古代の獣 第四章
どこまでも青く空が澄み渡る朝、ラサルはバビロンへと去っていった。
馬上のラサルは、連行される罪人のようだった。
轡を忠臣シュルギがとり、そのすぐ後を馬に乗ったテペが付き従ってはいても。
穏やかな笑顔を浮かべてはいたが、紫がかった瞳はすべてを諦めたように表情がなかった。
ジョシュアは何も言わず、ラサルたちが去るのを見ていた。一行が道の彼方、点となり、やがて消えてしまってもなお、立ち尽くしていた。彫像になったかのように。
ジョシュアは一人残された家で、ただ生きていた。
今までと同じように水を汲み、近所の家の山羊の世話をし、その乳とパンをもらう。誰もいない家でそれらを食べ、木刀を抱えて素振りをして、そして疲れ果てたら一人で眠った。
ジョシュアは何も感じないように、いつも通りに生き、いつも以上に仕事に精を出した。
ラサルが残した髪と指輪は、布に包んで甕の奥にしまいこんだ。
見ないようにして、ただ日々を生きていた。
見てしまったら、ラサルを思い出してしまうから。
そして考えてしまうから。
もう今ごろ、ラサルは都で王様になっているのだろう、と。
舌がとろけるような食事をし、酒を飲み、見たこともない豪華な衣装をまとい、多くの人々に傅かれ、敬われ、まばゆい玉座に座っているのだろう。
望むものはすべて手に入り、この世のものとも思えぬほど美しい女官が侍っているのだろう、と。
ジョシュアは頭を振った。
それで、いいのだ。ラサルはこの世の誰よりも優しく勇敢で、賢者よりも賢く、鳥よりも美しい。
王になるべき人なのだ。
これで、これで、いいのだ。
そうして、一月ほどが経った。
いつものように山羊を草地から近所の家に届けた時、主人であるジッダが嬉しそうに話しかけてきた。
「ジョシュア、いつもすまんね。本当に助かるよ」
ジッダは大柄な中年の男で、いつもニコニコと楽しげだった。ただ両膝を悪くしていて、山羊を追うのは大儀になっていた。
「明日は来られるのだよね」
「もちろん、いつも通りに朝一番に来るよ」
「おやおや、やっぱり忘れていたな。山羊の世話はいいんだよ。明日は末娘の結婚式だから、祝いに来てくれ、と言ったじゃないか」
「え…?ああ、そうだったね。うっかりしてた。でも…」
「父上と兄上はまだ戻らないのかい?」
「…え、うん」
「今回は随分遠くまで行商に行ったんだね。だがラサルが一緒なら安心だ。じきに戻って来るよ」
「…うん」
「ジョシュアだけでも来ておくれ。夕刻からだよ。ご馳走も用意しておくからね」
口ごもるジョシュアに気付きもせず、ジッダは嬉しそうに彼の背を叩いた。
翌日の夜、ジョシュアが宴の席に顔を出すと、すでに花婿と花嫁を囲んで三十人ほど村人らが集まり、余興が始まっていた。
幸せそうな二人の前で、吟遊詩人が竪琴を鳴らしながら景気の良い歌を勿体つけて歌っている。
「ジョシュア、よく来たね。いい声だろう?都から来た吟遊詩人だ」
ジッダは両手を広げてジョシュアを歓迎した。
「そうだね。お祝いの席にピッタリだ」
空いた隙間に座り、勧められたナツメヤシを口に運びながら、ジョシュアは愛想笑いをした。
(いい声だって?ラサルに比べたら、カエルみたいなもんだ)
その時、竪琴が以前聴いた旋律を奏で始めた。不安げな和音が波のようにつづく。
時はついに来たれり
麗しの豊穣の女神 冥界へくだりぬ
現われたるは 七つ門
「おいおい」
ジッダは珍しく顔をしかめて言った。「祝いの席だ。『イシュタルの冥界くだり』はやめてくれ」
「すみません、持ち歌が尽きちゃったもんで」
吟遊詩人は悪びれず、笑って頭を掻いた。二十代くらいの整った容姿の若者だが、年の割に濁った白目が、どこか崩れたようなだらしなさを感じさせた。
「ならば、無理して歌わなくてもいい。面白い話をしてくれ。都の噂話とか」
「お安い御用です」
そう言うと、吟遊詩人はジッダの側に腰掛けた。杯を差し出し、ジッダから麦酒をねだる。かなりの酒好きらしかった。「それでは新しい王様の話をいたしましょう」
ジョシュアの体がビクリと震えた。その手からナツメヤシが零れるが、ジッダたちは気付かない。
「おお、王様が亡くなったと聞いたよ。ナボニドス様の戴冠式はまだなのかい?」
「それがですね、先王様が亡くなる直前、世継ぎのナボニドス様は都を追い出されてしまったのですよ」
「そりゃまた、どうして」
主人の問いに、詩人はわざとらしく眉間に皺を寄せ、頷きながら言う。
「こんなことを申すのも不敬ですが、ナボニドス様というお方、良い噂はとんと聞きませなんだ。女と見れば、手当たり次第。子供も老女も関係ございませぬ。その上神殿への寄進をケチり、巫女を自分の寝所に連れ込み、もう好き放題。毎日毎夜、酒を浴びるように飲み、大騒ぎをしてばかりだったとか」
「とはいえ、先の王様の王子は、もうナボニドス様しかおられぬのだろう?」
「いえいえ。何と、七年前に死んだとされた、シャルマラサル王子が突如現れたのでございます」
ジョシュアの鼓動が早まる。
「死んだはずの王子様が?それは怪しいな。本物なのかい?」
ジッダは酒を飲みながら笑う。吟遊詩人も一緒に笑った。
「さあ、本当のところは分かりません。神官が連れてきたのですよ。今まで山奥の神殿で匿っていた正当なお世継ぎだとね。ちらっと見た者の話だと、そりゃあもう堂々とした美しい青年だったそうですよ。見かけだけは、こう言っちゃなんですが、ナボニドス様は相手になりません。ただですね…」
「ただ、何だい?」
「その青年は、奴隷みたいな散切り頭だったそうですよ。王様がそんな頭じゃ、神々と本当に話ができるのか、あやしいもんだと巷では噂になっています」
「それは困ったものだな」
ジッダも勿体つけて頷いた。
「そ、そんな。たかが髪なのに?」
思わずジョシュアは叫ぶ。
「おいおい、ジョシュア。お前はそんなことも知らないのかい?」
苦笑してジッダが説明を始めた。「王様の髪には、聖なる力があるのだよ。奴隷みたいな頭の王様では、神々がお怒りになる。また旱魃が起きるかもしれん」
「そうですよ、坊ちゃん」
詩人はジョシュアを馬鹿にしたように言う。「そんな奴隷のようななりの、素性の怪しい王子を新たな王と認めるか否か。王宮では連日、ケンケンゴウゴウの論議になったとか。結局、神官が摂政となることで、なんとかことは収まりましたが」
「そんな王様では、先行き不安だな」
「そんなことないよ!」
ジョシュアは立ち上がっていた。
「おいおい、ジョシュアが怒ることではないだろう」
ジッダが笑い、慌ててジョシュアも愛想笑いをした。
「そ、そうだね。ごめんなさい。楽しい式の最中に大声出しちゃって」
「ジョシュア、麦酒を飲み過ぎたのか?」
「やだな、大丈夫だよ。でも、そうだね、今日はもう帰るよ」
笑顔でその場を辞すと、ジョシュアは誰もいない家へと急いだ。
寝所に置いた甕の底には、丁寧に布に包まれたラサルの長い黒髪があった。
ジョシュアはその髪に顔を寄せた。
別れた時と同じ、涼やかな花の香りが微かに残っている。
「…バカじゃないのか、ラサルは」
ジョシュアは目を閉じて一人ごちた。「こんな大事な物を置いていったら、王様になれないじゃないか。ラサルは…バカだ。大バカだ」
目から涙があふれてきた。ジョシュアは涙を腕で乱暴に拭うと、何度も何度も残された髪に口付けた。
翌朝、ジョシュアは家を出た。
背中に背負った袋には少しのパンと干し肉に水筒。そしてラサルの指輪。
ラサルの髪は編んで太い紐にし、腹にじかに巻いた。大切なものだから、誰にも気付かれないように渡さなければと思ってのことだった。
(早くラサルに髪を届けなくちゃ。ラサルは誰よりも立派なんだ。誰にも陰口なんか言わせない)
馬はない。
ジョシュアは、かつてラサルたちが消えた砂漠の道を徒歩で歩き出した。
一人でも不安はなかった。ラサルに会いにいく。それだけしか考えていなかった。




