騎士の砦 第十六章
ファビアンとトグルルが地下牢で梟の声を待っていたころ、管区長代理のフィリップは、胸苦しい夢の中にいた。
あの指輪のせいだ。あの、緑の石の指輪が見せる悪夢だ。
深い緑の中に、赤黒い何かが見える、あの奇妙な石のせいだ。
それは分かっているのに、誰も見ていなければつい、あの指輪を手に取ってしまう。
その夜もやはり、フィリップの左の薬指には、あの指輪がはめられていた。
夢の中で、麦の穂色の髪をした少年が泣いている。それはいつもの通りだ。悲しげに、あの、女神が冥界に下る歌を口ずさんでいる。
フィリップは少年に声をかけた。なぜ、泣いているのか、と。
(歌が見付からない)
何だ?歌?
(お願いだから、歌ってほしい。幸せな結末の歌を)
少年は顔を上げた。あの石と同じ緑の瞳が濡れている。睫もきらきらと濡れて光る。ああ、何と美しい瞳だろう。麦穂色の髪も、まだあどけない細い肩も…。
フィリップは唾を飲み込んだ。修道騎士として生きてはや二十年が過ぎた。体の奥底から痛みとともに湧くような切なさなんぞ、ついぞ忘れていた。いや、一度も味わったことが無かったかもしれない。今すぐに抱き締めたくなるような、衝動。これを、愛しさと呼ぶのだろうか。
フィリップは夢の中の少年の、細い顎を指でつまんだ。少年はされるがままでいる。少年神のような凛々しさ、真っすぐな美しさ。フィリップはしばし魅入られたように見詰めた。だが、次第に片方の目が空洞に変わっていく。底知れぬ闇が、瞳があった場所にぽっかりと穿たれている。フィリップの背筋に、冷たい汗が流れる。
お前は、何者だ?悪魔なのか?
フィリップの問いに、少年の声が答える。
(僕は、ジョシュア)
声変わりをしたばかりのような、掠れた甘い声。
だが、空洞の瞳からは、別の声も一緒に響いてきた。地獄の底からの呻きのような、低い声が。
(我が名は、イシュタル)
少年の目の空洞から、黒いもやのようなものが染み出してきた。それは、少年の顎を掴んでいたフィリップの指に、ねっとりと絡みつく。空洞からの声もまつわりついてくる。
(我が名は、イシュタル。我が望みは、我を見捨てたこの世のすべてを焼き尽くし、奪われた我が宝を取り戻すこと…)
やがて、黒いもやは竜の形になっていく。
フィリップは、ガバッと寝所から跳ね起きた。
「…夢だったのか」
肩を上下させ、大きく息を吐き出した。ひどく汗をかいていた。激しい鼓動がいつまでも治まらない。枕元の水を一口飲んだ。
「…ジョシュア…か」
フィリップは、その名を口に出してみた。
ジョシュア、ジョシュア、ジョシュア…。
途端に、フィリップは立ち上がった。
会いたい。もう一度会いたい。ジョシュアに。
あの少年は、きっと何か禍々しい力に取り込まれているのだ。助けなければ。救い出し、そして、この腕に抱きたい。
「トグルルなら、何か知っているはずだ」
フィリップは一人ごち、指輪をしたまま蝋燭を持って上衣を羽織り、部屋を出た。トグルルのいる、地下牢を目指して。
一体、ファビアンは何を手間取っているのだ。早く、あの少年の手がかりを得なくては。
フィリップは狭い階段を駆け下りた。神の怒りのような地震は恐ろしいが、もう最近は沈静化したはずだ。恐れるに足りぬ。
「もう、ファビアンなんぞには任せておけぬ」
言葉にしたその時、ドーン、という突き上げるような音がして、フィリップは地面に叩きつけられた。再び地面が大きく揺れ始めたのだ。
溜まりに溜まった怒りを爆発させたように、地面は激しく揺れ続ける。
先日の地震とは比べ物にならないほどの、激しく、長い揺れ。
地下ではファビアンとトグルルが体を寄せ合って、揺れから互いの身を守っていた。
咄嗟にファビアンがトグルルを牢から引きずり出したまでは良かったが、二人ともあまりの揺れに立ち上がることができない。抱き合い、ただひたすら揺れが治まるのを待った。
先ほどまでいた牢は、あっという間に天井や壁の石が崩れ落ち、埋まっていった。地上へとつながる階段も、ガラガラと崩れ始めている。
ファビアンはゾッとした。トグルルを連れ出すのが少しでも遅れていたら、二人とも石の重みで潰れていただろう。
あちこちで壁の石が崩れる音がする。ファビアンはしっかりとトグルルの肩を抱き締めた。
とその時、大きな石が幾つも頭上から降ってきた。
「うっ」
ファビアンが呻いた。咄嗟に頭は避けたが、尖った大きな石が一つ、彼の左肩を直撃したのだ。だが、ファビアンは腕の中のトグルルをかばったまま動かなかった。
やがて、永遠とも思えるような時間が過ぎ去り、揺れは、カタカタという音を残して少しずつ治まっていった。
ファビアンの腕の中でトグルルが頭を揺すり、大きく息を吐いた。
「揺れは、終わったか?」
『ああ、どうやら治まったようだ』
「おい、大丈夫か。怪我をしたのか」
『…なんでもない』
ファビアンは笑って見せた。
「見せてみろ」
『大丈夫だと言っただろう』
ファビアンは体を引いた。左肩がドグン、ドグンと熱い。石はファビアンの肩の肉を裂き、血が溢れるように流れていた。けれど、彼はおくびにも出さず、努めて平静な声で言った。『それより、早く逃げよう。また揺れが来たら今度こそ、ぺしゃんこだ』
「ああ、そうだな」
暗闇のためファビアンの怪我に気付かなかったトグルルは、大人しくその言葉に従った。
『階段が、まだ使えるうちに行こう。急ぐぞ』
ファビアンは無事な方の右肩でトグルルを支えると、彼を引き上げるように手探りで暗闇の狭い階段を登り始めた。
だが、その足がふと、止まった。
誰かが、来る気配がする。
「どうし…」
『シッ!』
ファビアンはトグルルとともに壁に体を押し付けた。
蝋燭のあかりだろうか。階段はらせん状にカーブしているため、はっきりとは分からないが、上から誰かが降りてきたようだ。微かに光が揺れているのが見える。次第に男の影も、見えてきた。一人のようだ。
一歩、また一歩と影がゆっくりと近付いてくる。こちらには気付いていないようだ。
どうする?
ファビアンはゴクリと唾を飲み込んだ。
『これを杖にしろ』
ファビアンは自分の腰に差していた刀をトグルルに渡した。『私があの男を引きつける。その間にお前は逃げろ。そのまま上へ登れ』
トグルルは目を丸くした。
「それでは、お前はどうするんだ」
『案ずるな。私もすぐに後を追う』
「だが…」
『お前のような怪我人がいては、足手まといだ。先に行け』
「わ…分かった」
『それでは、行くぞ』
その言葉と同時に、ファビアンは自分の上衣を脱ぐと、明かりに向かって走った。
上衣を思い切り振り下ろした。途端に蝋燭の炎が布でかき消され、真っ暗になる。
「な、何者だ!」
男が叫んだ。
ファビアンは素早く男に抱きつき、あえて男の顔を自分の胸に押し付けて男が何も見えないようにした。そして大げさに叫んだ。
「た、助けに来てくださったのですね!ああ、神に、神に感謝を」
「な、何者だ!離れろ、離れろ!」
突然の事態にパニックになったように叫ぶ男を押さえ込みながら、ファビアンはトグルルに目で合図した。「行け」と。
トグルルはファビアンに従い、暗闇の中で剣を杖代わりにして素早く階段を駆け上がった。怪我をしているとは言え、刺客だった男だ。気配を消すのは慣れている。男には気付かれなかったようだ。
トグルルは一瞬、迷った。ファビアンを残していいのか、と。もし、自分を逃がしたことがばれたら、彼はどうなってしまうのか。
だが、思い直した。片方の足が動かない自分は、確かにファビアンにとって足手まといだろう。彼なら一人でも大丈夫なはずだ。地下牢の通路を知り尽くしているし、細く小柄に見えても、修道騎士だ。彼ならば、きっとうまく逃げ出せるだろう。そして、言葉通り追いかけてくるだろう。
ファビアンなら、一人でも大丈夫だ。
そう考え、トグルルは自分を納得させた。
そう、俺はララを助けなければいけない。助けるべきなのは、ファビアンではなく、ララなのだ。
ファビアンはありったけの力を振り絞って、男に抱きつき続けた。男がもがくたびに肩の傷が裂け、さらに血が溢れるが、絶対に離してはいけない。
しばらくして、トグルルの気配が感じられなくなった。
無事に外へ出たか。
そう安堵した瞬間、ファビアンの力が抜けた。
それを待っていたかのように、男はファビアンを払いのけた。
「いい加減にしろ!」
男が叫ぶ。その声に、ファビアンは眉を寄せた。
「まさか、管区長代理殿…?」
どこかの従士だと思っていた。フィリップは地震を恐れ、地下牢には来たがらなかったはずだ。それなのに、どうして、こんな崩れた階段を使ってまで彼はここに来たのだ?
「お前は、兄弟ファビアン、だな」
フィリップも、声で相手が誰か分かったようだ。ファビアンは暗闇とはいえ、慌てて頭を下げた。
「そ、その通りでございます。このような場所にまで、管区長代理殿自ら助けに来てくださるとは…」
フィリップは大きな咳払いをした。助けになぞ来たのではない。トグルルに尋問に来て地震に遭ったのだ、とは口が裂けても言えないことだ。
「自らの命を投げ打ってでも、わが兄弟たちを助けるのは当然のことだ。で、兄弟ファビアン、あの獣はどうした?」
「…ああ…」
やはり、そう聞かれるか。
ファビアンは咄嗟に頭を巡らせた。そして大げさに嘆いて見せた。「管区長代理殿、地下牢は崩れてしまいました!私は命からがら逃げおおせられたのですが、鎖に繋がれていたトグルルは崩れた天井に…」
「何だと!」
「地下は恐ろしい状況でございます。あの獣、たとえ悪魔の手先であろうとも、このような形で命を亡くしてしまったこと、悼んでやらねばなりますまい…」
「本当に、本当にあの獣は死んだのか?」
フィリップが、執拗に問う。だが、ファビアンはその芝居をやめるわけにはいかなかった。
「どんな獣でも、あのような状況で生きているとはとても…」
「…唯一の、ただ一つの手がかりだったものを…」
もちろん「鷹の爪」の、ではない。あの、少年につながる手がかりだ。フィリップは肩を落とした。もちろんその理由は言わなかったが。
「…それでは、兄弟ファビアン、神かけて、あの獣は死んだ、と言うのだな…」
「はい、神かけて」
ファビアンは、平然と言い放った。胸の奥で後ろめたさがチリチリと燃える。が、もはや後には戻れない。「管区長代理殿、この地下は危険です。さらに崩落が進むと思われます。さあ、一刻も早く地上に戻りましょう」
そこまで言った後、ファビアンは目の前がぐらぐらとするのを感じた。地震が再び訪れたのかと思ったが、そうではなかった。揺れているのは彼だけだった。左肩からの出血はすでに足元までも濡らすほどで、貧血を起こしたのだった。ファビアンは、そのまま意識を失い、フィリップの足元に崩れた。
その頃、トグルルは闇に紛れて、騎士の砦の鉄の門を出たところだった。
まだ夜は明けていなかったが、修道騎士や従士たちは皆、地震で崩壊した建物から生存者を助け出すことに専念している。トグルルが平然と鉄の門を出ても、気に止める者はいなかった。トグルルは従士の服を着ていたし、猫の手も借りたいほど忙しい中、誰何する余裕などなかったのだ。
しばらく、トグルルは闇の中を剣を杖に歩いていた。
街道沿いの町も、地震によって姿を変えていた。地面には亀裂が入り、棗椰子の木が根こそぎ倒れている。
(急がなければ)
トグルルは、鼓動が早まるのを感じた。これほどの地震だ。ララは無事だろうか。ララのいた岩の洞窟は崩れはしなかったか。気持ちばかりが焦るが、怪我をした足がうまく動かない。その上、傷が開いたのだろう、歩くごとに激痛が走った。
その時、街道の脇で焚き火をしながら野宿をしている一行を見つけた。
修道騎士たちらしい。十人ほどだ。傍らに馬をつないでいる。
あの馬をいただこう。
トグルルはそっと近付いていった。背後まで来たとき、彼らの会話が聞こえた。
「やっと馬たちも落ち着いたようだ。しかし、恐ろしい地震だったな」
「こうなっては仕方がない。『鷹の爪』の捜索を諦め、明日、騎士の砦に戻ろう。兄弟たちが皆、無事だといいが」
「結局、『鷹の爪』については何の収穫もなかったのだから気は重いが。フィリップ殿はさぞやご立腹だろうしな」
「兄弟ジャン、結局、兄弟ファビアンの話はでたらめだったな」
「いや、でたらめ、というよりも、兄弟ファビアンも騙されたということだろう。仕方がないことだ。相手は悪魔の手先だからな。さあ、皆、もう休め。火の番は私がしよう」
その言葉に男たちは同意して体を横たえた。すぐにあちこちで寝息がたつ。
トグルルは、茂みに身をひそめ、一人残ったジャンと呼ばれた男の後ろに、そっと近付いていった。
その翌日、度重なる地震の後片付けに追われていた騎士の砦に、その報はもたらされた。
「兄弟ジャンが、殺されました!」
「『鷹の爪』の仕業か?」
フィリップは目を剥いた。
だがジャンとともに行動していた者たちは困惑した表情だった。ともに「鷹の爪」を探していた兄弟パウロが口を開いた。
「何とも言えません。あの鮮やかな手口はまさに『鷹の爪』。兄弟ジャンは一瞬にして、絶命したのです…。我々は彼が死んだことすらしばらく気付かなかったくらいです。朝、声をかけたときにはもう…。その所業はまさに『鷹の爪』の刺客。ですが…」
「何だ、言ってみろ!」
フィリップが焦れて怒鳴る。仕方なく、パウロが口を開いた。
「兄弟ジャンの背中には、これが刺さっていたのです」
彼らが出したものは、修道騎士の銘が入った剣だった。
「これは…どういうことだ?」
「その刺客は、兄弟ジャンの馬を奪って逃げたようです。このようなことができるのは、もしかしたら、我々が捕らえていた、あの獣ではないかと」
「まさか、トグルルか?」
「…はい」
「だが、トグルルは地下で死んだ、と…」
「本当に、あの不死身の獣が死んだのですか?」
パウロの言葉に、フィリップの顔が見る見るうちに怒りで歪み始めた。そうだ、誰もトグルルの死体を見ていない。
騙したのか、ファビアン。
「ファビアンをこれに呼べ!」
そのころ、ファビアンは寝台の上にいた。肩の傷が思いのほか深く、助けにきた兄弟たちによって地上に引き上げられてからずっと眠り続けていたのだ。
「ファビアン様!」
従士ルネが、ファビアンの体を揺すった。
「ファビアン様、起きて、起きてください!」
その痛みで初めてファビアンは目覚めた。
「…何ですか?」
「フィリップ管区長代理がお呼びです。今すぐに来てください。あの獣の行方について聞きたいと」
その言葉と従士ルネの神妙な表情で、ファビアンは理解した。
すべてが明るみになったに違いない。
トグルルは無事逃げられたのだろうか。多分、大丈夫だろう。だからこそ、自分が呼ばれるのだ。
きっと今ごろは、トグルルはララのところにたどり着いているはずだ。
ファビアンは小さく溜め息をついた。それは、安堵であり、そして、寂しさでもあった。
戻って来てはほしくない。けれど、少しだけ心の底で、彼が助けに来てくれたならとも思った。それは望んではいけないことだ。
もう、いい。
これで、いい。
これで、私の役目は終わりだ。
すべてが、終わったのだ。
ファビアンはかすかに笑った。
その横顔に、従士ルネは一瞬見とれた。穏やかで、慈愛に満ちた眼差しは、聖母像のようにも見えたから。




