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第2章 — 書けない小説家

カーソルが点滅していた。

一回。

二回。

三回。

月森頼人は、今にも画面が宇宙の真理を教えてくれるのではないかというほど真剣な目で、それを見つめていた。

しかし、何も起こらなかった。

「頼む……」

カーソルは点滅し続ける。

「頼むから、アイデアを一つ。一つでいいんだ……」

何も浮かばない。

頼人は机に両肘をつき、前のめりになった。

昨夜は、ほぼ八時間も眠った。

八時間。

彼にとって、それほど長い睡眠はもはや休暇に等しかった。

すっきりとした気分で目覚め、落ち着いて朝食を済ませ、窓を開けて新鮮な空気まで部屋に取り込んだ。

今日はきっと、充実した一日になる。

そう思える条件は、すべて整っていた。

ただし、小さな問題が一つだけあった。

書くものが、何一つ思いつかないのだ。

「よし、頼人。考えろ」

椅子に座り直す。

「僕はプロの小説家だ。もう何冊か作品だって出してる。こんなこと、難しいはずがない」

Wordの画面を見る。

ウィンドウの上部には、仮のファイル名が表示されていた。

『文書1』

その下には、真っ白なページ。

「魅力的な主人公……」

待つ。

「独創的な世界観……」

もう少し待つ。

「胸が熱くなるような対立……」

カーソルが点滅した。

頼人は両手で頭を抱えた。

「なんで急に、今まで一度も小説を書いたことがない気分になってるんだよぉぉぉ!」

叫び声が小さなアパートに響き渡る。

返事はない。

一人暮らしなのだから、当然と言えば当然だった。

頼人は机に額を落とした。

星野さんが求めているのは、商業的に成功する可能性のある作品。

経営陣を納得させられるような物語。

今までとはまったく違う、新しい物語だ。

顔を横に向け、画面を眺める。

もちろん。簡単な話だ。

いっそ新しいエネルギー源でも発見してこいって言われたほうが、まだ気が楽なんじゃないか?

頼人は再び体を起こした。

とにかく、どこかから始めなければならない。

たとえば、アクションもの。

漫画も冒険小説も十分に読んできた。

そういう物語に必要な要素なら、ある程度わかっているつもりだった。

明確な目標を持った主人公。

読者の好奇心を刺激する世界。

ライバル。

対立。

胸が高鳴る展開。

時間とともに成長していく登場人物たち。

頭の中では、どれも素晴らしく思えた。

問題は、それらを具体的な物語にしようとしたときに起こる。

頼人はキーボードを叩いた。

『ある日、一人の少年が特別な力に目覚める。』

読み返す。

眉をひそめた。

「うん……悪くない」

数秒考える。

「でも、ちょっとありきたりかな」

続けて二行目を入力する。

『そして、その力を使って世界を救わなければならなくなる。』

じっと見つめる。

「…………」

二行とも削除した。

「人類史上、最もありきたりな物語を発明した気がする……」

椅子の背にもたれかかる。

インスピレーションが必要だ。

本棚に目を向けた。

次にスマートフォン。

そして、机の上に置きっぱなしになっている空のマグカップ。

コーヒーでも飲めば、少しは頭が働くだろうか。

立ち上がる。

台所へ向かう。

戸棚を開ける。

コーヒーが切れていた。

「…………」

ゆっくり戸棚を閉める。

素晴らしい。

水を一杯持って机へ戻った。

「まあ、水だって頭を働かせるのに役立つはずだ」

一口飲む。

待つ。

「…………」

コップを見つめた。

「……全然だめだ」

一時間近く執筆に挑戦した末、頼人は作戦を変更することにした。

新しい物語が思いつかないのなら、昔の作品を見直せば何かヒントが見つかるかもしれない。

執筆用のフォルダを開く。

画面には、大量の文書とサブフォルダが表示された。

丁寧にタイトルをつけたものもある。

一方で、『新しいアイデア』『新しいアイデア2』『今度こそ絶対いける』などという名前も並んでいた。

中には『最終決定版FINAL3』という文書まである。

頼人は恨めしそうにそれを見つめた。

「最終決定版、ね……」

ダブルクリックする。

中身は、たった二ページほどだった。

閉じた。

その話はしたくない。

さらに探してみる。

完成させられなかったミステリー小説の構想。

登場人物を増やしすぎたファンタジー冒険もの。

架空の技術の仕組みを説明するだけで、冒頭の四ページを使い切っているSF小説の下書き。

頼人は最後の作品を少し読んでみた。

「なんで主人公を出す前に、こんなに説明してるんだ……?」

数ページ先へ進む。

「あ」

主人公は、まだ登場していなかった。

文書を閉じる。

「……放置した理由を思い出した」

フォルダごと閉じようとしたとき、一つのタイトルが目に留まった。

『The Last Soldier of Japan』

頼人は動きを止めた。

「ああ……」

あの物語のことを考えるのは、ずいぶん久しぶりだった。

書き始めたとき、ものすごく興奮していたことは覚えている。

そして、たった一話を公開したところで更新を止めてしまったことも。

ファイルを開いた。

短い文書が画面に表示される。

頼人は冒頭を読んだ。

そのまま読み進めていく。

すると、少しずつ口元に笑みが浮かんだ。

「へえ……」

面白いアイデアもあった。

今読んでも気に入る描写もあった。

自分で書いたことすら忘れていた細かな設定もある。

「そんなに悪くなかったんだな……」

さらに読み進めた。

ある箇所に差しかかる。

画面をじっと見つめた。

「…………」

もう一度読む。

「ああ」

そこでようやく、最初に提示した展開の続きをどうするのか、何も決めていなかったことに気づいた。

「そりゃ一話しか書けないわけだ……」

額に手を当てる。

これを書き始めたとき、僕は一体何を考えていたんだ?

しかし、ところどころ恥ずかしくなりながらも、すぐには文書を閉じなかった。

あの頃のわくわくした気持ちを思い出していた。

登場人物や出来事が、次々と浮かんできたこと。

どんなアイデアでも、素晴らしい物語に変えられそうな気がしていたこと。

いつから、こんなに難しくなってしまったのだろう。

もしかすると、昔から難しかったのかもしれない。

ただ、楽しかった部分ばかり覚えているだけなのかもしれなかった。

結局、何も修正せずにファイルを閉じた。

今の自分に必要な物語ではない。

それでも、削除する気にはなれなかった。

メインフォルダへ戻る。

ほかの企画の間に、『Doppelganger』という名前が見えた。

頼人は開かなかった。

まだ、早すぎる。

再び真っ白な文書へ戻る。

キーボードに両手を置いた。

「よし。もう一回だ」

仮のタイトルを入力する。

数秒間、眺める。

削除する。

「…………」

誰か、助けてくれ。

夕方になった頃、頼人は実に素晴らしい成果を達成していた。

文書は、まだ真っ白だった。

その代わり、お腹がすいていた。

「実に充実した一日だったな……」

椅子の上で伸びをして、時計を確認する。

新しい物語を考えたり、昔の企画を読み返したりしながら、一日の大半をパソコンの前で過ごしていた。

何も考えていなかったわけではない。

場面は思い浮かんだ。

人物も。

出来事も。

ノートには、いくつかの可能性を書き留めていた。

しかし、どれか一つを発展させようとするたび、解決できそうにない問題に突き当たってしまう。

どの案も、星野に見せられるほど良いものには思えなかった。

何より、『Doppelganger』を書き始めた頃のような高揚感がなかった。

そのとき、画面に通知が表示された。

『着信:高原大地』

頼人は目を瞬かせた。

「大地?」

ビデオ通話に応答する。

モニターの小さなウィンドウに、少し乱れた濃い茶髪の青年が映った。

ヘッドホンをつけ、二台のモニターが並ぶ机の前に座っている。

「よっ」

大地が片手を上げた。

「おう」

「ひどい顔してんな」

頼人は眉をひそめた。

「僕の顔がどうしたって?」

「いや、プリンターとの口喧嘩に負けた男みたいな顔だと思って」

「ありがとう。僕も会えてうれしいよ」

大地が笑う。

高原大地、二十六歳。

ウェブデザイナーとして働く、頼人の高校時代からの友人だった。

長い付き合いなので、二人の会話に改まった挨拶など必要なかった。

「何してたんだ?」と大地が尋ねる。

「仕事」

「へえ」

「なんだよ、その言い方」

「いや、まともな時間に起きてることに驚いてさ」

「朝から起きてたよ!」

「そりゃお祝いしないとな」

頼人はため息をついた。

「僕をからかうために電話してきたのか?」

「主にそれ」

「最悪だな」

「あと、小説のほうがどうなったか気になって」

頼人の笑みが消えた。

大地もその変化に気づいた。

「何かあったのか?」

頼人は机に置かれた青いファイルへ、一瞬だけ目を向けた。

「『Doppelganger』、打ち切りになった」

画面の向こうで、大地の動きが止まった。

「……マジで?」

「うん」

「第2シーズンは?」

「出ないってさ」

大地は数秒間、黙っていた。

「そっか……」

頼人は肩をすくめる。

「第1シーズンが思ったほど売れなかったんだ。経営陣が続きの出版をやめることにしたらしい」

「でも、お前三シーズン分考えてたんだろ?」

「うん」

「そりゃきついな」

「温かい励ましをありがとう」

「友達ってそういうもんだろ」

「少しは元気づけてくれてもいいと思うんだけど」

大地はヘッドホンの位置を直した。

「まあ、まだ若いし、健康だし、それに……」

頼人は待った。

「それに?」

「……パソコンも持ってる」

「僕に残ってるもの、それだけなの!?」

大地は画面の中の友人を眺めた。

「椅子もあるだろ、たぶん」

「僕の家の備品を数えるのやめろ!」

大地が大笑いした。

頼人は真顔を保とうとしたが、結局つられて少し笑ってしまった。

「本当にうっとうしいな、お前」

「なのに毎回電話に出るんだよな」

「そろそろ考え直すべきかも」

大地は椅子にもたれた。

「……で、冗談抜きで。大丈夫か?」

単純な質問だった。

大げさな言葉もない。

からかうような笑みもなかった。

頼人は少し視線を落とす。

「わからない」

大地は黙って待った。

「かなり頑張ったんだよ」と頼人は続ける。「新しい原稿も準備したし、まだ改善できると思ってた」

「うん」

「でも、打ち合わせに行ったときには、もう決定してた」

短い沈黙が流れる。

「残念だったな、頼人」

大地が言った。

頼人は顔を上げた。

「……ありがと」

「それで、これからどうするんだ?」

「星野さんが、もう一度だけチャンスをもらえるようにしてくれた」

「それはいいことじゃないか」

「新しい小説の企画を出さないといけないんだ」

「じゃあ、まだ書き続けられるんだろ?」

「うん。でも問題があってさ」

「何?」

頼人はWordの画面を見た。

「アイデアがない」

大地が眉を上げた。

「一つも?」

「いや……気に入るものが一つもない」

「それで今日は何してたんだ?」

「ずっと書こうとしてた」

「お、いいじゃん。じゃあ何かできてるんだな」

頼人は背筋が凍るような気がした。

まずい。

大地がカメラに顔を近づける。

「見せてよ」

「……何を?」

「書いてるやつ」

「別に見せるほどのものじゃ……」

「なんで?」

「まだアイデアを整理してるところだから」

「じゃあ、そのアイデアを見せろよ」

「大地……」

「画面共有して」

頼人はカメラを見つめた。

大地も見返してくる。

「……本当に見るの?」

「もちろん」

頼人はため息をついた。

「あとで文句言うなよ」

デスクトップの画面共有を開始する。

大地の画面に、Wordのウィンドウが映し出された。

真っ白なページ。

本当に、何も書かれていないページ。

上のほうでは、カーソルだけがのんびり点滅していた。

大地は黙った。

一秒。

二秒。

三秒。

「…………」

「…………」

「頼人」

「何?」

「まだ読み込み中?」

「いや」

「ああ」

もう一度、沈黙。

「……で、小説はどこ?」

「頭の中で考えてるんだよ!」

大地が笑い始めた。

「あははは! タイトルすら書いてないじゃん!」

「どんな話にするか決まってないんだから、タイトルなんてつけられないだろ!」

「まあ、いいところもあるぞ」

頼人は目を細めた。

「……何?」

「今のところ、誤字脱字ゼロだ」

「いい加減にしろぉぉぉ!」

大地は笑いすぎて、一度カメラの外へ顔をそらさなければならなかった。

頼人は腕を組む。

だから画面を見せたくなかったんだ。

「悪い悪い」と大地は息を整えながら言った。「でもさ、真面目な話、今までと違うものを書いてみたら?」

「アクションものを考えてるんだ」

「バトルとかあるやつ?」

「そう。もっと多くの読者に興味を持ってもらえそうなもの」

「で、どんな話にしたいんだ?」

頼人は口を開いた。

止まった。

「…………」

大地が笑う。

「まさか、それも決まってないのか?」

「いろいろ考えてるよ!」

「一つ言ってみろよ」

「…………」

「一つでいいから」

「今考えてるところなんだってば!」

大地は再び笑った。

それから机に肘をつく。

「頼人、お前まだ一日しか考えてないだろ」

「わかってる」

「明日には傑作が完成してる、なんてことにはならないって」

「星野さんもそこまでは求めてないよ」

「じゃあ、そんなに追い詰められるなよ」

頼人は黙った。

「まずはダメなアイデアをいくつか書いてさ」と大地は続けた。「次に、それよりちょっとマシなやつを書けばいい。そのうち気に入るものが出てくるだろ」

「ずいぶん専門的な方法だね」

「俺はウェブデザイナーだからな。仕事の半分は、ひどいデザインを試して、やっとマシなのを見つけることだぞ」

頼人は笑った。

「だから大地の作ったサイトには、たまに変なのがあるんだ」

大地が目を見開く。

「……は?」

「何でもない」

「いや、待て! 今なんて言った!?」

「思ったより失礼な言い方になっただけだよ!」

二人は声を上げて笑った。

頼人は、胸の奥にあった重苦しさが少し軽くなるのを感じた。

大地の言うとおりかもしれない。

一晩で一冊の小説を書くことなんてできない。

それなら、最初くらい不完全なものを書いてもいいはずだ。

そう伝えようとしたとき、通知音が鳴った。

ピロン♪

画面の右下に、小さな通知ウィンドウが現れた。

LINE ― 森崎紗由奈

『月森くん、こんばんは。昨日のことがあったけど、大丈夫?』

頼人は通知を見た。

「あ……」

すると、ヘッドホンから声が聞こえた。

「おお~?」

頼人はゆっくりと顔を上げた。

大地が笑っていた。

ものすごく楽しそうに。

「……何?」

「森崎紗由奈?」

「うん」

「誰?」

「出版社の同僚」

「同僚?」

「そうだけど」

「へえ。それで、なんでメッセージが来るんだ?」

頼人は眉をひそめた。

「なんでって……一緒に働いてるからだろ」

「ふーん、なるほどねえ」

「なんだよ、その言い方」

「別に、何でもないけど?」

大地は真面目な顔を作ろうとした。

失敗した。

「なんでそんなにニヤニヤしてるんだよ」

「してないって」

「カメラで丸見えなんだけど!」

大地は自分の映像を確認した。

「あ、そっか」

こいつ……。

頼人は通知にカーソルを合わせた。

そこで思い出す。

まだ画面全体を共有していた。

「ちょっと待って、共有切るから」

「えー、なんで!」

「僕へのメッセージだからだよ!」

「でも今は、小説よりこっちのほうが面白そうなんだけど」

「大地!」

共有を解除する前に、二つ目の通知が表示された。

LINE ― 森崎紗由奈

『それでね、明日よかったら一緒にカフェに行かない? 次の小説のこととか、アイデアを考えながら話せたらいいなって思って』

頼人は目を瞬かせた。

「……カフェ?」

ヘッドホンから大声が響いた。

「カフェ!?」

頼人は椅子の上で飛び上がった。

「大地!」

「あははは! お前、誘われてるじゃん!」

「そういう誘いじゃないって!」

「いや、今読んだぞ!」

「小説の話をしようって誘われてるんだよ!」

「ああ、なるほど。小説ねえ」

「そう! 小説!」

大地は考え込むふりをして顎に手を当てた。

「じゃあ、真っ白なWordを持っていけよ。話題が尽きなさそうだな」

「もう電話切るからな!」

「待て待て。俺はお前を助けようとしてるんだって」

「全然助けになってないよ!」

「で、かわいいの?」

頼人は固まった。

「……は?」

「その同僚。かわいいの?」

「それ、何の関係があるんだよ」

「仕事上の好奇心」

「お前、ウェブデザイナーだろ!」

「そしてお前の親友でもある。いろいろ責任があるんだよ」

頼人は片手で顔を覆った。

「森崎さんは、ただのいい同僚だよ。いつも小説の話をするし、出版社でもいろいろ助けてもらってるんだ」

「へえ~」

「その『へえ~』やめろ!」

「別に変なこと言ってないだろ」

「絶対変なこと考えてる!」

大地がにやりと笑う。

「まあ、だったら行けばいいじゃん」

頼人はもう一度メッセージを見た。

笑みが少しずつ消えていく。

カフェ、か……。

正直、誰かと話すのは悪くない。

紗由奈は自分の作品をいくつか読んでくれているし、今の状況も知っている。

一緒に話せば、何かアイデアが見つかるかもしれない。

ただ……。

頼人は机へ視線を落とした。

カフェに行くってことは、お金を使うってことだよな。

財布を入れている引き出しを開ける。

財布を取り出す。

開く。

中身を確認する。

閉じる。

……水だけ頼むって、ありかな?

「何してんの?」と大地が尋ねた。

頼人は顔を上げた。

「別に」

「デート代でも計算してるのか?」

「だからデートじゃないって!」

「はいはい」

大地は椅子にもたれた。

「でも、たまには外に出たほうがいいぞ。今日ずっと家にいたんだろ?」

頼人はもう一度メッセージを見た。

確かに、それもそうだ。

それに、森崎さんはわざわざ気にかけてくれているんだし。

財布を机へ戻す。

「……わかった。行くことにする」

「おっ、いいぞ、ロミオ!」

「その呼び方やめろ!」

ようやく画面共有を解除し、LINEを開いた。

『森崎さん、こんばんは! 心配してくれてありがとうございます。正直、まだ次の小説を考えてるところです』

少し待つ。

それから続けた。

『カフェ、いいですね。明日の午後でも大丈夫ですか?』

すぐに返事が届いた。

『うん! 出版社の近くのカフェはどうかな? 17時くらいで』

頼人は小さく笑った。

『大丈夫です! それじゃ、また明日』

スマートフォンを置く。

画面の向こうでは、大地がまだこちらを見ていた。

「終わった?」

「うん」

「で?」

「明日、カフェに行くことになった」

「いやあ、ロマンチックだねえ」

「仕事の話をするんだって!」

「はいはい」

頼人はため息をついた。

「もう切るぞ」

「おう。ちゃんと休めよ」

大地の表情が少し和らいだ。

「それと、小説のこと、そんなに悩みすぎるなよ」

頼人は彼を見た。

「……努力する」

「よし」

少しの沈黙。

そこで大地が再びにやりと笑う。

「じゃあ明日、頑張れよ、ロミオ!」

「大地ぃぃぃ!」

通話が終了した。

頼人は、暗くなったモニターにうっすら映る自分の顔を見つめた。

「…………」

新しい友達、探そうかな。

それから紗由奈のメッセージを見た。

思わず、少し笑みがこぼれる。

まあ……明日話せば、頭の中を少し整理できるかもしれない。

もう一度Wordを開く。

ページは相変わらず真っ白だった。

笑顔が消えた。

「……その前に、話すアイデアくらい欲しいんだけどな」

翌日、頼人は約束の時間より十分早くカフェに到着した。

別に、特別楽しみにしていたからではない。

単純に、到着までの時間を読み間違えただけだった。

まあ、遅刻するよりはいいか。

店の前で立ち止まる。

出版社から数本通りを進んだところにある、小さなカフェだった。

大きな窓の向こうには、木製のテーブルや観葉植物、本や雑誌が並ぶ棚が見える。

外から見た印象は、落ち着いていて居心地がよさそうだった。

頼人は入口の看板を見た。

続いて、ドアの横に置かれたメニューへ視線を向ける。

価格が、おしゃれな文字で書かれていた。

おしゃれすぎる文字で。

嫌な予感しかしない。

少し近づく。

コーヒーの値段を読む。

「…………」

もう一度読む。

コーヒーって、水と豆でできてるんじゃなかったっけ?

看板から一歩離れた。

まあ、そこまで高くはない。

財布を確認する。

仕事への投資だと思えば、正当化できるはずだ。

財布をしまう。

そうだ。これは投資だ。

店内に入った。

カラン、と小さなベルが鳴る。

淹れたてのコーヒーの香りが漂い、ショーケースに並んだ焼き菓子の甘い匂いと混ざり合っていた。

何人かの客が小声で会話している。

窓際では、男性がノートパソコンで仕事をしていた。

別のテーブルでは、二人の学生が資料を広げて勉強している。

頼人は店内を見回した。

すると、聞き慣れた声がした。

「月森くん!」

振り向く。

窓際の席に座った森崎紗由奈が、こちらに向かって手を上げていた。

淡い青色のブラウスに、濃い色のスカートを合わせている。

隣の椅子には鞄が置かれ、テーブルの上にはスマートフォンと小さなノートがあった。

頼人はそちらへ向かった。

「あっ、森崎さん!」

「早かったね」

「はい。少し余裕があったので」

紗由奈が笑う。

「珍しいね」

頼人は立ち止まった。

「どうしてみんな、僕の時間管理能力をそんなに信用してくれないんですか?」

「信用してないわけじゃないよ」

「じゃあ、何ですか?」

「経験かな」

「ひどい……」

紗由奈はくすくすと笑った。

「ほら、座って」

頼人は向かいの椅子に腰掛けた。

「今日は誘ってくれてありがとうございます」

「ううん。少し外に出たほうが気分転換になるかなって思ったから」

「正直、助かります」

「今日はどうだった?」

「ええと……」

頼人は、真っ白な画面を何時間も眺め続けていたことを思い出した。

「ある意味、充実した一日でした」

紗由奈が少し首をかしげる。

「ある意味?」

「驚くほどたくさんのアイデアを却下できました」

「それで、いくつ残ったの?」

「…………」

「月森くん」

「その質問には答えたくありません」

彼女は笑った。

ちょうどそのとき、女性店員が二人分のメニューを持ってきた。

礼を言って受け取り、それぞれ開く。

「何にする?」と紗由奈が尋ねた。

「まだ考えてます」

「コーヒー?」

「そうですね」

「紅茶?」

「それもいいですね」

紗由奈が顔を上げた。

「じゃあ、どっち?」

頼人は価格を見つめていた。

一番安いコーヒーにしようかな。

いや、紅茶のほうが少し安い。

でも、コーヒーを飲みに来たんだよな。

カフェで紅茶を頼むのって変かな?

……いや、何を考えてるんだ。メニューにあるんだから変なわけないだろ。

紗由奈は黙って彼を見ていた。

「月森くん」

「はい?」

「さっきから同じページばかり見てるよ」

頼人はゆっくりとメニューを下ろした。

「森崎さん」

「何?」

「水だけ注文するのって、ありだと思いますか?」

紗由奈は目を瞬かせた。

「……水?」

「はい」

「カフェで?」

「飲み物ですよね」

「それはそうだけど……」

「一応、誘いには応じていることになります」

紗由奈は数秒間、頼人を見つめた。

そして吹き出した。

「月森くん! せっかく何か飲みに来たんだから!」

「水だって飲み物じゃないですか!」

「私が誘ったんだし、よかったら今日はおごるよ?」

「いえいえ! そこまでお金に困ってません!」

頼人はもう一度メニューを見た。

「…………」

……たぶん。

紗由奈が微笑む。

「好きなものを頼んでいいんだよ。そんなに気にしなくても」

「何を飲みたいか考えてるだけです」

「ふーん」

「本当ですって!」

結局、頼人は普通のコーヒーを注文した。

紗由奈はカフェラテと小さなケーキを選んだ。

店員が離れると、頼人はため息をついた。

「よし。今日最初の重要な決断が終わりました」

「コーヒーを選ぶこと?」

「大きな決断は、小さな決断から始まるんです」

「じゃあ、次の小説はその理屈より面白いものにしてね」

「森崎さん!」

二人は笑った。

飲み物が運ばれてくると、まずは何気ない話から始まった。

紗由奈は、出版社での朝がかなり忙しかったことを話した。

いくつかの新刊の準備が重なっており、送られてきた資料に誤りがあったため、提出前に修正しなければならなかったらしい。

「あるファイルなんて、三つのページで作品名が全部違ってたんだよ」と彼女が説明する。

頼人は顔を上げた。

「三つとも?」

「三つとも」

「実験的な小説だったのかもしれませんね」

「新刊の紹介資料だったんだけど」

「ああ……」

「それに、別の資料では登場人物の名字が途中で変わってたの」

頼人は固まった。

紗由奈が彼を見る。

「どうしたの?」

「何でもないです」

「月森くん……」

「数年前に、似たようなことがあったのを思い出しただけで……」

紗由奈が目を見開いた。

「月森くんもやったことあるの!?」

「脇役だったんです!」

彼女が笑い始めた。

頼人はコーヒーを一口飲んだ。

どうして僕は、聞かれてもいない失敗談を自分から白状するんだろう。

それからも、しばらく二人で話していた。

紗由奈は、今抱えている新刊の仕事が落ち着いたら、業務をもっと整理して、仕事以外で後回しにしていたことにも時間を使いたいと話した。

頼人は興味深そうに耳を傾けた。

こんなにゆっくり話せる機会は、あまりなかった。

出版社では常に誰かが資料を必要としている。

締め切りが迫っていたり、会議の予定が入っていたりする。

しかし、ここなら邪魔されずに会話を楽しめた。

やがて、紗由奈がカップをテーブルに置いた。

「それじゃあ……『Doppelganger』の話、しようか」

頼人の表情が少し変わった。

「はい」

紗由奈はテーブルに腕を置いた。

「今は、どんな気持ち?」

頼人はコーヒーを見つめた。

星野との打ち合わせから一日。

自分の小説にはもう続きがないのだと考えると、今でも妙な気分になった。

「わかりません」と答えた。「まだ受け入れようとしてるところ、って感じです」

紗由奈がうなずく。

「そうだよね」

「一番つらいのは、いろいろ準備してたことなんです」

「第2シーズンの?」

「第2シーズンも、第3シーズンもです」

頼人は椅子に座り直した。

「物語をどう終わらせたいか、かなりはっきり考えてたんですよ。大きく変わっていくキャラクターもいたし、第1シーズンから少しずつ伏線を張っていた展開もあって……」

少し言葉を止める。

「それを、もう誰にも読んでもらえないんです」

紗由奈は黙っていた。

頼人は続ける。

「売り上げが大事なのはわかってます。売れない作品を、出版社がずっと出し続けるべきだなんて思ってません」

窓の外を見る。

「でも、自分が描きたかったところまでたどり着く前に、物語が終わっちゃうのは……やっぱり、なかなか受け入れられませんね」

紗由奈は彼の表情を見つめた。

そして、落ち着いた声で言った。

「私は、『Doppelganger』を忘れなくてもいいと思うよ、月森くん」

頼人は彼女を見た。

「え?」

「今は続きを書けなくても、あれは月森くんが書いた物語なんだから」

頼人は何も言わなかった。

「出版社が続きを出さないって決めたからって、月森くんが費やした時間までなくなるわけじゃないし、書いている間に学んだことも消えないでしょ?」

頼人はカップへ視線を落とした。

「……そうですね」

「それに、第1シーズンはちゃんと出版されたんだよ。読んでくれた人だっているんだから」

頼人はゆっくりとうなずいた。

何千人もの読者がいたわけではない。

夢見ていたような成功を収めたわけでもなかった。

しかし、寄せられた感想の中には、彼が生み出した登場人物を本当に大切に思ってくれていると感じられるものもあった。

ある読者が、特に好きだった場面について長い感想を送ってくれたことも覚えている。

あのときは、そのコメント一つで一週間ずっと嬉しかった。

「ありがとうございます、森崎さん」

紗由奈が微笑む。

「まだお礼を言うのは早いよ」

「え?」

彼女はノートを取り出した。

「今度は、新しい物語を考えないとね」

頼人は驚きと不安が入り混じった顔で、そのノートを見つめた。

「……ノート持ってきたんですか?」

「もちろん」

「仕事の打ち合わせを準備してきたんですか?」

「アイデアが必要だって言ってたでしょ?」

「でも、もっとのんびり話すものかと……!」

「のんびり話してるじゃない」

紗由奈はノートを開いた。

「じゃあ、どんな物語を書きたい?」

頼人は固まった。

ああ……。

昨日からずっと避けていた質問だ。

「……アクションものです」

ようやく答える。

「うん。どんなアクション?」

「ええと……冒険があるような」

紗由奈は一つ言葉を書き留めた。

「ファンタジー?」

「それもいいですね」

「SF?」

「ありですね」

「ミステリー?」

「それも面白そうです」

紗由奈はペンを止めた。

顔を上げる。

「月森くん」

「はい?」

「全部に『いい』って言ってない?」

「全部可能性があるじゃないですか!」

「それじゃあ、ドラゴンと戦う宇宙探偵の小説になっちゃうよ」

頼人は考え込んだ。

「…………」

紗由奈が彼を見た。

「だめだからね」

「まだ何も言ってません!」

「その顔、知ってるもん」

「でも、宇宙探偵って……」

「月森くん!」

頼人は笑い始めた。

その後、二人はいくつもの案を考えた。

大きな試練を乗り越えなければならない主人公の冒険。

複数の組織が対立する世界。

主人公が真実を探すうちに、少しずつ明らかになっていく謎。

面白そうなアイデアもあった。

二人が知っている作品に、あまりにも似ているものもあった。

そして、中にはあまりにも馬鹿げた方向へ話が進み、お互い笑わずにはいられなくなる案もあった。

最後に、頼人は椅子の背へ頭を預けた。

「結局、何も決まりませんでしたね」

「いくつか案は出たよ」

「どれも、まだそこまで良くないです」

紗由奈はペンをノートの上に置いた。

「でも、考える材料は増えたでしょ?」

頼人はメモを見つめた。

確かに、そのとおりだった。

小説が完成したわけではない。

まとまったあらすじすらない。

しかし『Doppelganger』が打ち切られてから初めて、目の前にはいくつものアイデアが書き留められていた。

「……何もないよりは、いいですよね」

紗由奈が微笑んだ。

「そういうこと」

頼人はコーヒーを一口飲んだ。

「でも宇宙探偵の企画を持っていったら、星野さんに追い出されそうです」

「たぶんね」

「信用ないなあ……」

「月森くんが考えたんでしょ!」

二人はまた笑った。

会話は、さらにしばらく続いた。

最近読んだ小説のこと。

出版社の新刊のこと。

そして、どんな物語が読者の心に届くのかを予測する難しさについて。

頼人は少しずつ肩の力が抜けていくのを感じていた。

しかし、再び空になったカップを見たとき、別のことを思い出した。

その隣には、紗由奈が食べたケーキの小さな食べかすが残る皿があった。

……そうだ。会計しなきゃ。

その考えが、別の問題を思い出させた。

『Doppelganger』のことばかり考えていて、ここ数週間ずっと家計を見直していた理由を忘れかけていたのだ。

頼人がスマートフォンを取り出して電卓を開くと、紗由奈が気づいた。

「何してるの?」

頼人は顔を上げる。

「あ、いえ、別に」

「何か計算してる?」

「ちょっと……」

紗由奈が画面を見た。

頼人は慌てて画面を消した。

遅かった。

「……生活費?」

頼人は黙った。

「……少し」

紗由奈は首をかしげた。

「何か困ってるの?」

「そういうわけじゃないんですけど」

「本当に?」

頼人は少し迷った。

それから、スマートフォンをテーブルに置いた。

「ええと……節約しようと思ってるんです」

「何か欲しいものでもあるの?」

「生き延びるためです」

紗由奈が目を瞬かせた。

「……え?」

「経済的な意味で」

彼女は頼人の顔をじっと見た。

頼人はため息をついた。

「正直、出版社のことで結構不安なんです」

「次の小説のこと?」

「それもありますけど、ほかにもいろいろ」

椅子に座り直す。

「今のアパートを借りたときは、もう少し仕事がうまくいくと思ってたんです。『Doppelganger』も進んでたし、残りのシーズンも出版していくつもりでしたから」

紗由奈は口を挟まずに聞いていた。

「でも、収入は思ってたほど増えなくて。仕事によって生活費は払えるんですけど、毎月同じだけ入ってくるわけじゃないんです」

「そっか……」

「それで今回、連載も打ち切りになって。数か月後にどうなってるのか、正直よくわからなくて」

頼人は窓の外を見た。

「貯金は多少あります。でも、次の企画がうまくいくのを待ちながら、ずっと取り崩すわけにもいかないですし」

紗由奈はゆっくりとうなずいた。

「それはそうだね」

「だから、引っ越そうかなと思ってて」

紗由奈が顔を上げた。

「引っ越し?」

「はい。もっと家賃の安いところを探そうと思ってるんです」

「そんなに厳しいの?」

頼人は少し考えた。

「見方によりますね」

「どういう見方?」

「楽観的な見方です」

紗由奈はゆっくりとカップをテーブルに置いた。

「月森くん……」

「昨日計算してみたら、今の家賃を払い続けるためには、食事をやめるしかないかもしれないって気づいたんです」

「食べるのをやめちゃだめだよ!」

「わかってます。数分考えてから、その案は却下しました」

紗由奈が目を見開く。

「数分も考えたの!?」

「経済活動には犠牲がつきものなんです、森崎さん!」

「食事は犠牲にしちゃだめでしょ!」

頼人が笑い始めた。

紗由奈は厳しい表情を保とうとしたが、結局つられて笑ってしまった。

「冗談ですよ」と頼人が付け加えた。「本当に食べるのをやめたりしません」

「絶対にそうしてね」

「それに、病院にかかったら余計にお金がかかりそうですし」

「食べなきゃいけない理由はそこじゃないよ!」

「まあ、食べるのも好きですからね」

紗由奈は首を横に振った。

「もう、月森くんったら……」

笑いが収まると、彼女は少し真剣な顔になった。

「でも、本当に、今のアパートにはあとどれくらい住めそう?」

頼人はテーブルを見た。

「数か月なら、そこまで困らないと思います」

「そのあとは?」

「貯金を、今より多く使うことになりそうです」

紗由奈がうなずく。

「じゃあ、余裕があるうちに探しておくのはいいことだね」

「そう思ったんです」

「もう物件は見てみた?」

「いくつか、ネットで」

「いいところはあった?」

頼人は顔をしかめた。

「両腕を広げても左右の壁に触らずに済む部屋を探すと、急に家賃が高くなるんですよ」

紗由奈が笑う。

「そんなに狭いの?」

「写真を見る限り、ベッドがほとんど台所の中にある物件もありました」

「大げさだよ」

「本当ですって!」

頼人はスマートフォンを取り出した。

保存していた物件情報を探す。

紗由奈に写真を見せた。

彼女は画面を見つめた。

「あ……」

「でしょう?」

「うーん、ずいぶん個性的な間取りだね……」

「枕のすぐ横に流し台があるんですよ!」

紗由奈は声を出して笑わないよう、口元を手で覆った。

頼人はスマートフォンをしまう。

「でも、遠すぎるところには引っ越せないんです。今度は交通費が高くなっちゃいますから」

「そうだよね」

「それに、落ち着いて仕事ができる場所じゃないと困りますし」

紗由奈は考え込んだ。

「じゃあ、ただ家賃が安ければいいってわけでもないんだね」

「そうなんです」

頼人は椅子にもたれた。

「毎月の支払いを心配せずに済むところがいいんです。古くても、多少離れていても構わないので」

「なるほど……」

数秒間、紗由奈は何かを思い出そうとしているようだった。

それから顔を上げる。

「……あ、待って」

頼人が彼女を見る。

「どうしました?」

「もしかしたら、助けてくれる人を知ってるかも」

頼人の目が輝いた。

「僕の小説を全部出版してくれる有名編集者ですか!?」

「違うよ」

「跡継ぎを探している大富豪!?」

「それも違う」

「優秀な小説家を今すぐ雇いたい会社とか!?」

「月森くん……」

「残念です」

紗由奈が吹き出した。

「不動産屋さん!」

頼人は目を瞬かせた。

「あ」

「なんでそんな顔するの?」

「いや、最初の可能性を聞いたあとだと、もっとすごい話かと期待しちゃって……」

「最初の可能性は全部、月森くんが勝手に言ったんでしょ!」

「確かに」

紗由奈は笑いながら首を横に振った。

「藤本幸子さんっていう人なんだけど」

頼人は真剣に耳を傾けた。

「よく知ってる人なんですか?」

「家族の知り合いなの。前に叔母が家を探していたとき、手伝ってもらったことがあって」

「へえ……」

「いろんな価格帯の物件を扱ってるみたい。月森くんの希望に合うものがあるかはわからないけど、聞いてみてもいいんじゃないかな?」

頼人は考えた。

「僕の予算でも見つかると思います?」

「約束はできないけど……」

紗由奈が微笑んだ。

「聞くだけならタダでしょ?」

頼人はゆっくり顔を上げた。

「森崎さん……」

「何?」

「最近、その言葉が一番好きなんです」

彼女は笑った。

「じゃあ、決まりだね」

スマートフォンを取り出す。

「連絡先を教えてもいいか、メッセージを送ってみるね」

「今ですか?」

「うん。忙しかったら、あとで返事をくれると思うし」

頼人がうなずく。

「ありがとうございます」

紗由奈はメッセージを打ち始めた。

頼人はその様子を見つめた。

新しい小説のアイデアを探すつもりで来たのに、いつの間にか引っ越しの相談までしている。

不思議な気分だった。

まあ、どっちも大事なことには違いない。

ただ、片方はもっと差し迫った問題だけど。

紗由奈がスマートフォンをテーブルに置いた。

「よし。聞いてみたよ」

「もし安い物件がなかったら、どうしましょう?」

「そのときは、また探せばいいよ」

「あ」

「紹介された物件を、絶対に借りなきゃいけないわけじゃないんだから」

頼人は小さく笑った。

「そうですよね」

紗由奈は彼を見つめた。

「それに、今週中に全部解決しなくてもいいんだよ」

その言葉は、どこか聞き覚えがあった。

大地もビデオ通話で似たようなことを言っていた。

星野も、新しい小説をすぐ完成させろとは言っていなかった。

僕は本当に、一度にいろんなことを解決しようとしすぎてるのかな。

頼人はテーブルへ視線を落とした。

「どうしても、悪い方向にばかり考えちゃうんです」

紗由奈がうなずく。

「わかるよ」

少し間を置く。

「でも、今日だっていろいろできたじゃない」

「たとえば?」

「カフェに来られたでしょ?」

「ものすごい偉業ですね」

「次の小説のアイデアもいくつか考えたし」

「かなり怪しいアイデアばかりでしたけど」

「それに、もっと安い部屋を探す方法も一つ見つかった」

頼人は彼女の言葉を考えた。

「まあ……」

紗由奈が使っていたノートを見る。

「そう考えると、まったく無駄な午後ではなかったですね」

「でしょ?」

彼女が微笑んだ。

頼人も笑顔を返す。

「いろいろありがとうございます、森崎さん」

「どういたしまして」

カフェを出た頃には、街灯がつき始めていた。

気温も少し下がっている。

歩道には仕事帰りの人々が行き交い、急ぎ足で歩く人もいれば、ゆっくり会話を楽しみながら帰る人もいた。

頼人と紗由奈は店の入口付近で立ち止まった。

「さて、私は明日、出版社で書類を仕上げないと」と紗由奈が言った。

「新刊の資料ですか?」

「うん。今度こそ、全部正しいタイトルになってるといいんだけど」

頼人が笑う。

「それは大きな進歩ですね」

紗由奈が楽しそうな目を向ける。

「月森くんも、登場人物の名前をちゃんと確認してね」

「あれは一回だけです!」

「そうだね」

「本当に一回だけですから!」

彼女はまた笑った。

それから鞄の肩紐を直した。

「藤本さんから返事が来たら、連絡先を送るね」

「お願いします」

「それと、小説のこともちゃんと考えてね」

頼人はため息をついた。

「宿題まで出されるんですか?」

「少しだけ」

「第二の出版社みたいになってきましたね……」

紗由奈が微笑む。

「次に話すときは、一つくらい気に入ったアイデアがあるといいね」

「頑張ります」

「あと、ちゃんと寝ること」

頼人は両腕を広げた。

「またその話ですか!?」

「だって、まだ目の下にクマがあるんだもん!」

「もう一生消えないんじゃないかって思い始めてます!」

二人は声を上げて笑った。

やがて、別れの挨拶を交わす。

紗由奈は駅のほうへ歩き始めた。

頼人は少しの間、その背中を見送っていた。

それからスマートフォンを取り出す。

メモアプリを開いた。

カフェで話し合ったアイデアを、いくつか保存してある。

特別素晴らしいものではなかった。

今すぐ小説にしたいと思える案もなかった。

しかし、少なくとも文字になったものがあった。

まあ……。

スマートフォンをしまう。

明日は、この中のどれかをもう少し考えてみよう。

アパートへ向かって歩き始めた。

『Doppelganger』が打ち切られてから初めて、新しい物語を書くことが、まったく不可能なことには思えなくなっていた。

答えはまだ遠い。

それでも、その午後、頼人は自分に必要だったものを少しだけ取り戻していた。

もう一度、挑戦してみたいという気持ちを。

帰宅した頼人は、玄関の棚に鍵を置いた。

「ただいまー……」

アパートは静まり返っていた。

靴を脱ぐ。

上着を掛ける。

そして机へ向かう。

数秒間、部屋を見回した。

本棚に並んだ小説。

椅子に置きっぱなしの服。

パソコンの横に積まれたノート。

そして、どういうわけか、いまだに洗われていないマグカップ。

「……明日でいいか」

椅子に座った。

しかし今回は、すぐにWordを開かなかった。

まず、ノートを取り出す。

そこに、毎月の支出を書き始めた。

家賃。

光熱費。

交通費。

食費。

そのほか、月々に支払わなければならないもの。

次に、今後数週間で得られそうな収入を書き出した。

結果を眺める。

「うわぁ……」

完全にお金がないわけではなかった。

しかし、次に書く小説が必ず大ヒットするかのようなつもりで、今までどおりお金を使い続けるわけにはいかない。

もっと安いところが見つかれば、かなり余裕ができるはずだ。

ペンで机を軽く叩く。

でも、引っ越すのにもお金がかかる。

もう一つ、書き加えた。

それに、出版社まで遠すぎたら、交通費で節約分が消えちゃうかもしれない。

さらに一行。

敷金、交通費、引っ越し代……。

頼人はノートを見つめた。

「…………」

大人になるって、詐欺じゃないか?

そのとき、スマートフォンが振動した。

ピロン♪

LINEの通知が画面を明るくする。

『森崎紗由奈』

頼人はメッセージを開いた。

『月森くん! 藤本さんから返事が来たよ。連絡しても大丈夫だって!』

その下に、もう一通届いた。

『安い物件を探してることも伝えておいたよ。いくつか紹介できるかもしれないから、まずは希望を教えてほしいって』

続いて、連絡先が送られてきた。

『藤本幸子』

頼人はその名前を見つめた。

不動産屋さん、か……。

つい最近まで、引っ越しを真剣に考えたことすらなかった。

それが今、助けてくれるかもしれない人物の連絡先を手にしている。

紗由奈に返信した。

『森崎さん、本当にありがとうございます! 今日はすごく助かりました!』

ほとんどすぐに返事が届いた。

『どういたしまして! いい物件が見つかるといいね』

その直後、もう一通。

『それと、小説のことも忘れないでね。おやすみ!』

頼人は笑った。

『おやすみなさい!』

会話を閉じる。

それから、幸子の連絡先を開いた。

しばらくの間、画面を見つめる。

引っ越しか……。

アパートへ顔を向けた。

特別きれいな部屋ではない。

広くもない。

快適だと言い切れるわけでもなかった。

それでも、ここで数え切れないほどの時間を過ごしてきた。

気に入った章を書き上げたこともある。

出版されなかった企画を完成させたこともある。

小さな成功を喜んだこともあった。

どんな言葉も十分に思えず、静かな夜を過ごしたこともある。

ここを離れると思うと、少し寂しかった。

しかし、何かを変えなければならないこともわかっていた。

ただ願うだけで、経済状況が良くなるわけではない。

そして、新しい小説を書くことに集中したいのなら、毎日家賃の心配をし続けるのは避けたかった。

もう一度、スマートフォンへ視線を落とす。

新しいトーク画面を開いた。

文字を打ち始める。

『こんばんは。月森頼人と申します。森崎紗由奈さんからご連絡先を教えていただきました。現在、家賃の安い物件を探しておりまして……』

そこで止まった。

読み返す。

もう一度読む。

「……堅すぎるかな?」

一語消した。

もう一度入力した。

句読点を確認する。

挨拶の文を変える。

結局、最初の文章に戻す。

「……なんでメッセージを一通送るだけで、こんなに難しいんだ?」

たった三行を五分近くかけて修正した末、ようやく文章が完成した。

『藤本様

こんばんは。森崎紗由奈さんからご紹介いただきました、月森頼人と申します。

現在、できるだけ費用を抑えられる住まいを探しています。賃貸物件を希望していますが、予算に合うようであれば、ほかの選択肢も検討したいと考えています。

お時間のあるときに、現在ご紹介いただける物件についてご相談できれば幸いです。

どうぞよろしくお願いいたします。』

頼人は最後にもう一度読み返した。

よし。

問題ない。

……たぶん。

『送信』を押した。

スマートフォンを机の上に置く。

そして、ため息をついた。

「安いところが見つかるといいな……」

画面は数秒間点灯したままだったが、やがて暗くなった。

頼人は椅子の背もたれに頭を預けた。

まだ新しい小説はできていない。

引っ越し先も見つかっていない。

経済的な不安だって、何も解決していない。

そして明日になれば、きっとまた、あの真っ白なWordの画面と向き合わなければならないだろう。

それでも、小さな一歩を踏み出した。

自分の生活を、少しだけ楽にできるかもしれない一歩を。

夕食の準備をしようと立ち上がる。

部屋を出る前に、もう一度スマートフォンを見た。

「まあ……」

小さく笑う。

「聞くだけなら、タダだしな」

そうつぶやいて、台所へ向かった。

自分の予算に合う場所が見つかるかどうかも、まだわからないまま。

こうして月森頼人は、新しい住まいを探し始めたのだった。


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