力を人類の為に奮うでもなく、この魔王の隷下へと下った。そしてそれは賢明な判断だったとも言えよう。生き残るための手段を選ばない、狡猾な奴だ」
「彼が人と魔の垣根を超えた有用な人材であることは私も認めます。が、彼とこの聖剣にどういった関係があるのでしょう」
直接的な言葉までの遠回りがもどかしく、クロノスが率直に問いただす。
脳裏に残る言葉になぞらえ、レイヴンは悠然と口を開いた。
「例えば、奴が聖剣に選ばれた存在ならば?」
クロノスの中で魔族故の凝り固まった思考が溶けていくような衝動が走る。
魔王の配下にありながら魔族ではないという不条理、つまり、聖剣を手に取る権利を持つ者が手駒にあるという事実。
連想されていく疑問の答えにクロノスの胸中でざわめきが止まない。
それもまた一つの可能性としてクロノスが否定し切れる術もないことは言うまでもなく。
そしてそれは限りなく低い確率であると同時に、都合よく彼の男が聖剣に選ばれることの可能性に能力を賭ける価値が釣り合うとも思えない。
されど、クロノスの中で辻褄を合わせてしまう圧倒的な心当たりの存在。
どこか背徳的で、冒涜的ですらある君主の思想にクロノスは畏怖さえ覚えた。
「もっとも、奴が聖剣に選ばれるような器ではないことは今更言うまでもないか」
レイヴンは卑しく反応をうかがった上、自ら可能性と称した見込みすら潰しクロノスの思考を誘導する。
レイヴンの見据えた未来が明確にクロノスの考察に重なった。
「人類ではなく、魔族のために聖剣が振られることになるのなら、この苦労と損失に見合う結果を齎してくれることだろう」
「――まさか、あの子が聖剣に相応しいと……?」
口にすることすら憚られる、背徳的で冒涜的な発想。
されど、クロノスだけが知り得る心当たりにまんまと口車に乗せられる。
嫌でも想起してしまう幼き少年の姿がクロノスの脳裏をかすめた。
君主への忠誠の下に、罪悪感すら掻き消される。
「ああ、そうだ」
淡白な返事が懐疑を晴らす。
聞きたかった答えが集約された呟きに最早憂いもない。
「そのためにもまず、此度こそ綺麗なままで持ち帰らねばな」
レイヴンは話を切り上げ改めて装いを直した。
復元されたばかりの聖剣を、破壊的な魔力が包み込む。




