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イシュタルの罠  作者: 秋主雅歌
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古代の獣 第五章

 ジョシュアは砂漠の道を七日歩き通し、やっとイシュタル門に辿り着いた。

 目もくらむほど大きな、青い門。人々の波がそこに吸い込まれ、また吐き出されていく。

 門を守る兵士たち十数人が、厳しい顔で立っていた。

 ジョシュアは、その中の一番若そうな兵士に尋ねた。

「ラサル…、シャルマラサル様はどこにいるの?会いたいんだ」

 兵士は旅の埃にまみれたジョシュアの姿を、上から下まで値踏みするように見た後、馬鹿にしたようにニヤニヤと笑った。

「その目は、異国から連れてこられた奴隷だな。王様は王宮にいるさ。だがな、お前みたいな奴隷が会えるわけがなかろう」

「奴隷?僕は違う。僕は…」

 ジョシュアが睨むが、兵士は意に介さず、それどころか馬鹿にしたように口笛を吹いた。

「これは、これは」

 兵士はジョシュアの顎を指で摘まんで上を向かせた。「その泥を洗い流せば、なかなか綺麗なツラをしているんじゃないのか?どうだ?王様に会うより、俺と楽しいことしないか?悪いようにはしないぜ」

 兵士はいやらしげに腰を前後に振って見せた。

「触るな!」

 ジョシュアは怒りで真っ赤になって、兵士の手を跳ね除けた。

「なんだと、奴隷が偉そうに」

 若い兵士がジョシュアに掴みかかろうとした時、近くにいた年老いた兵士がその腕を掴んだ。

「よさんか!王の兵士として恥ずかしくないのか!」

 長い髭の老兵士は若い兵を厳しく叱責すると、今度はジョシュアの方を向いた。

「若者よ、今日はシャルマラサル王の戴冠行列がある。本来はもっと早くになさっていたはずだが、諸事情があってな。この近くで待っておれば、王のお姿を拝めるぞ」

 ジョシュアは改めてイシュタル門と、王宮へ通じる広大な「行列道路」と呼ばれる大きな道を見た。なるほど、道は人々でびっしりと埋め尽くされている。沢山の顔、顔、顔。全員が新たな王の訪れを待っているというのか。

 老兵士に促され、ジョシュアは人込みの中に入った。

 突如、「うおおおお」と、雷のようなざわめきが起こった。

「シャルマサラル王、万歳!」

 誰かが遠くで叫んだ。その声に応えるように、あちこちで声が上がる。

「全能なる神マルドゥクの息子!」

「愛される支配者、若きシャルマラサル王、万歳!」

 叫び声は伝染するように、あちこちから沸き上がってくる。

「王の行列が近付いてきたぞ」

 誰かが言った。祝福の花びらが雨のように降り注ぐ。

 ジョシュアの周りも、人だかりで動けないほどになっていた。

 人いきれにジョシュアの頭はくらくらとしたが、倒れるわけにはいかなかった。人々の頭の間から、行列の姿が見えたのだから。

 黄金で飾った王の護衛たちが、花びらの中を通り過ぎる。ある者は黄金の剣を捧げ持ち、またある者はマルドゥク神の化身たる竜ムシュフッシュが浮き彫りにされた盾を手にしている。

 そして貴族たち、神官たちが続く。彼らは皆、王への恭順を示すために両手を胸の前で組み、厳粛な面持ちだ。

 神官たちの一番最後を堂々と歩くのは、頭の禿げた老人。白く長い髭、目の玉は小さく、眼光が鷲のように鋭い。

 ジョシュアはドキリとし、思わず人込みに身を隠した。老人から見えるはずなどない。だがジョシュアは怯えた。

(あいつだ。テペとか言う…)

 その時、一際歓声が高くなった。

 そして、ジョシュアは見た。一頭の真っ白な馬に跨って、新王が現れるのを。

 それは、昇り始める太陽のように神々しく、眩しい姿。長身の若き王は背筋を真っ直ぐに伸ばし、凜とした面持ちで前を見詰めている。英知を秘めた瞳は紫がかった深い闇の色。冴え冴えとした額には、大きなラピスラズリをあしらった黄金の額飾りが煌き、イシュタル門と同じ藍色に染め上げられた長衣は、金糸で華やかに縁取られ、あちこちに神獣たちの姿が刺繍されていた。帯には精巧な細工で竜の横顔を彫り上げた金の短剣を差している。

 神の化身にも似た姿。ただ一点、本来は冠のように編みこまれるはずの髪に代わり、長衣と同じ藍色と金糸の布が頭に巻かれていたことを除けば。

「ラサル!」

 ジョシュアは叫んだ。

 だが、人々の歓喜の轟きに、ジョシュアの変声期の掠れた声はかき消され、王の耳には届かない。人々は狂ったように叫ぶ。「万歳」「神の祝福あれ」と。

「ラサル!僕だよ!」

「これ!それ以上はみ出すな!」

 護衛の兵士がジョシュアを押し留める。

「離せよ!僕は…」

 抵抗するジョシュアを、兵士は思い切り地面に叩きつけた。

「調子に乗るな!汚い奴隷が!」

 ジョシュアが痛みに呻いている間に、王は通り過ぎていった。ジョシュアに気付かずに。

「…ラサル」

 ジョシュアは呆然として行列を見送った。群衆はほどけるように方々へ散っていく。

(声すら届かなかった…)

 ジョシュアは地面に座り込み、泣き出したい思いで唇を噛んだ。

(何だ。髪なんかなくたって、ラサルは王様なんだ…)

 ジョシュアは服の上から、腹に巻いたラサルの髪に触れた。

(こんなものなくたって、ラサルは…皆に愛される王様なんだ)

 神のごとく眩いラサル。そして砂埃に汚れた自分。会うことなど許されるはずもない。まして、側にいることなど。

 ジョシュアは初めて、ラサルが言った言葉を理解した。

 --イシュタル門をくぐれば、私は王で、お前は奴隷だ--

 悪い夢を見ているようだ、とジョシュア思った。頬を悔し涙がポロポロと伝った。

(違う。谷の家での暮らしこそが、夢だったんだ。ラサルは華やかな王宮に戻れたんだ。そこがラサルのいるべき場所なんだ。もう僕のことなんか忘れたに違いない)

 帰ろう、と思った。帰って、あの谷でまた生きていこう。自分にふさわしい人生を。

 ジョシュアが立ち上がりかけた時、人込みの中から囁くような男たちの声がした。

「知っているか?王太子であられたナボニドス様は、メディアに逃れたらしいぞ。かの地で貴族たちに匿われているらしい」

「そうか、それではテペ神官も安心できないな」

「その通り。首尾よく、言いなりになる王子を王座に据えたはいいが、メディアの出方次第によってはナボニドス様が再び都を奪還するやもしれぬ」

「新王がいくら美しくとも、所詮はテペ神官の人形。あの頭では…」

「なんでも、髪がないそうじゃないか」

「そんな王では、神のご加護も得られるか怪しいものだ」

 ジョシュアが振り返ると、囁いていた男たちはそそくさと群衆の中に消えていった。

 その時初めてジョシュアは知った。王への恭順を装いながら、裏ではペロリと舌を出す人々がいるということを。

(こんなに人がいるのに、ラサルのことを本当に思っている人って、どれくらいいるんだろう)

 イシュタル門を、ジョシュアは見上げた。

 ラサルと初めて会った場所。ずっとついていきたいと思った。あの美しい人に。

 その時、群衆のざわめきの中から、囁くような歌声が聴こえた。


  現われたるは 七つ門

  最初の門で失うは 王の冠なりにけり


 ハッとして、ジョシュアは振り返った。だが、そこには誰もいない。

 かつて、ラサルが歌っていた歌。

「失ったのは、王の冠…」

 ジョシュアは門を見上げた。

(やはり、この髪をラサルに返そう。ラサルが僕にくれた王の冠を。ラサルこそ、最も王にふさわしい人なのだから)

 ジョシュアは誓った。

 イシュタルの神の天啓だと信じた。

 どうしてもラサルに会わなければ。


 ジョシュアは王宮に向かった。だが門番は「奴隷ごときが何を言う」とあざ笑った。

 それでも食い下がると、虫けらのように追い払われた。

 神殿に行ってみたが、やはり同じだった。

 ジョシュアは必死で方法を探した。通りを行く人々に手当たり次第、「どうしたら王様に会えるのか」と聞いたが、皆、苦笑して通り過ぎるだけだった。

 日も暮れ、ジョシュアは仕方なく宿を探した。

 宿の主人はつるりとした禿頭だが、人の良さそうな目をした老人だった。

(ちょっとシュルギに似てるな)

 そう思うと、ジョシュアの張っていた気持ちが少し緩んだ。

「お客人は一人かい?」

 主人が穏やかな口調で問う。

「うん」

「こりゃ勇気があるな。バビロンには行商かい?」

「違うよ。王様に会いに来たんだ」

「戴冠行列を見に来たのかね」

「そうじゃなくて…。あの、王様に会うにはどうしたらいいか分かる?王宮に行っても追い返されるんだ」

「そりゃそうだ。身分の高い人たちは、我々のような下々の者にはお会いにならないよ」

「でも、僕はどうしても王様に会わなくちゃいけないんだ。渡す物があるんだ」

「渡す物?それは何だい?」

「それは…」

「ああ、きっと秘密なんだね」

 シュルギに似た主人は、敢えて深く問いはしなかった。代わりに少し考えて言った。

「…方法は、ないわけではないよ」

「本当?」

「ああ。王様の家来に知り合いがいる。その『渡す物』とやらを、わしに預けてはくれないか?その品を見せたら、王様の家来も納得するだろう。お前と会ってくれるように取り計らってくれるだろうよ」

「そうか!そうだよね」

 ジョシュアは腹に巻いたラサルの髪に、服の上から触れた。が、思い直した。

(この髪を渡したら、今、ラサルの髪が奴隷みたいに短いことがバレてしまう)

「どうしたね?」

 躊躇するジョシュアを見て、老人は不思議そうに問う。

(あの指輪なら!)

 ジョシュアは袋の中に手を入れた。そしてラサルが彼に残した指輪を取り出した。

「これはもともと王様の物なんだ。これさえ見せれば、王様は僕だって分かるはず。会ってくれると思うんだ」

 主人の目が驚きで見開かれた。

「おお、これは何と立派なラピスラズリだ。なるほど、確かに王様の物に違いない。それではこの指輪をしばし貸しておくれ。王様の家来に話をつけるから」

「うん。でも大切な物だから、くれぐれもなくさないで」

「もちろんだとも」

 主人は、皺の多い顔をさらにくしゃくしゃにして、人の良さそうな笑顔を見せると、丁寧に指輪を懐の布で包んだ。


 翌日の夜、泊り客たちが寝静まったころ、横になっていたジョシュアは主人に揺り起こされた。

「静かに。これから私の後をついておいで」

「王様に会えるんだね!」

 ジョシュアはピョンと跳ね起きた。主人は目を細めて笑う。

「とにかくついておいで」

 主人は小さな灯火を手に、外へ出た。通りには松明があちこちに灯っているが、人通りはほとんどない。

「迷子になるんじゃないよ」

 主人はジョシュアの手をしっかり握ると、小路に入った。人が一人やっと通れるような道をいくつか曲がると、どこかから笑い声や音楽、そして肉が焼ける芳ばしい匂いがしてきた。その行き止まりに、煌々と明かりが掲げられた屋敷があった。賑わいはそこから漏れていた。

「ここは?」

「とにかくお入り」

 主人はジョシュアを握る手に力を込め、屋敷の中に連れていった。妙に嬉しそうな笑顔を浮かべたまま。

「サリア、連れてきたよ」

「遅いじゃないの。お客人はお待ちかねよ」

 出迎えたのは、背の高い細身の男だった。いや、男とも女ともつかなかった。胸こそないが、目元は緑色に、頬は紅色に塗られ、唇も濡れたように赤く染められている。サリアと呼ばれたその人物は、くねくねと蛇のように体を揺すりながらジョシュアに近付いてきた。

「ふーん」

 サリアはいきなりジョシュアの顎を持ち上げて、上を向かせた。そのまま、まじまじと見詰める。「…なるほどね。なんて綺麗な瞳をしてるのかしら。異国の宝石みたいな緑だわ。これは確かに久しぶりの上玉ね」

「あ…あの?」

 ジョシュアは戸惑った。

「あら、ごめんなさい。いきなりで驚いたでしょ。さ、湯を用意してあるから、まずは体を綺麗にしてちょうだい。そうでなければ、高貴な方には会わせられないわ」

 そう言って、サリアはジョシュアを屋敷の中へ導いた。

「そ…そうだよね」

 ねっとりと、サリアがジョシュアの背中や腕に触れる。ジョシュアは強張った笑いを浮かべ、だが誘われるまま、湯が盥に用意された部屋へ行き、髪にこびりついた砂埃を洗い、汗にまみれたからだを布で清めた。

 部屋から出ると、宿の主人はすでに消えていた。サリア一人がニヤニヤと笑っている。

 ジョシュアは不安になった。

「…あの、王様は、もう来ているの?」

「もちろん、さっきから首を長くしてお待ちかねよ」

 そう言うと、サリアはジョシュアの腕をとり、革紐で後ろ手に両手を括った。

「な、何をするんですか!」

「大丈夫よ。変なことじゃないわ。これから王様にお会いするのだもの、あなたが危害を加えないということを示さなければいけないの。そうでなければ側近が納得してくれないわ」

「そうなの?」

「ええ、そうよ。都ではそういう決まりなの。さあ、いらっしゃい」

 サリアはしなをつくって優しげに言うと、言葉とは裏腹に強引にジョシュアを引っ立てた。屋敷の奥深くへと進んでいく。

 屋敷にはたくさんの部屋があるようで、あちこちから音楽やら話し声やらが聞こえてきた。

 やがて、サリアは薄布を隔てた部屋にジョシュアを押し入れた。

「いい子にしててね」

 部屋の中には幕が下ろされた天蓋つきの寝台があった。その柱にサリアはジョシュアの両手首を括った革紐の一端を結わえる。

「何をするの?」

 不安になってジョシュアが問う。

「安心なさいな。何も恐いことはないから」

 サリアは楽しくて仕方がないという笑顔で答えた。

「あの、王様は、どこ?」

「今すぐに来るわ。あ、でも王様じゃなくて、将軍様だったかしらね」

 そう言うと、サリアは指を鳴らした。それを合図に、寝台の幕が開く。が、そこにいたのはラサルではなく、上半身裸の屈強な壮年の男だった。

「…あの、あなたは王様の家来?王様はいつ、来るの?」

 ジョシュアの問いに、サリアは高い声で笑った。

「まだ、そんなこと言ってるわよ、このお馬鹿さんは。いい加減気付きなさいな。ここは娼館なの。あんたは、あの宿のオヤジに売られたの」

「娼館…って、どういうこと?」

「気張って働きなさいってことよ。大丈夫よ、あんたみたいな見栄えの良い子なら、心がけ次第でひと財産作れるわ。私みたいにね。まあ、王様からお呼びがかかることはないでしょうけどね」

 事ここに至って、やっとジョシュアも自分の置かれた状況に気付いた。

「…騙したな」

 ジョシュアの緑の目が怒りで燃え立つ。けれど、サリアは笑ったままだ。

「可愛いこと言うわね。このバビロンではね、騙される方が悪いのよ。さあ、将軍様、どうぞご存分にお召し上がりになって。この将軍様は初物が大好物ででいらしてね。ああ、でも安心して。初めてなんだもの、体が壊れてしまうような無体なことはしないように言ってあるから。それに研究熱心な方だから、バビロンに伝わる愛の秘儀をほとんどご存知よ。安心して任せきって、すべて教えていただきなさい。後々役に立ってよ」

「サリア!」

 将軍、と呼ばれた男が低い声で唸る。「講釈はそのくらいでよかろう。酒も飲み飽きた。さっさと消えぬか」

「ごめんなさいね」

 サリアが高い声で笑う。「それではお邪魔虫は消えますわね」

 サリアは笑いながらそそくさと部屋を去っていった。

 残されたジョシュアは、将軍を睨みつけた。

 将軍は、大きな男だった。横幅はジョシュアの二倍はありそうだ。「将軍」かどうかは疑わしいが、確かに歴戦の勇者なのだろう。鋼のように日に焼けた上半身には縦横に刀傷が走っている。そして枕元には大振りな剣が一振り置かれていた。

 将軍は上から下まで舐めるようにジョシュアを見ると、丸太のような腕を伸ばしてきた。

「触るな!」

 ジョシュアは将軍を肘で跳ね除けようとした。が、柱に結わえられた革紐に阻まれ、動けない。将軍はニヤリと笑った。

「なるほど、これはサリアが吹っかけるだけのことはあるな。何と見事な緑の瞳だ。まるで愛と戦いの女神イシュタルの目のようだ。怒れば怒るほど、見る者を誘惑する。宝石のように美しく、凶暴だ」

 将軍の手がジョシュアの両肩を掴み、獣のような力で寝台の上に引きずり込んだ。そしてその大きな体で組み伏せる。

 ジョシュアは必死で手足をばたつかせるが、重量があまりにも違いすぎた。次第にジョシュアの顔が紅潮し、息が上がっていく。後ろ手に括られた革紐がきつく食い込む。

 将軍は薄ら笑いを浮かべ、ジョシュアの耳元で囁いた。

「もっと、もっと抗うがよい。おぬしは逃れられぬ」

 将軍は唯一自由なジョシュアの両脚も、柱のような毛深い自身の両脚で押さえ込んだ。

「良い匂いがするな。花の蜜のようだ」

 将軍はわざとらしく、ジョシュアの首筋で鼻を鳴らすと、そのまま舐め回し始めた。

「やめろ!気色悪い!」

 毛虫が這いずり回るような感触と、酒臭い唾液。恐怖にジョシュアの体が硬直する。だが、将軍は薄ら笑いをやめず、ジョシュアの耳を舐めながら、腰の下着に指をかけ、難なく破り捨てた。

 ジョシュアの体が大きく震えた。

「や、やめろ…」

「かわいいのう…。もっと、もっと、もっと、抗うがよい」

 将軍は荒い鼻息を吹きかける。「…ほら、分かるだろう?わが宝剣が、おぬしを貫きたがっておるぞ…」

 ジョシュアの背筋をおぞましさが稲妻のように走り、顔が大きく歪む。だが、将軍はそれを楽しむように、ジョシュアの体に回した腕に力を込める。

「…や、やだ!」

 ジョシュアは驚きと恐怖で泣き叫んだ。「やめろ!頼むから!」

「大丈夫だ。最初は苦痛だが、すぐに気持ちよくなって、やがておぬしから求めるようになるさ」

(ラサル!助けて!)

 叫びたいのに、恐怖で声が出ない。ジョシュアは固く目を閉じた。

「そら、もうすぐだ」

 将軍の勝ち誇ったような笑いと一緒に、彼のぬらぬらとした熱い舌が、頬をゆるりと撫でていく。

(ラサル!助けて!助けて!)

「おお、かわいい顔をして」

 将軍はジョシュアの顔に唇を寄せ、口に吸い付いてくる。

 ジョシュアは必死で歯を食いしばった。将軍の粘っこい舌が口に入り込まないように。

(僕はラサルのものだから)

 ジョシュアの脳裏に、ラサルと別れた夜が蘇る。あの口付けを、汚させちゃいけない。あの口付けだけが真実なのだから。

(私はお前だけのものだ)

 その時、ラサルの、低く優しい声が聞こえた気がした。

 ジョシュアは閉じていた目をカッと見開いた。

 ラサルの優しい瞳が、凛とした横顔が眼前に蘇る。僕のために大事なものを捧げてくれた王。

(何を甘えてる。僕が、僕がラサルを助けるんだ。僕があなたの側にいる。どんなことがあっても、僕が助ける!)

 ジョシュアは喉に全身の力を込めた。布を引き裂くような高い悲鳴が、やっと口から迸る。

「やめろ!」

 一度声が出てしまえば、何度も叫ぶことができた。「やめろ!やめろ!やめろ!」

 将軍は小さく舌打ちした。

「ええい、黙っておれ!」

 将軍はジョシュアの脚を押さえていた腕を外し、悲鳴が溢れるその口を塞いだ。

 その瞬間、ジョシュアの解放された脚が、将軍の頭を横から思い切り蹴り上げた。不意をつかれ、将軍は寝台から転げ落ちる。その隙にジョシュアは飛び起き、枕元に置かれていた将軍の大振りな剣に、後ろ手の革紐を押し当てて断ち切った。手の皮膚も一緒に切れたが、構ってはいられない。

「…貴様…」

 将軍は首をコキンと鳴らすと、おもむろに立ち上がった。怒りと屈辱で体から湯気が出そうだ。「せっかく可愛がってやろうと思っておったのに、礼儀を知らぬ愚か者よ」

 両手が自由になったジョシュアは、将軍の剣を構えた。

「そっちこそ、大人しく僕に従え。命が惜しくないのか」

 将軍は鼻で笑った。

「その太刀を振り回せるとは、剣の心得はあると見た。なかなか感心だ。だがな、剣は一振りだけだと思ったか?」

 と言うや、将軍は寝台の下に屈み込み、素早くその下に隠していたもう一振りの剣を取り出し、ジョシュアの剣にピタリと寄せた。

 新たな剣は、ジョシュアの手にある物よりも、さらに大振りだった。刃毀れもある。

 それを見た瞬間に、ジョシュアは分かった。将軍が今、手に取った剣こそが、彼が戦地で数多くの命を奪ってきた剣なのだと。それほどに剣は将軍の手に馴染んでおり、鈍く不気味な輝きを放っていた。

 ジョシュアは唾を飲み込む。じっと相手の動きを見、間合いを探った。

 大柄な相手と闘う時には、どうしたらいいのか。ジョシュアはラサルとの剣の稽古を必死で思い出していた。

(まともに打ち合ったら、力負けする。頭を使え、頭を)

 ジョシュアは将軍に向かって剣を振り下ろした。最初は右から、さらに素早く左から。

 だが、案の定、将軍の剣はやすやすとジョシュアの剣を受け止める。やはり適わないほど強い。だが、ジョシュアはそれを何度も続けた。

(焦るな。あいつは酒を飲んでる。ゆっくり酔いを回らせるんだ…)

「その程度か?愚かな小童め。調子に乗るな。お前ごとき奴隷が将軍の手にかかることを光栄に思え」

「…奴隷?」

「ああ、下賎な国から連れてこられた奴隷めが。さあ、お遊びは終わりだ」

 ブン、という重い音がして、将軍の剣がなぎ払うようにジョシュアの脇腹を襲った。

 あまりにも早い剣の動きに、一瞬ジョシュアの反応が遅れた。

 脇腹に、熱く重い衝撃が走った。

 やられた。

 そうジョシュアは思った。剣の勢いで部屋の端まで吹き飛ばされ、背中を壁に打ち付けた。

 ジョシュアの体は、蹲ったまま動かなくなった。

「愚か者が。私に勝てるとでも思ったか」

 将軍は剣を下ろし、汗を拭った。「おい、サリア、この死体を片付けろ!」

 「死体」から将軍が目を離した瞬間、ジョシュアが跳ね起き、将軍に向かって剣を振り下ろした。

 将軍の右手は剣もろとも飛んでいき、続いて血しぶきが噴水のように噴き出した。最後に、大男の悲鳴が部屋中に響いた。

 ジョシュアは荒い息を整えると、そっと脇腹に触れた。自分でも驚いたことに、どこからも血は出ていない。確かに剣をまともにくらったのに、服が切れているだけだ。

 ハッと、ジョシュアは気付いた。ラサルの髪だ。編んで腹に幾重にも巻いていたラサルの髪が、鎧となって剣から身を守ってくれたのだ。ジョシュアはラサルの髪に触れた。一部は切れてはいるが、まだしっかりとジョシュアの腹を、命を守っている。

(ラサルが守ってくれた…) 

「この、奴隷が…!」

 血だまりの中で将軍が呻いた。

 ジョシュアは目を見開いたまま冷然と彼を見下ろした。

「確かに僕は奴隷かもしれない」

 ジョシュアは呟いた。「でも、だからと言って、なぜ僕がお前ごときに踏み付けられなきゃいけないんだ。お前みたいなけだものに…」

 将軍は答えず、そのまま気を失った。

 サリアは薄物の影でこちらを恐ろしげに見詰めていた。

 ジョシュアはサリアを睨む。

「…お前らが、お前らが悪いんだ。僕のせいじゃない」

 そう言い捨てると、ジョシュアは両手と顔に散った血を部屋の薄布で拭き取り、悠然と将軍の剣を手に娼館を出ていった。

 慌ててサリアや召使たちが追いかけたが、冷たく燃えるジョシュアの緑の瞳の恐ろしさに、誰も止められなかった。 

 

 


    


 

 




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