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イシュタルの罠  作者: 秋主雅歌
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古代の獣 第三章

 翌日、ジョシュアが甕いっぱいの水を抱えて村外れの井戸から戻ると、家の前には見慣れぬ立派な馬が二頭、繋がれていた。

「ラサル、この馬…」

 家に入りかけたジョシュアを、ほの暗い屋内から二つの目玉が睨んだ。ゾッとするほど鋭い、見知らぬ目。ジョシュアは危うく、甕を落としそうになった。

「誰だ?この者は」

 冷たい、低い声。

 目が暗さに慣れてくるに従い、ジョシュアはその目玉の主が白い髭を蓄えた老人であることを知った。頭髪はなく、体格も中肉中背だが、人を圧する何かがある。それはギョロリと大きな目のせいかもしれない。目玉は異様に小さく、白目ばかりがギラリと光る。

 さらにもう一人、暗闇の中に大柄な男がいた。どうやら老人の用心棒らしい。じっと目を閉じているが、隆々とした筋肉からピリピリとした殺気を漂わせている。

 ラサルは奥の椅子に座り、腕を組んで俯いていた。その傍らには「父」シュルギが立ち、眉間に皺を寄せて老人とラサルを見やっている。

 若いジョシュアにも分かった。何かただならぬ事態が起きているのだと。

「…どうしたの?ラサル」

「何と無礼な!」

 老人はジョシュアを蔑んだ目で一瞥した。「何だ、この奴隷は!」

 慌ててシュルギがジョシュアに駆け寄り、跪くように促した。

「テペ神官殿、この子はシャルマラサル様の身辺の世話をしておる奴隷にございます。事情を知らぬので、不作法はどうぞお許しくださいませ。ジョシュア、お前はしばらく外にいなさい」

「でも…」

「ジョシュア」

 ラサルが穏やかな声で言った。「カミツレ草を摘んできておくれ。もうそろそろ花の季節も終わりだ。薬にするのだから、全部摘むのだよ」

「…はい」

 ジョシュアは仕方なくカミツレ草を入れる器を持って家を出た。が、もちろんカミツレ草を摘みには行かず、そっと土壁に体を寄せて彼らの会話を盗み聞くことにした。

「それでは、古代の竜が現れ、炎の舌でウルクの都を焼き滅ぼしたと言うのか?」

 ラサルの声だ。

「左様」

 テペとか言う老人が重々しく答える。「マルドゥク神の守護獣にして古代の竜ムシュフッシュが現れたのでございます。ウルクの生き残りによりますと、それはそれは大きく恐ろしげな悪魔のような姿で、空を飛び回っていたそうにございます。おぞましいことですが、バビロンの都もまた、古代の獣の餌食になるやもしれません」

(竜?)

 ジョシュアは耳を疑った。(そんなものがこの世に本当にいる?)

 ラサルもおそらく同感だったのだろう。

「テペ、私は俄かには信じられぬ。なぜ、伝説の中の古代の獣が再び地上に蘇ったのだ?」

「おそらく、兄君ナボニドス様の行いに神々がお怒りになられたためかと」

「兄上の?」

「左様。ナボニドス様はバビロンの守り神たるマルドゥク神をお厭いになられ、公然とシン神を信仰しておられる。そうした所業に、マルドゥク神の守護獣ムシュフッシュが怒ったのでございましょうぞ」

 だが、神官の答えにラサルは苦笑した。

「テペ、怒ったのはマルドゥク神殿の主であるそなたであろう?」

「王子、お戯れを!私の怒りは、王国のためを思ってのことですぞ!」

(王子?)

 ジョシュアは耳をさらにそばだてた。

(それは、ラサルのこと?)

 テペは続ける。

「ムシュフッシュの出現は、マルドゥク神のお告げに他なりませぬ。王国を継がれるのはナボニドス様ではなく、シャルマラサル王子、あなた様であると。父王様はもう、明日をも知れぬお命。シャルマラサル王子、至急、バビロンの王宮にお戻りを!今なら民は皆、あなた様に従いましょう。ナボニドスを追放し、王冠をシャルマラサル王子の頭上に、と」

 ラサルは乾いた声で笑った。

「冗談はよせ。王国は兄上のものだ。私はそのようなものは欲しいとは思わぬ」

「王子!いつからそのような弱腰におなりです。七年前のあの日、あなた様を匿い申し上げたのは、この復活の日のため。あなた様を逃すために何人の家臣が犠牲になったと思っておられる!」

 ラサルの重い溜め息が聞こえた。

「…分かっておる。私が今、こうして生き永らえていられるのも、テペ、お前たちのおかげだ」

「分かっておられるなら、すぐにでも都へ参りましょうぞ!」

 ラサルは答えない。張り詰めた沈黙。

 ジョシュアの手が震えた。

(ラサルが、都へ行ってしまう?)

(つまりラサルは本当は王子様で、都へ帰ってしまうってこと?)

 動揺したジョシュアの手元から、土の器が転げ落ちた。

 物音に気付き、テペの用心棒が素早く立ち上がる。殺気を感じて、慌ててジョシュアはカミツレ草の庭まで逃げるように駆け出した。

「何者だ?」

 テペが鋭く問う。だがラサルは小さく手を振った。

「ジョシュアだ。気にせずとも良い」

「あの奴隷、盗み聞きとは感心しませんな」

「私のことが心配だったのだろう」

 ラサルは苛立ちを滲ませながら言った。仕方なくテペは黙る。

 暫くして、ラサルが小さな声で答えた。

「…テペ、お前の言いたいことは分かる。だが、だからこそ、私を巡って人が死ぬのはもう嫌なのだ。兄上も傷付けたくない。私は王位などいらぬ。このままで良いのだ。この谷間の家で薬草を摘み、古代の歌を口ずさみ、一生を終えるつもりなのだ。そう、吟遊詩人になってもいい。すまぬがテペ、もう私に構わないでくれ」

「何と情けないことを!これが武勇の誉れ高きシャルマラサル王子か!」

「そうだ、これが今の私の姿だ!」

 ラサルも声を荒げる。「私は、私の望みは、誰も傷付けず、ひっそりと生きていくことだ。何もいらぬ。そばに愛しい者がいれば、それでいい」

「あの、巻き毛の奴隷ですか?」

 テペの忌々しげな口調に、ラサルの眉がビクリと震えた。テペは冷酷な声で続ける。「美しい子ではございますからな。ですが、由々しきことにございます。王子を腑抜けにした罪人とあらば、あの奴隷に罰を与えねばなりますまい」

「テペ、どういうことだ?」

「成敗する、と申し上げたのでございます。あの奴隷の背後にナボニドス様がいるやもしれませぬ」

「テペ、根も葉もないことを申すな!無礼であろう!」

 ラサルが顔を真っ赤にして立ち上がった。

「ラサル様、落ち着かれませ」

 シュルギが慌ててラサルの肩に手をかけた。そしてテペに向き合う。「テペ神官殿、ジョシュアは、…あの奴隷は、そのような者ではありませぬ。良い子です。そう、まだ幼い子供です。一生懸命ラサル様…シャルマラサル様に仕えております。二心などありはしませぬ」

「甘いぞ、シュルギ」

 テペは冷たい声で言う。「シャルマラサル王子、あなた様がどうしてもバビロンにお戻りならないと言うのなら、私はマルドゥク神の名にかけて、あの奴隷を災いの因として消さねばなりませぬ」

「何を言う!」

 ラサルはシュルギをはね除けると、傍らの剣を手にテペの胸元を掴んだ。「そのようなことは許さぬ!」

 だが、テペは微塵も動じず、ラサルを睨み付ける。

「どうぞ、私を殺めなさいませ。ですが王子もお分かりのはず。たとえ私を殺しても、神殿の力は強大。次なる者が必ずあの奴隷を消し、あなた様を王宮にお迎えしましょうぞ」

 テペの衣を掴むラサルの手が震えた。

「どうあっても、か?」

「どうあっても」

 ラサルは大きな溜め息を一つつくと、テペの衣を離した。

「…分かった」

「王子」

「分かった。私はバビロンに戻る。その代わり、決してジョシュアには手を出すな。良いな」

「ラサル様、ジョシュアを連れていかないのですか?」

 シュルギが驚くが、ラサルはゆっくりと頷いた。

「王宮は恐ろしいところだ。いつ命を奪われるやもしれぬ。母上や乳母上のように…。私のために、ジョシュアを危険な目には遭わせたくはない」

「ですが、ラサル様、あの子は納得しないでしょう」

「ああ、恨まれるだろうな」

 悲しげにラサルは笑った。

 テペは満足そうに笑い、パンと手を打った。 

「御意、確かに承りましてございます。出発は早い方がいい。明日の朝、ご一緒にバビロンへ出発しましょう。シュルギ殿、今宵一晩、私と護衛の奴隷の寝床を頼みますよ」

 テペはラサルに向き合うと、わざとらしいほど恭しく膝をついて改めて一礼をした。「シャルマラサル王子、王になられるのは、神があなた様に与えられた宿命。逃げられるとはゆめゆめ思いませぬよう」

 テペの白目がちな目がギラリと光るのを、ラサルは敗北感とともに見ていた。


 「ジョシュア、まだ摘み終えていなかったのか?」

 カミツレ草の匂いが満ちた庭で座り込んでいる背中に、ラサルが声をかけた。すでに太陽は地平に没し、周囲を青い闇が包み始めている。

 ジョシュアは答えず、膝を抱えて顔を突っ伏した。

「聞いていたのだな?」

 ジョシュアは首を振った。

「最初だけだよ」

「でも聞いていたのだな。お前はいつも私の言うことを聞かないね」

 だがラサルの口調は優しかった。ジョシュアの頭をポンと叩き、傍らに腰を下ろした。

「…ラサルは行ってしまうの?」

「そうせねばならぬようだ」

 ラサルは苦々しげに笑った。「お前は今まで通り、この家で暮らしておれば良い。私の指輪を残しておく。あれがあれば、暮らしには困るまい」

「ラサル、僕も一緒に行きたい」

 ジョシュアが顔を上げた。泣いていたのは隠しようもなく、目が真っ赤に腫れあがっている。

「やめた方が良い。王宮は楽しいところではないぞ」

「楽しくなくたっていい!僕はラサルと一緒にいたい!」

 ジョシュアはラサルに抱きついた。

 けなげな子だ。ラサルはその頭を抱き寄せようとし、だが、やめた。

「よしんば都へ連れていったとしても、王宮では一緒にはいられないのだよ」

「どうして?」

 ラサルは、一つ唾を飲み込んだ。

「…イシュタル門をくぐり、バビロンの都に入れば、私は王位を継ぐ者で、お前は奴隷だ」

「…奴隷?」

「そうだ。お前のその瞳、その髪は、遠い国から連れて来られた奴隷たちのもの。奴隷の身で王に向かって今までのような口を叩いたら、お前はその首を刎ねられるぞ」

 わざとおどけてラサルは言い、ジョシュアの細い首に触れた。だがジョシュアは笑いもしない。

「それなら…王様。御身の回りのお世話をする奴隷を一人、お側に置いてください!」

 ラサルはその美しい眉を寄せ、首を振った。

「ならぬ」

「どうして?」

 泣きそうな顔でジョシュアはラサルにすがり、頭を地面に擦り付けた。「護衛でもいいんです。僕、剣は強いんだから」

「それは、痛いほど知っている」

 ラサルは苦笑した。だが、すぐにその目は憂いに沈む。「お前以上に強い兵は山ほどいるのだよ」

 ラサルは言えなかった。王宮に連れていったなら、テペは迷わずお前を消すだろう、とは。テペはバビロンと自分の地位を守るためならば、どんな非情なことでもする。そして、お前を守り切る自信はない、と。

「どうしても、駄目ですか?」

 そんなことは露知らず、ジョシュアが真っ直ぐな瞳で見上げる。

「そうだ」

「ラサルの意地悪!」

 幼子のような悪口を吐き、ジョシュアはカミツレ草の花に突っ伏した。踏み付けられた花々は涼やかな甘い香りを闇に撒き散らす。

 芳香に飾られたジョシュアの巻き毛を、ラサルはそっと撫でた。

「ジョシュア、頼むから、聞き分けてくれ」

「ラサルはバビロンに行って、王様になって、僕のことなんか忘れちゃうんだ」

 泣きじゃくるジョシュアはラサルの手を払う。

「ジョシュア、忘れないよ」

「嘘だ」

「嘘なぞはつかない。分かっておくれ。私の望みはお前が生きていること。ただそれだけだ。たとえ会えなくても、お前が生きてさえいてくれたら、私はどんな責め苦にも耐えられる」

「僕は生きていけない!ラサルがいなかったら、生きていけない!」

 ジョシュアはラサルに向き直り、ボロボロと大粒の涙を零しながら言った。

「分かっている。分かっているから、どうか聞き分けておくれ、ジョシュア」

 ラサルは穏やかに微笑むと、頭に巻いていた麻布を解き、宝冠のように結い上げた髪をほどいた。闇を織り込んだような黒い髪が流れ落ちる。

 ラサルは懐から小さな宝剣を取り出すと、自らの髪にあてバッサリと切り落とした。

「ラサル!」

 ジョシュアが慌ててその手を止めた。だが、ラサルの髪は既に散切りのように肩まで切られていた。

「そんなことしたら、駄目じゃないか!ラサルの長い髪は大事なもので、必要だって、シュルギが言ってたじゃないか!」

「シュルギが言うには」

 ラサルは穏やかに言った。「王族の髪には、霊的な力があるらしい。この髪を通して神の言葉を聞き、神と思いを通じ合うらしい」

「だったら、なおさら王様になるには必要じゃないか!」

「ジョシュア、シュルギの言葉が本当で、私のこの髪なぞに力があるのなら、これが少しはお前を守ってくれるだろう」

 そう言うと、ラサルは切り落とした長い髪をジョシュアに手渡した。「神々の祝福とともに、お前に捧げよう。これは私の心だ。未来永劫、私の心はお前だけのものだ。どんなに離れても、お前だけを守っている」

 ラサルはそう言うと、ジョシュアを抱き締めた。ジョシュアはその胸の中で、顔をくしゃくしゃにして泣いた。

 分かっている。もうこの人は行ってしまう。もう止めるすべはない。

「…僕も、ラサルだけのものだから」

「分かっているよ」

 ラサルの腕に力が籠もる。

 ジョシュアが見上げると、ラサルの白い顔は青白い月に照らされ、青く、悲しげに見えた。

 ジョシュアはもう何も言えなかった。ただラサルの整った唇にそっと口付けた。祈りのように。

 ラサルもまた、ジョシュアの唇に口付け返した。

 宵の明星が、月の傍らに出ていた。愛と戦いの神イシュタルの化身と言われる星が。



 




 

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