第十三話 『魔王レイヴン』
解散の運びになり、さしあたり謁見の間を後にするガーネットを除いた四忠臣。魔王の御前に身を置く緊張感から解放された安堵により大きく息を吐いたのはサファイアとファントマである。サファイアの場合、そのため息に含まれた意味が異なる要素も含まれているが、敢えてファントマは気にしなかった。
付き合い悪くというか、独りでに立ち去る速さはクロノスに敵う者も居ない。気づけば忽然と姿を消しているほどの、会釈くらいはしたかと思えばいつの間にか意識の中から消えている。
ユークリッド帝国の戦乱から時間にして僅か一日、各々溜め込んだ疲れや心労もあるだろう。サファイアとファントマの二人は騎士の背を引き留めることなく、謁見の間の豪奢な扉を背中越しにストレッチで緊張を解した。両者ともそうとはつかぬ態度を見せていたが、どうやら自覚のない圧迫感が身体を蝕んでいたらしい。
同じタイミングで似たような動作を始めた二人は、それとなく目を合わせ自然に会話を始める。
「……情けない傷ね」
「うるせえ。治癒の魔法が得意だとか言ってたか? 傷がついたところで治しちまう分際がよ」
「乙女の身体は繊細なの。少しでも傷がついたら値打ちがつかないんだから」
「ケッ、そうかい」
ファントマは今更のように痛みを思い出し、先の戦いでハワード・ストラトスという将に負わされた傷口を抱える。会話に支障のない程度にじくじくした痛みが続き、その鬱陶しさが痛みからなのか、あるいはサファイアからくるものなのかと小一時間は悩んでいたいところだった。わざわざ皮肉ったらしく返してくるサファイアに呆れながら、分かり合えそうにない思想の差を垣間見た。魔王の側近として仕える中で先行きの案じられそうな案件が早くも見つかる。
「……治してあげないからね?」
不服を申し立てたそうなファントマを半ば閉じた目で睨みながらサファイアは告げた。そうなればファントマも折れない。
「てめえからの慈悲なんて死んでも受けてやるかよ。傷は戦う者の勲章だ」
「あーあ。これだから私野蛮な男って嫌いなの。やっぱり魔王様みたいに気高くて絶対的な美しい御方の方が素敵だわ」
「くだらねぇよ。魔王バカが」
ご多分に漏れず嫌味で返すファントマは、彼女の臨界点すれすれの単語を用いる。魔王を馬鹿にしてるのではなく、魔王に妄信的なサファイアを馬鹿にしているだけだ。これで発狂しようならそれこそ妄信さを顕著にするばかりだが、流石に喚き出したりはしない弁えはついているらしい。
「……いいわ。どうせアンタとはいずれ一戦交える必要もあると思っていたことだし、今この場で懲らしめてあげる」
「言ったぜ? 俺は何時だって構わねえが、こんなとこで始めちまったらお前の大好きな人に迷惑掛かっちまうんじゃねえのか?」
分厚くも薄い一枚の扉を越せば、そこには敬愛すべき魔王が鎮座する空間が広がっている。言質を取ったとばかりにファントマは余裕を見せ、対して口惜しそうに整った顔を歪ませるサファイア。高笑いとまではいかないまでも、それこそ魔王の耳に届かない程度にファントマは押し殺して喉を鳴らす。
勝敗ではないが、敢えて甲乙つけるなら、サファイアの敗因は容姿相応に子供っぽい気質が招いたと言ったところか。魔王に関してのみ安い挑発に乗せられる盲目さが、甲と乙を分かつ最大の要因なのだろう。
サファイアはご立腹と恥じらいで顔を紅潮させながら威儀を正す。その表情の変化が負けを認めていた。
「……それにしても、本当の御考えでいらっしゃるのかしらね、魔王様は……あ、いえ……」
今しがたも口走った通り、先ほどから続けていた呼称に自分で気付いて口を濁す。恋い慕う魔王の、その呼び名を取り違えてしまっては、君主と何よりサファイア自身の不敬にも値する。
否、先刻まではそれで間違いではなかったのだ。ともすれば、サファイアの懸念する理由とは。ファントマと示し合わせ、サファイアは自分に正当付ける。もっとも、敬愛する君主の言いつけを守れなかった罪の意識は拭いきれないが。
「慣れねえうちは仕方ねえさ。本気だろうが冗談だろうが、いくら命令されたからって急にはあしらえれるもんじゃあない」
「そう、よね……。今まで絶対的な存在感で己を主張されてた御方が初めて名前を名乗ったのだから、今更先入観を拭うのも難しいかもしれない。でも、やっぱり、あの高貴な御方には不釣り合いな気がしてならないわ」
「せっかく傍に寄りつけたんだろうが。従うしかねえだろ。敢えて逆らうようなことでもねえ。まあ、俺はどっちでも構わねえが、賢い選択をするんだな」
「アンタに言われなくても分かってる。それが敬愛すべき君主の御意向なら、私は何でも従う」
楽観的なファントマと、ある種自分に言い聞かせるようなサファイアの相対的な表情の持ちようである。それは忠誠の厚みによる差なのか、何処に魔族としての価値観を見出しているかの分かれ目だろう。
二人はこれと結託することも無く、謁見の間にて行われた魔王の宣言を思い出していた。それは魔族の誰もが望み、耐え忍び続けてきた鬱憤を晴らす機宜だ。この世界に魔王の名を広め、恐怖と絶望を植え付ける時。その足掛かりがユークリッド帝国の滅亡だとしても、広い世界の僅か一部を沈めたに過ぎない。
だからこそ魔王の名がそこに箔をつける。
人々にとって忌むべき恐怖と絶望の象徴。
漠然とした存在感が、此度、明瞭な名を持った。
その名が世界に広まるにつれ恐怖と絶望の波が人々を蝕んでいくことだろう。
ただ、サファイアとファントマが懸念するのは、魔王の名そのものだった。
虚けた響きが脳内を反響する。
魔王が名乗る名として不相応な語感が、されど固い忠誠を揺らめかせることは無い。
◆
誰も拍子抜けだったとは口にできなかった。
魔王の口から思い掛けない言葉が継ぎ、四忠臣の誰もが呆気取られる中構わず魔王は続ける。
「勇者は死んだ。帝国は墜ちた。これほどの好機を逃す手立てはない。それらの消滅を世界に知らしめる、代わりに、この魔王の名を新たに掲げよう。世界に自らを支配する者の名を教えてやれ」
有頂天の状態でブレインは告げる。魔王の持つ強い思想と温度差が開く四忠臣の内、ガーネットは戸惑いながらも第一の付き人として役目に努めた。
「魔王様の御名前?」
「ああ。この世界に恐怖と絶望を齎す名だ」
「それは……」
未だかつて、魔王を絶対の魔王としての認識でしかなかった君主の変貌には違和感が大きすぎる。否、君主がそれを望むなら如何なる望みであろうと従うのみ。漠然としていたものが具現化することによる畏怖は想像に容易い。
ガーネットが受け入れ難く反応してみせたのは、どこかで魔王の言動に不穏な予兆を感じていたからなのだろう。魔族にとって魔王が新たに名乗る名が軽々しく扱えない意味を持つことは分かりきっている。世界に広がっていくべき名であれば尚更だ。それを魔王はことさら改まることもせずに淡々と告げようとするのだから、無駄に慎重になるのも必然だった。
何か不敵な表情を見せる魔王。淡白な中に、どこか愉しげで小気味の良い声ぶりで喋る。ガーネットはその様相に阻害することは出来なかった。
「この魔王に立ち向かった、たった一人。俺は彼に敬意を払う」
ブレインは、かつての自分を引け合いに出し、その存在の偉大さに意志を贈った。魔王として初めて勇者へ贈る弔いの言葉だ。その言葉は真意ではないが、偽りでもない。外ならぬ自分自身の苦痛を知り、確かにこの身に覚えているからこそ、そこに嘘のない賛辞がある。
勇者ブレインは良くやった。ただ、この魔王の肉体には如何なる武勇も届かないだけだ。
未だブレインの中で断ち切ったはずの勇者としての面影は残り続けている。勇者という存在を意識していることが即ち、ブレインの、勇者ブレインに贈った賛辞が真実の証となる。勇者の存在に抱くしがらみが、この手で屠って尚も消えてくれなかった。
勇者は死んだ。ブレインは『勇者ブレイン』をこの手で殺したのだ。だが、ブレインの意思と記憶の中で勇者が生きている。このしがらみは断ち切ろうとして簡単に切れるものではなかった。その業を背負ってきたブレインの千度に及ぶ人生が、魔王となった今でも解放してくれない。
ならば、上手くそれと付き合っていく方法を見つけ出すまでのこと。
ブレインとはもはや、この世界の死した勇者の名であって、ブレインの名ではない。
ブレインは、対外的な建て前を付けて名乗り上げる。
「勇者ブレイン。この世界で人類の希望として知られたその名にあやかり、名を頂こうじゃあないか。此度は人々の絶望として知られる名となり、世界に教えてやろうとも――魔王レイヴン。この魔王が名乗る新たな名だ」
それは所詮言葉遊びに過ぎない。
悪ふざけに等しい、過去の自分を嘲る皮肉だった。
「レ、レイヴン……? レイヴン、渡り鳥……?」
戸惑いを込めてサファイアが言う。ガーネットもまたそれに続き、神妙な表情で言い洩らす。
「レイヴン、など、そのような軽薄な名前……」
「――これからこの魔王が名乗ろうという名を愚弄するつもりか?」
「い、いえ。断じてそのようなことはっ……!」
ガーネットは気劣るような叱咤を受けて声を落とした。よもや絶対の魔王にそれだけ言われて貫き通せる意志などガーネットにはない。付き人として傍らに仕えた時間が魔族の中で最も長いガーネットが何も発言できなければ、誰もその領域に侵略できる者は居なかった。例えそれが魔王としての尊厳に傷を入れるものであろうと、魔王の意思に勝る提議には成り得ない。
「そうだよ。渡り鳥だ。サファイアが言った通りだとも。長らく暗いところに押し込められた魔族が、ついぞ帝国まで羽ばたいて見せた。その渡り鳥の名だ。魔王は渡り鳥の名を冠し、世界を支配へと飛び立つための名を持ったのだ」
口に出す建て前の裏に張り付く本音は、やはり皮肉だった。
渡り鳥。千の世界を渡った、この哀れな自分自身への皮肉だ。
勇者の業を背負い、魔王としてまた新たな業を抱える、そのブレインにこそ相応しい名である。
――否、レイヴンだけが、建て前と皮肉に真実の意味を持っているのだ。
魔王レイヴン。間抜けた語感が与える印象と、その隠された意味に四忠臣は揃って納得していた。勇者ブレインに対し、絶望の象徴として代わって広まっていく名前だ。威厳に欠けてしまうようで、されどもその真意に含まれた魔王として変わらぬ意志に溜飲を下す。
勇者ブレインと比較になれば、彼の死をより重い絶望として錯覚することも、あるいは可能性としてあるのかもしれない。
勇者ブレインの死。そして魔王レイヴンが及ぼしたユークリッド帝国の征服。それらが後のこの世界へと与える影響とは、共に広がっていく渡り鳥の名が如何に絡んでくるのか。蓋を開けてみなければ分からないというのが、およそこの場の認識なのだろう。
判別がつかないのであれば、端から魔王の意思を尊重することが魔族の総意だった。
もとより、魔族たちの意思は魔王の背にある。
「今こそ羽ばたこうじゃあないか。このレイヴンの名と共に、世界へと渡る時だ。我が名を崇めよ。そして馬鹿な人間どもに教えてやれ。魔王の名を、恐怖と絶望を――」
かつてブレインを――レイヴンを嘲った呪いの声を思い出す。恨みではない。今更取るに足らないような、特別憤りを感じることも無い。ただ、かつて勇者として戦った奮闘が報われても良かったのではないかという、ちっぽけな妬みだ。それこそ今更と、レイヴンは内なる思いに自嘲する。
何故今になってそんな下らない事を思い出したのか。魔王という立場で、訳もなく支配することへの理由付なのだろう。所詮は気まぐれだ。理由なんてなんだっていい。目的など無い。極論で言えば、レイヴンの望むものは『死』そのものなのだ。千の人生において初めて魔王となった肉体で、過去に勇者の身にやれなかったことを今は楽しんでいるだけである。
ともすれば、レイヴンの尽くす一手が災いして我が身を亡ぼすことになろうとも、そこに後悔は生じない。全てがその場の思い付きで段取りできるからこそ、無駄な思考の省かれた状況を楽しめている。生憎とレイヴンは命に対する価値観が乏しいのだ。
それも全て、千度という悠久の人生が培った退廃的な思考だった。
だからこそ、悪ふざけを徹底的になれる。魔王として新鮮な経験の一つがレイヴンの退屈を埋めた。そこに付き従う魔族の忠誠が、勇者だった過去には味わえなかった掌で転がす感覚をレイヴンに与えている。
「魔王様――レイヴン様の御意向のままに……」
ガーネットは逸早くその変化に対応し、首を垂れた。そこに続く四忠臣。やはり、ファントマはただ一人仏頂面で立ち尽くすだけだった。此度レイヴンの言動に思うところを残すのもやむを得ないだろう。というよりは、ファントマの場合それで通常なのだ。
頭を下げた彼らの中でも、それぞれに不明瞭な思いを抱えている。それでも、絶対の君主の意思に背くことなく、溜飲を下げている。
人々に恐怖と絶望を齎すその名に魔族の復権を賭け、彼らは思いを馳せる。
レイヴンは、玉座の上で己の名を自虐的に嘲弄していた。
第一章 魔王レイヴン 了