第十話 『帝国-06』
ハワード・ストラトスは狼の姿をした魔族との戦いに負った傷の痛みを抑えながら、怒号を飛ばしている。
目に見えた苛立ちを受けるのは、アイゼンフォート城の城門で魔族を迎え撃つ先鋭たちの内、比較的身を持て余している者たちだ。
手負いの身体で兵士たちの指揮に勤しむ姿は矜持に溢れていた。
人の成りをした狼との死闘に負った怪我は腹部から脇に掛かった辺り。身に纏った鎧のおかげで、狼と比べ傷は浅い。
戦いの技術としてもまた、狂ったような荒々しい突進に対し、寸でのところで身を翻し致命傷を避けた。
ハワードは治療を受けながら指揮を飛ばし、怒号の上で目まぐるしく思考を回転させている。
あの狼の傷、手応えから考えて、時間を空けず直ぐに追ってくることは出来ないだろう。
だからこそハワードも踵を返し、帝国の本拠となるアイゼンフォート城の一角へと身を潜ませている。
魔族の中にあれほどの強者が他に存在すれば、これ以上帝国が魔族へと切り返すことは不可能に近い。
この手負いの身体で戦うとすれば命を持って差し違えるのが精一杯だ。
残念ながら、東門に当たる場所ともう一区画から、騎士と少女の姿をした者が居るとその報告は耳に入っていた。
帝国の中でハワード程の手練れは他に二人と居ない。
ハワードから格落ちした将ばかり、この戦乱に至って保身的な考えをした輩が多かった。そこに矜持があり、同時に人の薄汚さに虫唾が走る。
その最たる例として、守るべき国の、守るべき王が我が身可愛さに裏門を伝い逃げおおせているのだ。本来ならば、守り守られ合うというのが王と民衆のあるべき姿だとハワードは思う。現に帝国一の将として傍若無人に振る舞うでもなく、国を守るためにハワードは戦乱を駆けているのだ。
否、それこそ自分の中の矜持を守っているだけに過ぎないか。頂点に立つ者としての誇りに自分で酔い痴れているだけに過ぎない。
とにかく。ユークリッド帝国の陥落はハワードも既に察っするところだった。
自負から生まれた傲慢な思考こそ、ハワードが残りの不毛な戦いに臨む所以である。
この戦いの意味とはもはや王が遠くへと逃げるまでの時間稼ぎだ。
保身のために帝国一の将であるこのハワード・ストラトスという男を魔王の討伐に向かわせなかった愚行が、今更になって泣いて逃げるようではユークリッド帝国の王として筋が通っていない。挙句に民衆を置いて逃げる行為はハワードの軽蔑を買っていた。
ハワードとて自分の腕に自負があり、それ故魔王の討伐へと勇者一行に兵を従え同行する気概でいた。そのはずが、分かりやすい保身で留守番役に回されては兼ねてより帝国に抱いていた不信感も強くなる。そして今に至る状況、見限るのも遅かったかと、ハワードは自らを咎めることしかできなかった。
ハワードが居なければ今頃アイゼンフォート城すら明け渡していることだろう。ハワードの生まれ、育ててきた国が偶々ユークリッド帝国というだけのことで、王に対する義理とはもはや皆無に等しい。この矜持がなければハワードが戦うことすらも憚られ、何処か命を落とさない程度のところで亡命でもするのが正解かと考える。
そこで唯一残った矜持さえも失うことになれども、今後ハワードが帝国一と称されることもないのであれば同じことだ。
ユークリッド帝国は魔族の手に渡る。いずれにせよ、その後にハワードの居場所は残されていない。
ともすれば、ハワードの中で矜持を捨てる覚悟が決まるのも早かった。
忌むべき帝国の兵から治療を受けることすらも不快になり、ハワードは素っ気なく施しを断ったのだ。
――暫時、アイゼンフォート城に対して真正面の方向から絶大なる存在感が放たれる。
それは魔族の波が正門から真っ直ぐに押し寄せたのと同じように、されど、それ以上の絶大な存在感を持って不意に現れた。対処や対策の取りようもなく、有無を言わせずそこに君臨するのだ。
忽然と現れた偉大なる影、その正体を知る者は限られる。だが、誰もがそれに一つの認識を捉えていた。そして同時に切実な思いが共通しているのだ。
圧され込んだこの戦況に、更なる追い打ちを掛けようというその存在。否、それは追い打ちですらなく、残酷で非情な最後のとどめ。
ハワードたちの認識が本物なら、彼が腕を振るうだけで帝国は滅亡するだろう。
堅牢な武力を要するユークリッド帝国をこれほどまでに追い詰めた魔族、その王たる存在。
美しく、気高く、絶対的な存在感。
傍若無人で、威風堂々たるその姿。
忽然と表現する他も無く、魔王がそこに現れた。
姿を見せただけで圧し掛かってくるような緊張感が兵士たちを襲う。
ハワードもまた、膠着した身体を動かすことは出来なかった。
その場に居た人間の誰もが思った。魔王でしかあるはずのないその絶大なる存在感を、せめて、魔王であってほしくないと切実に思っていた。魔王を無くここまで追い詰められた現状、何とか踏ん張っていた彼らに改めて絶望を叩きつける。
時間の問題とさえ決していた帝国の行方が更に加速するのだ。魔王の存在は、帝国を追い詰めたのではなく、そこに居るという事実だけで無力を知らしめられる。
もはや、帝国の滅亡は決してしまったのだ。
その尊大な力を見ずとも分かる。
誰もが喉を鳴らした。それはある種、煽情的にすら思わせて、自らを抹するべく力を期待してしまうのだ。想像を絶した畏怖が脳の理解を超え、魔王の力を無意識に推し量ろうとしてしまう。ただその力が自分たち程度の知能で理解に及ぶはずもなく、そこに畏怖と期待が混在してしまうのだ。恐れおののいた力が想像さえも超えてしまった時、それが同時に期待でもあることを教えられる。
未知の力への言い様のない畏怖と、偉大なる力への高らかな期待。
魔王が、どれほどの力で帝国の滅亡を決してくれるのかと、期待せずにはいられなかった。
そこに現れたという事実だけで自らの無力を痛感したからこそ、自分たちに無い力を期待させられる。
ハワードもまた、息を呑みながら魔王の言動に目を見張った。
一矢報いようなどとすら思わせない、気高く美しい存在感を放つ魔族の王。魔族が如何にこの王へと陶酔する理由が手に取るようにわかる。
その隣には線の細いドレスの女性。彼女も魔王と共に忽然と現れた。あまりに戦場に相応しくない容姿だが、彼女もまた魔族なのだろう。魔王の傍らに佇んでいることが即ちその事実を裏付ける。ハワードはそこに魔王の傍らを従うだけの能力を読み取った。
彼女と魔王は、二、三言葉を交える。さながら談笑でもするかのように、戦地でありながらあまりに緊張感のない様子である。だが、魔王に限ってそれは驕りには成り得なかった。
絶対の自信や圧倒的な自尊心、もはやそれに準ずる自負ですらない。
ただ、事実なのだ。
ユークリッド帝国が魔王の手によって滅びるというただの事実に、魔王は優越感など持ち寄ったりなどしなかった。
そして魔王は両の腕を掲げる。
捲り上がったローブの隙間から華奢な腕が垣間見えた。それでも変わるのことない絶望感は、屈強に鍛え上げた肉体を持つハワードにも違和感を覚えさせない。それが必然であるかのように、細腕に恐怖心を煽られる。ただの青年と変わらぬ人間のような身体つきであろうと、この場における帝国と魔王の立場が変わることは無かった。
魔王の裏手には轟々と燃え上がる戦火の炎。それに劣らぬ輝きが上空に放たれる。
それは輝きというにはあまりに暗く、しかし、人々の目を虜にして焼き付けるほど眩しい光だった。魔力の流れが漂って二つの球体になり、広大なユークリッド帝国の地を埋め尽くすほど膨張している。制限さえなければ、この世界さえも埋め尽くさんばかりの、狂ったように錯綜した閃光。
ハワードは帝国の兵士たちに倣って上空を見上げる。
魔王の表情に携えた喜色があまりに恐ろしく、何度と見れなかったからだ。
それが魔王にとって気まぐれであることなど知る由もなく、ハワードは絶望を味わうのだった。
◆
魔王の偉大なる力の下、魔王程は劣るが、無数の魔族の中で一際存在感を放つ姿があった。それは奇しくも三つ、人知れず魔王が側近に命じた数字と同じである。
狼の姿、あどけない少女、高潔な騎士。彼らはそれぞれアイゼンフォート城の目下へと攻め寄り、上空を見上げていた。それは現在帝都ユークリッドの城郭の内側に居る者の全てが一点に視線を奪われていることだろう。人々は逃げ惑う脚を止め、帝国の兵士たちは抵抗する剣を降ろし、魔族もまた王たる存在の尊大な力を見逃さない。否が応にも目を奪われるのだ。
絶大な力が全ての畏怖と期待に応えていた。
どす黒い閃光は束になって降り注ぐ。
ユークリッド帝国の空から二つの膨大な魔力の塊がねめつけるかの如く見下ろしていた。否、それはもはや人々の視界の限界として、球体であることすら判別がつかないほど頭上を一面に埋めている。城郭の牢獄は、さながら死刑台のように人々を捉えて逃がさなかった。
死刑台の中、言うなれば執行者ともいうべき者たちは呟く。
「――魔王様ぁ……ああ、なんて素敵な御力を……」
甘ったるい息遣いを艶めかしく漏らしているのはあどけない少女。
見るからに溢れだした愛心を受け止める存在は彼女の近くには居なかった。無論、口にしたその名が返事をくれるはずもなく、そしてそこに彼女は答えを求めていない。ともすれば、その恍惚の表情が向けられるべくは上空に聳える偉大なる力。彼女はそこに忠義を誓った愛すべき存在の影を重ね合わせている。
純愛というにはあまりに歪んだ過剰なまでの情愛。魔族が魔王へと抱く絶対の忠誠を履き違えたかのように、彼女の情念は愛心へと傾いている。それ故、彼女の目に留まるのは魔王のみ。畏怖の緊張がようやく解かれた人々が逃げ出すのを、その蕩けた両の瞳は追っていなかった。
ただ、上空に在る魔王の片影を熱い眼差しで見上げるだけだ。
熱い息を噛み殺し、その情景の末を静観しているのだ。
もっとも、官能的な息遣いは決して静かなものとは言えないが。
彼女の想いの届かぬところにて、切れ長の瞳で一点を見つめる騎士は相も変わらず憂いている。
上空に広がる力が自らの崇める王によるものと知り、彼は嘆くように呟いた。
「魔王様……」
独り、その名のみを口ずさむ。
それ以上は彼が律した忠義に背くことになると理解しているからこそ、断じて口にはできない。
戦火の中で失われたいくつもの命。ユークリッド帝国と魔族の抗争、延いては魔族から人類への反逆の中で、いくつもの無駄な犠牲が生まれている。魔王の言葉の抜け道を縫うことしか出来ないが、騎士はエゴを押し通した。この膨大な力の下に、あの老人は城郭に囲まれた牢獄から逃げ出せただろうかと考える。東門の制圧に当たり、見送るまでの義理は無く今に至っている。
魔族である自分がしがない老人にかけた情けの行方はどこに向かったのだろうと、そのまま消滅するわけでもない上空の球体を眺め上げながら彼は夢想した。仮に無事城郭の先へ逃げおおせていたとしても、獣か何かに食い荒らされていても不思議ではない。老衰した肉体を考えても推察は自然に浮かぶ。そうだとしたら、真に無駄となったのは騎士のエゴなのだろう。
だが、そこに彼の中で葛藤は存在しなかった。
彼にとって何よりも優先すべきは魔王への忠義である。
どんな使命を授かっていたとしても、どんな意思を押し殺してでも、魔王の言葉はその全てを凌駕するのだ。
騎士が先を言うのも憚られたのは、絶対の忠誠故に。
決して共存はできぬ悲しき性なのだ。
だからこそ、騎士の呟いた言葉に含まれた意味はただの同情。
無駄に犠牲になった人々への無念、魔王のその力によって全てが無に帰す彼自身のエゴも含め、同情を凌ぐ忠義が言葉となって漏れ出した。その忠義が卑しい品性を一蹴してくれている。
万が一にも起こり得るはずのない背信の行為を、忠義に誓い頭の中から振り払う。
あくまでも同情、哀れみに過ぎない思いはいつでも捨てられる覚悟を刻んだ。
自らの主の魅せる力の圧倒的で膨大な美しいまでの器量に、尽くすべき忠誠が間違いではないという自負が生まれる。
それ故に、奪う必要までは無かったはずの命を、騎士は空しく受け入れるしか出来なかった。
少女が官能的に息を漏らし、騎士が虚無感を吐き出す、同じ空の下。
一匹の狼は獰猛な笑みを浮かべたまま、表情とは裏腹に不機嫌そうな愚痴を零す。
「何だよ。結局、美味しいところは魔王様に取られちまうんだな」
彼は魔王の命令を大義名分に存分に暴れてきた。その脇腹に抱えた傷口を意に介せず、物足りなさそうに口を動かした。しかし、不満ばかりに見えないのは、やはりその表情が分かりやすい心情を読ませてくれているからだろう。
戦いの場に求める快楽があからさまに表情へと浮かび挙がる喜怒哀楽の読みやすさは、彼が呟いた言葉の真意を表している。
実際に彼らが見上げるそれは魔王の片影に過ぎないが、その力を魔王そのものとして見受けてしまうほど膨大で圧倒的な存在感。事実上、魔王の力によりユークリッド帝国が滅することは確定しているのだが、自分たちがここまで追い詰めてきた意味を見失ってしまうようだ。その最後の仕上げの部分だけこれほどまでの豪快な力を見せつけられては、彼も笑うことしか出来なかった。
戦いで得る快感を奪い取られるような感覚、されどその力に敬意と羨望があるからこそ、不満と笑みが混ざり合っているのだ。
裏腹なようで矛盾しない感情が魔王の力の大きさを表している。見るからに分かりきった大きさだが、帝国一の将と痛み分けした彼ですらそこに羨望を抱くほどである。彼にすら持ち得ない力の、その更に果てしなく遠い差を埋め合わせる術など人間風情にはあるはずもない。
どの観点からも決まった滅亡が戦いに終止符をもたらす。
戦いの終わりは彼から愉悦を奪っていく。
さりとて、分かりやすい喜怒哀楽は充足感を浮かべていた。
戦いばかりを好む彼でも、彼なりの忠義はある。
それは絶対的強者への強弱の崇拝だとしても、少なからず彼はその力に惚れ込んでいる。
愉悦、快楽、戦いの締めが魔王の力によって下されるならば、彼もまた同属の人並みに歓喜しているのだ。
終わりに向かって空しくなる感覚と共に逸楽が強くなっていく。
彼は魔王の生み出した閃光を焼き付けるように、止めどなく上空を見つめていた。
球体は尚も鈍く輝き、彼らの期待を焦らして弄ぶように君臨している。
余剰な力が雷鳴を生み出し、球体から無数に閃光が走っている。
ユークリッドの地は、暗く、その影に包まれていた。