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イシュタルの罠  作者: 秋主雅歌
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騎士の砦 第十四章

 その日から一日中、ファビアンはトグルルとともに地下牢にいた。

 無論、麻の葉や芥子などの薬は一切使わなかった。朝と晩にトグルルの全身の傷を洗い、膏薬を塗り、丁寧に油紙で患部を保護した。そしてカミツレ草と解毒のドクダミを入れて煎じた茶をたっぷりと飲ませ、体力が回復すると、パンやミルクを食べさせた。冷たい石の床で体力が奪われぬよう、毛皮にくるみ、眠らせた。

 トグルルは羊のように大人しくファビアンに従った。十分な睡眠と栄養さえとっていれば、頑強な青年の体の回復は早く、傷は見る見る塞がり、顔も腫れが引き、どす黒かったくまも消えた。

 薬の禁断症状が起きるのも、半日に一度だったのが、次第に一日に一度と間隔が長くなっていった。

 だが、一旦起きれば意識がなくなり、前後不覚に陥る。ファビアンはそのたびにトグルルを抱き締め、時には口に布を入れて舌を守り、嵐が過ぎ去るのを待った。

 その間も、たびたび地震は起きた。番をしていた従士たちは地震を恐れ、もはや牢に近寄らなかった。トグルルの見張りも、鍵の管理も、すべてファビアンに任された。

 そして、誰も見ていない中、ファビアンとトグルルは以前以上に語らい始めた。互いの神に触れずに話せば、言葉は、思いは、不思議なほど通じ合えた。

 

 そうやって三日が過ぎた。

 ファビアンはトグルルの足の指の包帯を取り替えながら、小さな溜め息をついた。ファビアンの作り話に従って、「鷹の爪」の拠点をアンサリーヤ山脈の奥に探りに行ったジャンたちは明日か明後日には戻ってくるだろう。彼らは、何の手がかりも無かったと報告するだろう。管区長代理のフィリップは激怒するに違いない。

 また大地が揺れた。だが、それは今までよりも小さい。最近は揺れは小さく、少なくなっている。

『そろそろ、この地震も収束したのかもしれぬな』

 ファビアンは呟いた。そうとなれば、今度こそフィリップが地下牢に乗り込んでくるかもしれない。トグルルにすべてを吐かせるために。フィリップならば、情け容赦のない拷問に躊躇いはないだろう。どうしたら、トグルルを守れるのだろうか。

「収束?そうとは限らないぞ。再び揺れる日が来るかもしれない」

 トグルルが答えた。「俺は預言者でも何でもないから、確かにこのまま収まるかもしれない。だが、再び同じくらいの、いやもっと大きな揺れが来るかもしれない」

『大きな揺れが?』

「そうだ」

『また、あの揺れが来たら、今度こそこの牢は崩れるだろう』

「そうだ。お前も、ここに居たら巻き添えを食うぞ」

『巻き添えか。まあ、仕方がない。お前を癒やすことが私の仕事だ』

 ファビアンは穏やかに笑って言った。『そんなことよりも、もっと茶を飲め。鎮痛作用もあるから、深く眠れるはずだ』

「とんでもなく苦いがな」

 トグルルも笑い、ファビアンが勧めた茶をまずそうにすすった。「前の茶は、微かに甘かったが」

『この茶の方が効くのだ。わがままを言うな』

 しばらく茶と格闘したトグルルだが、すべてを飲み干すと、おもむろに口を開いた。

「あの、ぬらりとした顔の司祭はどうなった?」

『モンテスパン殿か?ああ、昨日やっと見付かった。ご遺体は礼拝堂に安置している。西の塔は跡形もないほど崩落していて、そこから鉄の門まで瓦礫の山がまだ片付いておらぬ』

 ファビアンは、ハッとした。鉄の門の一部が今は崩れている。見張りも、そこまでは見ていない…。フィリップが来る前に、トグルルをどこかに逃がしてはどうだろう。

 そこまで考えて、ファビアンは頭を振った。それは神への、そして同胞へのおぞましい裏切りではないのか。

「ファビアン」

『あ、ああ、なんだ?』

「俺たちは一緒に死ぬのかもしれないな」

『そうかもしれぬな』

「死ぬ前に一つだけ望みが叶うなら、お前は何を望む?」

『望み?』

 ファビアンはきょとんとした。『…さあ、望みなど、考えたことはなかった』

「俺は…、『鷹の巣』に閉じ込められたララを救いたい」

『お前は、よほど、ララという人が大事なのだな』

 トグルルは神妙な顔で頷いた。

「ララは、俺のすべてだ。太陽だ」

『そうか。…うらやましいな、そのような人がいるとはな』

「お前は修道士だから仕方ないのだろう?」

 悪戯っぽい表情を浮かべ、トグルルが言った。

『ああ、そうだな』

 ファビアンは自分の言葉に苦笑した。私は、何を考えているのだろう。ファビアンは頭を振り、再びトグルルの足の指の治療に専念した。すべての指に包帯を巻き終えると、ポン、とその甲を叩いた。

『治りが早いな。多少痛むだろうが、もう一人で歩けるはずだ。立ってみるか?』

 ファビアンはトグルルに肩を貸し、立ち上がらせた。

 トグルルの手がきつく、ファビアンの肩を掴む。

 ギイに似ている腕。ゴツゴツとした指、大きな手の平、逞しい二の腕。ファビアンの眉が、少し苦しげに寄せられた。

 そんなファビアンの表情に気付かず、トグルルは一人でおそるおそる二、三歩、歩いた。

「確かに、もう大丈夫だ。お前は、神の手を持った医者だな」

 トグルルはおもむろにファビアンに頭を下げた。「感謝する。異教徒であっても、お前だけは信頼に値する」

『トグルル…』

 トグルルは突然、ファビアンを抱き締めた。

「ファビアン、お前とは、互いの神がいない地で出会いたかった」

 ファビアンの胸がざわついた。ギイと似た、厚い胸。

『…そうしたら、どうなっていた?』

「友になれただろう」

 トグルルは体を離すと、無邪気な笑顔を見せた。だが、ファビアンは眩しげに目を逸らした。確かにそうだ。私もそう思う。だが、何かが違う。「友」。私はトグルルの友になりたいのだろうか。

『…トグルル、もう休め。眠れば眠るほど、回復は早い』

 ファビアンはトグルルに再び肩を貸し、毛皮の上に横たわらせた。その傍らに自分は座り込む。

 眠れ、と言っておきながら、ファビアンは再び口を開いた。

『…トグルル、お前は後悔したことはあるか?』

「何だ、突然。無い人間がいると思うか?」

『…いくら神に祈り、懺悔しても、痛みが消えぬ』

「当たり前だ。神は肩代わりなどしてはくれない。罪も後悔も、一生、自分で背負っていくしかない」

『…そうだな』

 ファビアンは遠くを見た。無性にギイに会いたかった。

 もっと早くにギイを救いに行っていれば。もっと早くにギイの思いに応えていれば。神の許しなどを請わずに。そうしたら、ギイは一人で死ななくても良かったのかもしれない…。

『トグルル、ララはどこにいるのだ?』 

 トグルルが顔を歪めて笑った。

「それを俺が言うと思うか?」

『私は聞かねばならぬ。だが言いたくないのなら、この質問に是か否かで答えてくれ。お前たちが潜んでいるのは、本当は巷で言われているような、アンサリーヤの山奥ではないのではないか?』

「…その通りだ。なぜそう思った?」

『あの薬…冥府の女王は、アンサリーヤでは育たぬ』

「さすが博識な修道騎士殿は違う。だが、なぜそんなことを聞く?」

『お前を逃がすからだ』

 ファビアンの言葉に、トグルルは目を瞠った。

「正気か?」

『そうだ』

「なぜ俺を逃がす?」

『お前が私の命を救ったから…かもしれない。私にもよく分からない。ただ、お前の望みをかなえたい。その代わり、私の望みをきいてくれ』

「それは何だ?」

『私も分からぬ。後で考える』

 トグルルは言葉を失い、頭を振った。

「そんなことは無理だ。できたとしても、お前は無事では…」

『一両日中に、決行する。それまでに体力を蓄えておけ』

 そう言うと、ファビアンは横たわるトグルルの肩に、自分のマントを掛けた。



 

 


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