第十一話 『帝国-07』
転移魔法による浮遊感をその身に感じながら、足の底から伝わる大地の感触を踏みしめる。側近の魔法によりユークリッド帝国の地へと立ったブレインは悠然と両目を開いた。耳に届くは戦乱の音。人々の断末魔、兵士たちの雄叫び、家屋が焼け爛れていく、阿鼻叫喚の数々。
視界に聳えるのは城郭の都市に守られたアイゼンフォート城だ。覚えがある、と言っても千度も前の人生に一度訪れただけの薄い記憶である。記憶というにも筋違いな遠い過去の既視感を蘇らせる。そこは確かに覚えのある街並みだった。
城郭都市などそう多くもない所為か不思議と覚えているものだ。
ブレインは記憶を探り、ユークリッド帝国に名の轟く将が居たことを思い出す。
直接手合わせをしたわけでもないが、勇者だったブレインよりも、あるいは強者に当たる存在。
今はどうか。魔王の力を持って圧倒的な蹂躙を下した勇者と、人間の中では頂点を名乗るに値する騎士。比べずとも分かったような結果だ。たかが人間と魔王の力を比較することすら烏滸がましい。勇者として長き時を生き、今魔王として在るブレインだからこそ、その差は歴然と見えるのだ。
帝国一の腕があるのなら、せめて、この手で屠ったかつてのブレインのように、今のブレインを楽しませてくれるだけの実力を期待してしまう。
否、かつての自分自身であるからこそ得られた快楽だと知りながら、この絶大な力を奮う機会に興奮を隠せなかった。
かつての自分を屠った今、ブレインは魔王の力に相応しい所在を求めていた。
戦場の風に靡くローブがはたはたとブレインの腕にはためく。
その風に乗ってブレインに届くのは血の匂いである。
鼻腔をくすぐる不快な香りに、ブレインは傍らの側近と言葉を交えた。
「なんだ。存外に仕事が早いじゃあないか」
「重ね重ねのようですが、我ら魔族は魔王様の御言葉を長らく待ちわびておりました。魔王様の御期待に応えるため、皆尽力し、励んでいるのです。その結果がこちらでしょう。御覧ください魔王様。丁度、お膳立ては済ませたようです」
「……まったく、優秀な家臣たちだよ」
戦地を漂う血の香り。それはブレインの期待に応えるように新鮮な匂いを届けた。つまりは、遊び感覚で帝国にも着いていないかと想定した目測は良い意味で外れていたということだ。遊びに負けた感覚と同時に、勝ったとも思う結果は変わらない。どうやら魔族という種への偏見を改める必要があるらしい。勇者として生きた長い人生で、変わらず敵対し続けた種への先入観は簡単に消えないだろう。
戦火の色が滲む帝都の街並みは魔族が怒涛の勢いで押し寄せてきたことを意味する。ブレインが命じた下令を忠実に、ブレインの想定を超える迅速な手際で帝国を追い詰めている。放っておいても直に魔族の勝利が決するところまできて、間の良い頃合いにブレインが美味しいところを取りに来た形になったという次第か。何とも、勇者として生きた人生で碌に味方してくれなかった因果が、ここに来て都合良く好転してくれているようだ。
数多の人生で魔族に苦しめられてきた記憶に染みついた偏見が、優秀な家臣に素直な賞賛を与えさせない。
何処か皮肉混じりのブレインの言葉は、しかし、彼らにとって他でもない至言となる。その言葉を聞くため粉骨砕身の覚悟で戦場に思いを掛けてきたのだ。あるいは、魔王から直接の言葉ではなくとも骨身に染み渡る感覚を覚えることだろう。魔王の言葉を伝い届けることのできる唯一の者は、密かに思い馳せていた。
傍らで主君の小言を飲み込む側近をよそに、ブレインは今一度戦況に終焉を見通した。丁度頃合い良くお膳立てされたようなこの状況が魔王の色付けで仕上がる。一筆加えるほどの労力でユークリッド帝国はブレインの手に墜ちることだろう。
その引導を渡す瞬間が来た。
ブレインにとって帝国の滅亡を決めるとどめが自分の手である必要はなかった。それが配下の彼らの手によるものであろうとも構わない。ただ、帝国が滅亡する事実には変わりないからだ。ほんの様子見のつもりが、取り繕ったような状況を目の前に出されて引き下がるというのも疚しいところ。これと言って今この状況が完成されるタイミングを計ったわけでもなく、ただの気まぐれが上手く機宜を呼び込んだのだ。
料理を運ばれた手前で頂かないのも無粋なものだろう。
ブレインがこの力を奮うのに煩うことも無く、むしろ魔王の力に相応しい矢所を見つけたような感覚ともあれば、それを試さない手立てはない。
かつての自分を屠った、カタルシスを得るために放った力とは違い、帝国を崩すべく際限のない膨大な力。たかが勇者一人を葬るには過度なほどの力の、その制限を取っ払った時の強大さはブレイン自身ですら想像つかない。自分がどこまでのことを可能とするのか、肉体の馴染む感覚とは相反して、感覚に理解が追いついていなかった。
それはただ知識としてブレインの中に備わっていないだけのことで、想像がつかないほど、自分がどこまででも可能とすることには過剰なまでの驕りがある。
魔王の力が、想像を超えた何れをも可能とさせるのだ。
「それじゃあ、来て早々行儀も悪いが食えるところだけでも頂くとしようか」
ブレインは両の腕をそれぞれ左右にゆったりと広げる。掌を天に向け、その寛大な気構えで万物を受け止めるよう柔らかに掲げる。
この力は、華奢な細腕や容姿で見定められるほどちゃちなものでは、断じてない。敢えて見なしてみたとしても、その絶対的な存在感で言葉に置き換えるのも不可能な歴然とした力の差を理解することだろう。そしてそれは魔王を直視した誰もが思った。
力の差を理解し、人々が次に思うのは決まって畏怖である。
帝国の兵士たちは魔王の矛先が自分たちに向けられていることを知り、やがて沸き上がってくる実感に立ち竦むことしか出来なかった。否、ブレインの見据えたものが一人一人に彼ら個人を狙うほどちっぽけなはずもなく、彼らが抱く感情など所詮は錯覚であり、同時に絶望でもある事実は自然に浸透していた。
無力にまともな抵抗も出来ず屈服せざるを得ない状況に生まれたのは、畏怖と絶望をひっくるめた諦念である。
誰が最初に見上げたわけでもない、その存在に気づいた者から順番に、上空に広がる光景を無言で睨み始める。戦火に飛び交っていた雑音すらも途絶え、今このユークリッドの地に生きとし生ける生物が同様に視線を釘付けにされていることが分かった。
都市ぐるみに立ち込める不穏な静寂、異様な静けさが返って胸のざわめきを響かせているようだ。協調などせずとも、この瞬間だけは種族の垣根を無しに思いが伝わる。
等しく、期待に似た感情であると。
畏怖が、恐怖心より進化した時、何時しか期待へと変貌していく。
上空に広がる鈍い輝きが、魔王の持てる力であることを認識するのはあまりにも容易い。
そのどす黒い閃光の塊を夜の帳に浮かぶ満月や黒い太陽とも見紛うような、絶大な存在感に誰しも息を呑むことしか出来なかった。それが二つ、球体の魔力の膨大な塊が頭上に浮かんでいる。
ユークリッド帝国の上空を飲み込むように左右に割れて領域を分けた。それぞれ、アイゼンフォート城を掠めるように繊細な制御の下、標的をねめつける。
それは勇者を屠った時と同じく、単純にその倍の二つ分の閃光が佇んでいる。
ブレインの腕から伝う、可視化した魔力の流れ。その感覚が嫌に心地良い。強張った身体から余計な力が抜けていくような感覚。かつての自分を前にした時の高揚感には及ばずとも、ブレインはこの力を奮うことに驕り昂っているのだ。
この力を解放した時の快感たるや、想像だけで喉が鳴る。
動機は気まぐれだったが、いざこの地に立ってみると醜い思い出が蘇る。
かつての自分を屠った、その克己とは別の、初めて死んだ時に聞いた呪いの声。死後にまで付き纏った、勇者としてのブレインに重く連なった恨み。最初は後悔だった。それが何時しか、ただの雑音になり、ブレインにとってもまた遺恨となっている。
かつての自分を屠ったのと同じことだ。せめて、彼らに恨まれることも無ければ、勇者としての責任や業に捉われることは無かったのだろう。勇者として繰り返した人生で最もブレインを苦しめた要因。
それを晴らせるのなら。
ブレインの高揚感に水を差したのは、恐れ知らずの、それでいて恐慌した女性の声だった。
「……ま、魔王様っ? ああっ、魔王様……! ど、どうか気を御沈めになってくださいっ。ユークリッドを滅ぼしに来たのでしょう? 何とか御考えを改めなさることは……で、出来ませんか?」
その声は断じて聞き慣れた側近の声ではない。ましてや魔族によるものでもないことは瞬時に理解した。そもそも魔族が魔王の行動を制するはずもなく、この蹂躙劇に対して考えを改めようなどという気概は持ち得るはずがなかった。彼ら自身、人間への憤りが根底にあるからこそ魔王の言葉に違和感もなく全うしているのだ。
ともすれば、消去法的にその声は人間によるものとなる。
今正にブレインが腕を振り下ろせば帝国の滅亡が決する、最も魔族たちの昂る瞬間に介入した恐れ知らずの人間。見れば、美人とは別の自分を綺麗に見せる方法を知っているだけのような、気品のある女性の姿。所詮ブレインの悠久の時に培った審美眼には敵わない。高貴なはずの居ずまいが、気が動転して無様に品格を崩している。
命乞いでもするようにひざ元に擦り寄る姿は滑稽だった。
ブレインは蔑視の目を送るほどで、構わず魔力を練り続けていた。
「魔王様……じ、実は私、以前から魔王様が……、ま、魔王様のことが……」
しどろもどろな口調で続く言葉を模索しているうちに、言葉を見失っている。結局、その続きを彼女の口から聞くことは無かったのだが、言いたいことは存分に理解した。畏怖に瞳孔の開いた状態でぎこちない笑みが乗った表情は、薄気味悪いだけの意味の他に価値を持たなかった。
人間の醜い部分を垣間見ているようだ。ブレインに手を止めるつもりがないと見るや、今度は取り入ろうというのだろう。笑みまで取り繕って憧れや好意に見せかけることで、嘆願しているのだ。
帝国が滅するというのはそこにあったもの全てを失うことになる。命や地位でさえ。彼女は命の惜しさと同様に、権威を失うことを恐れているに過ぎない。帝都の中でも、中心街に住まう高貴な育ちは言外に見えた。でなければ、未だ彼女が魔族の手から逃げもせずこの場に残っている理由は無いのだ。
窮地に陥った人間の卑しい思考が、ブレインには手に取るようにわかる。ブレイン自身が勇者から魔王になり、そして魔王の力のままに人間への遺恨を晴らそうとする卑しい存在だからこそ。
彼女の思考、言葉の意味、人間の醜い部分を知っている。
そしてその言葉が嘘だということも。
「お前たち人間は、この俺を恨んでいるのだろうな。生まれ育った街を、手にした権威を失ことに恐れ、俺を恨んでいる。きっとお前のような人間は、魔族の侵攻を止められなかった勇者の存在をも恨んでいるのだろう?」
このユークリッドの地に魔族が押し寄せることとなったその発端、かつての自分を引け合いに出してブレインは問う。人々が魔王を恨むのは当然だ。そこに理由は無く、敵対し合う種の長であることが即ち、敢えて理由を取り立てることも無く怨念を募らせる。
延いては、その忌むべき存在を引き連れた勇者は彼女らにとってもまた仇敵に当たることだろう。
ブレインが彼女の立場にあればそうなることを知っていながら、敢えて問い詰めたのだ。
「そ、そんなっ! 勇者のことなどともかく、魔王様を恨んだりなど……!」
勇者を恨む。即ち、それはブレインを恨んでいるのと同義である。
図ったように望み通りの答えが返って、容赦なく突き放す。
言葉を選んで紡ぐ彼女の中途半端な抗論を一言で制した。
「――同じだよ」
重いため息とともに吐き出した。その反応が彼女にとって絶望となる。
千度も前の人生にはなるが、かつて勇者そのものであったブレインを前に選んだ言葉は正しい選択ではなかった。無論、そんなことを知るはずもない彼女としては、間違った答えではないという油断で魔王の言葉に呆然としていた。何が魔王の琴線に触れたのか、それはブレインの中でしか判断しようのない理不尽な答えだった。
魔王を恨んでないなどと見え透いた嘘は、今更ブレインに興味を惹かせる要因ですらない。勇者として人々に恨まれながら、よもや魔王になって恨まれないということはないのだ。それはただの事実であり、抗議の余地にも値しない。
勇者として戦った過去を否定されたほどは、堪えることも無かった。
「……死にたくなければ城の中にでも逃げ込むことだな」
慈悲ですらない皮肉を言い渡し、彼女の思いを無残に断ち切る。
頭上の閃光を振り落とす、その標的の中にアイゼンフォート城を巻き込まないように制御されている。
ユークリッド帝国の滅亡を最も分かりやすく、玉座を奪うという目標の上で城が滅亡しても興が醒めてしまうことだろう。今魔王の目につく存在の中で生き残ることができるとすれば城壁の内側に居る者だけだ。
敢えて慈悲深いようにも聞こえる言葉をくれたのは、それが叶わぬと知っているからこそ、皮肉を込めて教示してやった。
魔王を目の前に、選択を誤った彼女が死を受け入れるしかない状況。生きる望みに縋り、表情を明るませ生まれたての仔馬のような足取りで踵を返す。ドーム状になったドレスの下部を捲り上げて、走りにくそうに城へと向かう。この戦乱に及んでその衣類のままで居られる神経を疑いたくなるような、体裁ばかりを取り繕う憐れな後ろ姿である。
アイゼンフォート城の目下とは言っても、帝都の中心を形成する規模は目測では推し量れず、思いの外遠かった距離感を経てその彼女は兵士たちの下へと辿り着いた。辿り着いたまでが彼女の限界だった。
正に門前払い。固く均整の取れた兵士たちの陣形に割って入るなど、非力な彼女に出来るはずもなく、まして王族とそれに従う者のみが通過を許された城へは誰も通そうとはしてくれない。帝国の滅亡が決した今、あってないような規則を律儀に守るのは、未だ自分たちに生き残る道があるかもしれないという錯覚なのだろう。
ブレインがこの腕を振り下ろせば無差別に彼らを巻き込み全てが無に帰す。
それに気付かないのは当事者である彼らだけだ。このユークリッドの戦場に生き残った、唯一に等しい帝国の兵士。他の者は皆、魔族の前に屈服している。今アイゼンフォート城の門前で魔王と対峙する彼らこそ、ただ唯一対抗し得る可能性の残された者たちだ。彼らの意識を度外視した場合、そこが最後にして、最も脆弱な砦となっている。
品格さえも投げ捨てた彼女が次に縋るのはその兵士たちである。どれだけ拒まれようと縋り続け、また兵士たちも頑なに通さない。固い陣形を敷かれたそこは魔王への対抗の意志ですらなく、ただのルーティンワークの一環で立ち並んでいるだけだ。そこに介入してくる異物を拒むだけの取り留めのない行為が、無情に一人の女性の死を巻き込む。
拒むまでの必要の是非を独りでに自問するブレイン。しかし、そんなことを考慮するほどブレインも慈悲深くはない。我ながらかつて勇者だった者とは思えない思考に自嘲する。
城門を見て丁度真正面の辺り、高貴たる市民を拒む割に容易く割って出てきたのは一人の騎士。
遠い記憶から名前や顔までを正確に引き出すことは出来ないが、彼が帝国一の将と謳われた存在であることはその佇まいに悟った。
頭上に広がる魔王の力を前に自ら動ける存在など、無鉄砲か自棄になった者か、自らの腕に自負のある者のどちらかだろう。そちらには目もくれず乞い続ける彼女が言うまでも無く前者だとして、彼は後者に当たる存在だとブレインは見定める。
されど、彼がブレインの求めるほどの存在ではないこともまた、容易く見極めてしまった。
「……せめて、興が削がれる前に――」
ブレインはそれだけ口にして、右腕から高く振り上げる。
天に向いた掌で球体を握り込むように睨み、そして悠然と大地に返し、振り下ろした。
ブレインの動きに連動して帝都の右半身を覆う球体は唸りを上げて降り注ぐ。
球体がユークリッドの地に触れた時、激しい轟音と地鳴りが劈いた。
大地を、家屋を、人を無差別に溶かし尽くし、帝国を飲み込んでいく。
ブレインはそれを逆の腕も同じ動きで繰り返した。
大地は裂け、空は啼き、ただ無残に奪っていく。
衝撃の生み出した僅かな熱が爆風に乗って返ってくる。
ブレインは熱を身体で受け止めるように浴び、轟音の中でひとりごちた。
「そうか、こんなものか……」
心地よい開放感。さりとて、快楽には程遠い。求めていたものの前提が違っているのだとしても、それは想像以上に、ブレインの中で無に近い感情以上のものを生み出さなかった。
ブレインの遺恨を晴らす上で、それがかつての自分とそうでないかというだけで、これほどにも差があるのかと。
多くの命を奪っておきながら、期待外れと言うにはお門違いか。
大地が抉れ、家屋も、木々や草花も消滅したそこに残された、アイゼンフォート城。
シンメトリーになった城の形状が幸いしてか、左右に別れた魔王の力の丁度合間を掻い潜った、その中央を象った門の前には騎士を含めたほんの数人の兵士。他の者は、神隠しにでもあったように、忽然と消えている。何もかも消えて無くなっている。
その表情の変化は自らの想像を超えた、その更に上に達した力への畏敬であり驚愕だった。
その二つの感情の他に、彼らの色を差すものはなかった。
あるいは、彼らの中でも唯一強者である矜持故か、竦んだ脚で動くことのできた者はただ一人。
ハワード・ストラトスはただ一人、踵を返し城の中へと身を潜ませた。
矜持と命を天秤にかけた時、帝国一の将と言えども我が身は可愛いようだ。
それは断じて他人に咎められるような行為ではない。
帝国一の将でさえ逃げ出していることが、何よりも人々の無力を証明しているのだ。
今ここにユークリッド帝国の滅亡は決した。
魔族の侵攻に抵抗する者が、消滅した。
後は魔王の座すべき玉座までの筋道を案内するだけ。
幸か不幸か、場内に潜んでいた者が魔王の力を括目していないことは、配下の彼らに仕事を残して、茶でもしばくような時間をゆるりと待てばいい。
後の世に魔王の歴史を記す時、このユークリッドの地で起きた惨劇は、その序章に刻まれることだろう。




