騎士の砦 第十五章
翌日、ファビアンは布袋を抱えて地下牢へ降りてきた。
『今夜だ、トグルル』
ファビアンはトグルルの耳元で囁いた。従士も見張っていない今、誰も聞いていないことは分かっているが、やはり大声では言えないことだ。
「本当にやる気なのか?」
いまだ信じられずに、トグルルは問う。だが、ファビアンの淡い緑の瞳は微塵も揺るがない。
『袋にパンとチーズ、そして薬草を入れておく』
ファビアンは茶色の草を指し示す。『鎮痛作用がある。茶にして飲んでもいいし、震えや発作が来たときは、布に包んで口に入れろ。そのまま噛み締めていれば、いつかは治まる』
さらにファビアンは従士の衣を彼に手渡した。
『これを着ろ。お前には小さいだろうが、夜目には分からぬだろう』
トグルルは眉を寄せた。
「それで、お前はどうするのだ?俺が逃げたと分かっては、今度はお前が責められる」
『案ずるな。私もすぐに後を追う』
「そう、なのか…?」
納得していないトグルルを、ファビアンは無視して無理矢理衣を着せ、腰にパンや薬が入った布袋を結わえた。その上からマントを掛け、頭巾をかぶせた。
『あと少し待て。梟の声がし始めたら、夜陰に乗じて逃げるぞ。鉄の門の西側を行け。崩れた場所がある。人一人なら通れるはずだ』
「分かった…」
トグルルはゴクリと唾を飲み込んだ。
二人は押し黙った。
だが、なかなか梟の声はしない。じりじりと時間が過ぎていく。
トグルルが先に口を開いた。
「…ファビアン、お前の献身に心から感謝する」
『礼には及ばぬ。助けてくれたのは、お前の方が先だ』
また会話が途切れ、沈黙が訪れる。まだ、梟の声はしない。
今度はファビアンが口を開いた。
『…トグルル、聞いてもいいか?』
ファビアンは一度、長い睫を伏せた。そして、ずっと聞きたかったことを口にした。
『ギイを…私の…従士を殺したのは、お前なのか?』
トグルルは苦しそうな顔をした。長い沈黙が、牢の中に張り詰める。
やがて、トグルルが絞り出すように言った。
「すまないが、…分からない」
『背の高い男だ、お前のように。髪は輝くブロンドで、青い瞳をしていた。右耳に太陽のような赤い痣があって…、笑うと顔がくしゃくしゃになる。そして…』
「すまない」
トグルルが話を遮った。「本当に、心からすまないと思う。だが、分からない。俺ではないとも、俺だとも言えない。俺が手にかけてきた者は、…異教徒であり、悪魔であり、…一人ひとり、名前のある者とは思っていなかった」
トグルルはそのまま、崩れるように床に座り込むと、顔を両手で覆った。
「一人ひとり、名がある…。当たり前のことなのに、どうして気付かなかったのだろう。恐ろしいことだ」
『…そう、だな。私も、そう思う』
ファビアンはトグルルの顔を覆う手に、そっと触れた。この手は、もしかしたらギイの命を奪ったのかもしれない。けれど。
『トグルル、お前の手はギイと似ている』
ファビアンはトグルルの手を握ると、自分の頬に寄せた。『こんな手、だった。大きくて、ゴツゴツとしていて、でも温かくて…』
「…すまない」
トグルルは悔しそうに唇を噛んだ。
ファビアンは目を閉じた。頬に伝わる熱は、ギイの手そのものに思えた。
『トグルル、罪人はお前だけでない。私もまた同じだ』
ファビアンが小さな声で呟く。『確かにお前の村を襲ったのは、私ではない。けれど、命じられたら私もそうしただろう。お前たちの名など知ろうともせずに、屠っただろう』
「…そうか」
トグルルは頷くと、ファビアンを抱き寄せた。
ファビアンは素直にその胸に顔を寄せた。布ごしに伝わる鼓動、隆起した二の腕の筋肉。それはやはり、遠い日のギイに似ていた。どうしてそれを憎むことなどできよう。
「ギイ…」
ファビアンの口から、ポロリと落ちるようにその名が漏れた。トグルルは何も言わなかった。言わずに、ファビアンの赤い巻き毛をあやすように撫でた。
胸元の匂いは、ギイとは違う。荒々しい、若さの匂い。けれど、違ってもまた、それは愛しく思えた。
ファビアンは顔を上げた。暗闇の中でも艶やかに光る、トグルルの真っ黒な目がそこにあった。ファビアンの緑の目と、絡み合うように見詰め合う。互いが、闇の中で互いの目を探していた。
『…トグルル、ここを出て、ララを助けたら、お前はどうするのだ?』
「どこかへ逃げる。十字軍の奴らの来ない、山の老人の手も届かない、殺し合いの無い、どこか遠くへ、ララを連れて逃げる」
『逃げて、どうするのだ?』
「ただ、生きる。食べて、寝て、笑って、そして、ただ、死にたい。誰ももう、殺さずに。憎まずに」
『…ララと、二人でか?』
「ああ、そうだ」
『…そうか』
ファビアンは長い睫を伏せた。なぜ、そのトグルルの言葉で切なく、悲しくなるのだろう。トグルルの未来図の中に、自分はいない。当たり前のことなのに。
「どうかしたのか?」
トグルルの手がファビアンの頬に触れた。
『何が?』
努めて平静に、ファビアンが答える。
「お前が泣いているように見えた」
『私が?まさか』
「ファビアン、お前は…ララに似ている。ララは時々、そんな顔をした。何か言いたげで、でも諦めたみたいな。今でも俺は分からないけれど、ララはそんな顔で、微笑みながら泣いていた」
そう言って、トグルルはファビアンの巻き毛の前髪をかき上げた。「お前も、泣いているのか?」
ファビアンは小さく笑った。
『泣いてなど、いるわけがない。そんな理由はない』
けれど、言ったはしから涙が一滴、零れた。
トグルルは、咄嗟にその涙を指で拭った。途端に、ファビアンの目からポロポロと涙が溢れて出た。
「どうしかしたのか?」
『何でも、何でもないんだ!』
顔を覆うファビアンを、トグルルは強く抱き締めた。
「ファビアン、お前も一緒に逃げよう」
トグルルが囁いた。ファビアンは目を瞠り、そして睫を伏せて首を振った。
『馬鹿を言うな。お前にはララがいる』
「そうだ。でも、ララもきっと、お前を気に入る」
『…駄目だ。もし、私がララなら、私を許しはしないよ』
こんな気持ちの私がお前の側にいることを、許すわけがないだろう。ファビアンはそう思ったが、口には出さなかった。
「だが…」
『私には…神がいるから大丈夫だ』
「それは、嘘だ」
トグルルはファビアンの顔を両手で挟んだ。「だからお前は目を伏せる」
『嘘でも、仕方あるまい』
ファビアンもトグルルの頬を両手で包んだ。精悍なくせに、トグルルは時折、少年のように純粋で幼い顔になる。
悲しくなると、そうなるのだな。ファビアンは微笑んだ。トグルルの右耳では月の形の耳飾りが、寂しそうに揺れていた。ファビアンは、そんなトグルルを愛しいと思った。
だからこそ、できない。トグルルと一緒に逃げるなど。ギイはどうなってしまうのか。騎士団を、この砦を、…いや、私を守るために命を捨てたギイは。
『…私の望みを、聞いてくれると、言ったな』
ファビアンは唇を噛み、押し出すように一言ずつ区切って言った。『最後に、私に接吻をくれないか。…ララにするように』
トグルルが目を丸くする。ファビアンは我に返り、慌てて打ち消した。
『すまない、忘れてくれ。どうかしてい…』
その言葉を、トグルルの唇が遮った。そっと重ねられたトグルルの唇はガサガサとしてひび割れ、けれど、柔らかかった。そして、茶の名残か、カミツレ草の甘い匂いが微かにした。
唇が離れた瞬間、まるで引力の作用のように再び、唇が重なった。
トグルルが貪るようにファビアンの唇に噛み付く。ファビアンも求めに応え、トグルルの唇に吸い付いた。舌が絡み合う。指が重なり、もつれ合う。ファビアンは着けたばかりのトグルルの服をもどかしげに剥ぎ取ると、その胸に顔を埋めた。
トグルルもまた、ファビアンの衣服を乱暴に脱がせた。
ファビアンは体の芯がぐらぐらと揺れ、熱く燃え上がるのを感じた。何も考えられなくなり、体が波たち、震える。
ファビアンは自分の中が真っ白に焼き切れるのを感じた。そして今、自分を抱き締めている腕が、早鐘のような鼓動を伝える胸が、トグルルのものか、それともギイのものなのか、それすらも分からなくなっていた。
嵐のような時が過ぎて、しばらく二人は呆然と冷たい石の床に座り込んでいた。
言葉が見付からなかった。
二人とも、自分たちの行為に戸惑っていた。
抗いがたい大きな力に引き回されたかのような、狂おしい時間。それが過ぎ去り、頭が冷静になると、どうしていいか分からなかった。そそくさと衣服を整え、互いの顔を見ずにそこにいた。
互いに何かを言おうとし、だが、そのまま押し黙った。
沈黙が流れる。いくらなんでも、もうじき梟が鳴くころだろう。別れは近い。ファビアンは長い睫を伏せると、ついに口を開いた。
『…トグルル、もう一つ望みがある』
「な、なんだ」
まだ気まずさが残っているのか、ファビアンを見ずにトグルルが問う。
『お前の耳飾りをくれないか?その、月の耳飾りだ』
トグルルは困った顔をした。ララと分け合った誓いの耳飾りなのだから。だが、トグルルが答える前に、ファビアンは手を振った。
『冗談だ。それは、お前にとって大事なものなのだろう?』
笑おうとしたのに、トグルルの困惑した顔を見ると、ファビアンはまた涙が出そうになった。不恰好な形の、トグルルの純粋さの象徴のような耳飾り。もう二度と会えないであろうトグルルを思い出すよすがとして、それが欲しかった。けれど、それは浅ましいことだ。
この男は、私のものではないのだから。
だが、答える代わりに、トグルルは自分の耳飾りを外した。そしてまだ温もりの残るそれを、ファビアンの掌に乗せた。
「ファビアン、俺がお前にあげられるのは、それくらいだ」
『トグルル…』
「俺は…俺の体も心も、すべてララのものだ。俺があげられるものは、それだけだ。許してくれ」
『何をあやまる…』
言いかけて、ファビアンは唇を噛んだ。柔らかく、温かだが、それはトグルルの拒絶。嵐は一瞬で過ぎたのだ。分かっていたことだ。
ファビアンは平然とした顔を装い、笑みさえも浮かべてトグルルに言った。
『トグルル、もう一つ願いがある。お前の手で、その耳飾りを私の耳に貫いてくれ』
「痛むぞ」
『お前が与える痛みなら、それは歓びだ』
トグルルは小さく頷いた。ファビアンの耳朶に触れると、耳飾りのフックの先をそっと押し当てた。
ファビアンは目を閉じた。そのまま、トグルルの指にグッと力が入り、鈍い痛みが耳朶を貫く。まるで押し出されるように、きつく閉じたファビアンの瞼から涙が一滴、零れ落ちた。それをトグルルの唇が拭い取った。
トグルルの唇は、再びファビアンのそれにそっと触れた。まるで、聖母像にするかのような口付けを。
もう、いい。
ファビアンは思った。
もう、いい。もう、これでどんな罰にも耐えられる。
ゆっくりと、ファビアンは目を開けた。目の前には悲しげなトグルルの顔がある。幼い少年のような。
『さあ、そろそろ行かねば…』
ファビアンは言いかけて、周囲を窺った。
おかしい。かなりの時間が経ったはずなのに、梟の声がまだしない。それどころか、夜鳴く虫の声も、獣の遠吠えも聞こえない。
『トグルル…』
「しっ!」
トグルルも耳を澄ませた。だが、何も聞こえない。というよりも、生きとし生けるものたちが、何かが起きるのをひっそりと息を殺して待っているような、そんな緊張感が空気に伝わってくる。
「…もしかしたら…」
トグルルが言いかけたその時、空気がひずむような圧迫感が押し寄せてきた。
『トグルル!』
ファビアンは慌ててトグルルを引き摺り、牢の外に飛び出た。
と同時に、地面が再び大きく揺れ始めた。




