第1章 — 最後のチャンス
電車の到着を知らせるアナウンスが聞こえた瞬間、月森頼人は今日という日が厄介な一日になることを悟った。
「ま、待って! 待ってくれ!」
ホームに停車した電車のドアが閉まり始める。
頼人は片手に鞄を、もう片方の手に大量の原稿用紙が詰まった青いファイルを抱えながら、必死に足を速めた。
そして、ドアが完全に閉まる寸前、どうにか車内へと滑り込むことに成功した。
「はぁ……」
隣に立っていたスーツ姿の男性が、一瞬だけこちらを見る。
頼人は気づかなかったふりをした。
完璧だ。実に完璧な朝だ。電車には乗り遅れそうになるし、シャツにはしわがついてるし、まだ九時にもなってないっていうのに……。
車両の壁に寄りかかり、腕に抱えたファイルへと視線を落とす。
表紙には、丁寧な字でタイトルが書かれていた。
『Doppelganger』――第2シーズン。
その下には、自分の名前。
月森頼人。
ファイルの中には、ここ数年にわたって執筆してきた物語の新しい三話分の原稿が収められている。
最初から全三シーズンで構想していた作品だ。
第1シーズンはすでに出版されていた。
その結果が素晴らしいものだったかと聞かれれば、正直なところ、そうとは言い切れない。
それでも頼人は、第2シーズンで状況を変えられると信じていた。
ここ数週間、何度も場面を見直し、台詞を書き換え、納得のいかなかった展開を修正してきた。
長い間頭を悩ませていた物語上の問題も、ようやく解決できた。
今度こそ、うまくいくはずだ。
もう一度ファイルを見つめる。
星野さんには、物語のテンポを改善するように言われた。それは直した。場面のつながりも見直すように言われたから、そこも修正した。
自然と笑みが浮かぶ。
それに、三話も完成させたんだ。
さらに口元が緩む。
一週間で三話。これはもう、偉業と言ってもいいんじゃないか?
そこで、昨夜の睡眠時間が約二時間半だったことを思い出した。
……健康面で多少の犠牲は払ったけど、偉業は偉業だ。
電車は走り続ける。
このときの頼人は、腕の中に抱えているその原稿が、間もなく自分の人生を大きく揺るがすことになるなど、想像もしていなかった。
出版社の建物は、街の比較的にぎやかな一角に建っていた。
特別目立つ建物というわけではない。
数階建てのガラス張りのビルで、正面玄関の横には会社名を記した看板が掲げられている。
道行く人々にとっては、どこにでもある普通のオフィスビルなのだろう。
しかし、頼人にとっては違った。
ここは、自分が作家としての道を歩み始める機会を得た場所だった。
初めて自分の物語を信じてくれる人たちと出会った場所でもある。
そしていつか、何千人もの読者に届く小説を生み出し、その成功を祝うことを夢見ている場所でもあった。
もっとも、現時点での彼の主な実績といえば、締め切りを守って原稿を提出することと、会議中に居眠りをしないことくらいだったが。
なお、後者についてはまだ審議の余地がある。
頼人は自動ドアを抜け、エントランスへと足を踏み入れた。
受付カウンターの向こうでは、黒髪の女性が電話で話しながら書類を確認している。
彼に気づくと、女性は軽く手を上げた。
頼人も小さく会釈し、そのままエレベーターへ向かおうとする。
「月森くーん!」
足を止めた。
女性はちょうど電話を終えたところだった。
「あっ、遠藤さん! おはようございます!」
受付で働く二十九歳の遠藤美香は、楽しそうな笑みを浮かべて彼を見た。
「またそんなにたくさんの書類を持ってきたの?」
頼人は得意げにファイルを持ち上げた。
「『Doppelganger』の新しい原稿です!」
「ああ、今日は星野さんとの打ち合わせだったっけ?」
「はい! 十五分後です!」
「じゃあ、今日は早く来たんだね」
頼人は目をぱちくりさせた。
「それ、そんなに意外ですか?」
「ちょっとだけ」
「僕だって、そんなに遅刻ばかりしてるわけじゃありませんよ!」
美香は何も言わず、じっと彼を見つめた。
頼人は視線をそらした。
「……まあ、たまにはしますけど」
「先週の火曜日、入館証を忘れたって走ってきたよね?」
「それは誰にでもあることです」
「木曜日には、鞄を受付に置き忘れてたし」
「ほんの少しの間ですよ!」
「取りに戻ってきたの、お昼過ぎだったけど」
頼人は口を開いた。
そして、閉じた。
この会話に勝てる未来がまったく見えない。
美香がくすくすと笑う。
「冗談、冗談。それで、第2シーズンは完成したの?」
「まだです。でも、新しく三話書けましたし、気になっていたところもいろいろ直しました!」
「そっか。うまくいくといいね」
「ありがとうございます!」
頼人は笑顔を浮かべ、エレベーターへと続く廊下を歩き始めた。
「あっ、月森くん!」
彼は歩いたまま、少しだけ振り返る。
「はい?」
「それと、ファイルには気をつけて――」
頼人は肩からずり落ちかけた鞄を直そうとした。
鞄を落とさないよう、とっさにファイルを持っていた手を上げる。
ほんの小さな動きだった。
取るに足らない、ごく普通の動作。
だが、それで十分だった。
ファイルが開いた。
「……え?」
一瞬、頼人は原稿用紙がばらばらと離れていく様子を見つめた。
次の瞬間、大量の紙が廊下へと舞い散った。
「うわあああああっ!!」
バサァッ!
ファイルが床に落ち、乾いた音がエントランスに響いた。
何枚かの原稿はエレベーターの近くへ。
別の紙は頼人の足元へ。
一枚は近くの小さなテーブルの下にまで滑り込んでいった。
頼人はその場に固まった。
受付から美香が一部始終を見つめている。
「……ファイルにね」
忠告の続きを言い終えた。
頼人はゆっくりと床を見下ろした。
それから顔を上げる。
「……ご忠告、ありがとうございます」
「どういたしまして!」
死ぬ。
慌ててしゃがみ込む。
僕はここで死ぬんだ。廊下の真ん中で。一週間かけて書いた原稿に囲まれながら。
必死になって紙を拾い始めた。
「えっと……十四、十五、十六……」
別の一枚を見る。
「十八……」
眉をひそめる。
「十七?」
手元の原稿を確認する。
「十七ページはどこに……?」
「たぶん、その上に座ってると思うよ」
頼人は顔を上げた。
目の前には、黒髪を低い位置で一つに結び、明るい色のブラウスとオフィス用のパンツを身につけた若い女性が立っていた。
片腕には書類を抱えている。
心配しているような、それでいて笑いをこらえているような表情だった。
「あ……」
頼人は自分の下を見た。
確かに、一枚の原稿の上に座っていた。
「……おはようございます、森崎さん」
森崎紗由奈は小さくため息をついた。
「おはよう、月森くん」
彼の隣にしゃがみ込む。
「手伝おうか?」
「い、いえ! 大丈夫です! ちょっとした事故なので!」
紗由奈は床一面に散らばった原稿を見回した。
「ちょっとした?」
「ええと……」
頼人も周囲を見た。
「中規模の事故、ですかね」
紗由奈は吹き出した。
「ほら、手伝うよ」
二人は一緒に原稿を拾い始めた。
頼人がページを順番に並べる間、紗由奈は遠くまで飛んでいった紙を集めていく。
「これ、新しい原稿?」と彼女が尋ねた。
「はい」
「『Doppelganger』の?」
その瞬間、頼人の表情がぱっと明るくなった。
「そうなんです! 第2シーズンの原稿を三話分、完成させました!」
「三話も?」
「はい!」
「いつから書いてたの?」
「うーん……ある程度は前から準備してたんですけど、今週中に全部の修正を終わらせました」
紗由奈は原稿に目を落とした。
「なるほど。だからそんなに目の下にクマがあるんだね」
頼人は反射的に顔へ手を当てた。
「そんなに目立ちます?」
「少しね」
「その『少し』って、どのくらいですか?」
「睡眠と殴り合って、負けたみたいに見えるくらい」
「ひどい……」
「ちゃんと寝た?」
「もちろんです!」
紗由奈が彼を見る。
頼人も二秒ほど視線を合わせた。
そして目をそらした。
「……二時間半」
「月森くん」
「でも! 質の高い二時間半でした!」
「そういう問題じゃないよ」
「量より質が大事です」
「睡眠の話をしてるんだよ? 執筆じゃないんだから」
頼人はため息をついた。
今日は本当に、一度も口論に勝てないな……。
そのとき、廊下の向こうから若い男性社員が現れた。
両腕には大量のファイルと書類を抱えており、前がよく見えていない様子だった。
「あのー……すみません、通ってもいいですか?」
出版社で働く若手の編集アシスタント、石田健太だった。
頼人は顔を上げる。
「あっ、石田くん! はい、ちょっと待ってください!」
慌てて体をずらそうとする。
その足が、紗由奈の並べたばかりの原稿に触れた。
一枚の紙が再び床を滑る。
三人はその紙を見つめた。
沈黙。
「……すみません」
頼人が小さくつぶやく。
健太は抱えている書類をどうにか持ち直した。
「手伝いましょうか?」
「ううん、大丈夫。もうすぐ終わるから」と紗由奈が答える。
「わかりました! それじゃ、失礼します!」
健太は慌ただしく去っていった。
頼人はその背中を見送る。
「忙しそうですね」
「今日は新刊の準備がいくつも重なってるからね」
「なるほど……」
「それより月森くんも、そろそろ打ち合わせの準備をしないと」
頼人は時計を見た。
「あっ、そうだった!」
急いで残りの原稿を集める。
紗由奈が拾った紙を手渡した。
「はい。これで全部だと思うよ」
「本当にありがとうございます、森崎さん!」
「どういたしまして」
頼人は手早くページの順番を確認した。
紗由奈は一枚目の原稿をちらりと見る。
「第2シーズンの最初、変えたの?」
「はい。かなり変えました」
「前に、一つの場面で悩んでなかった?」
「そうなんです!」
頼人はすぐに熱っぽく語り始めた。
いくつかの出来事の順番を変えたこと。
台詞のテンポを調整したこと。
以前はうまくつながらなかった二つの場面を、ようやく自然に結びつけられたこと。
紗由奈は興味深そうに耳を傾けていた。
彼女自身は作家ではない。
主な仕事は、出版コンテンツの準備や管理に関わる業務だった。
それでも、頼人の作品はいくつか読んだことがある。
そして『Doppelganger』が彼にとってどれほど大切な作品なのかも知っていた。
「それなら、今回は星野さんも喜んでくれるんじゃないかな」と紗由奈が言った。
頼人は笑顔を浮かべる。
「そうだといいんですけど」
「緊張してる?」
「少し」
紗由奈が眉を上げる。
「少し?」
「ものすごく」
彼女は笑った。
「じゃあ、頑張ってね」
「ありがとうございます、森崎さん」
頼人はようやく原稿をファイルに戻した。
今度はきちんと閉じたことを何度も確認する。
そして、エレベーターへ向かおうとした。
「月森くん!」
また振り返る。
「はい?」
紗由奈がファイルを指さした。
「今度はちゃんと持ってね」
頼人はファイルを胸にぎゅっと抱えた。
「もう学習しました!」
受付の方から美香が手を上げる。
「そうだといいねー!」
なんで今日はみんな僕に厳しいんだ……?
編集部のフロアは、エントランスよりもずっと騒がしかった。
電話の音が鳴り響く。
締め切りについて話し合う社員たち。
壁際では、プリンターが休みなく動いている。
近くのデスクでは、二人の社員が表紙のデザインについて議論していた。
頼人は何人かの同僚に挨拶しながら、デスクの間を歩いていった。
この雰囲気には慣れている。
そして、嫌いではなかった。
忙しい日でも、物語に関わる仕事をする人々に囲まれているのは楽しかった。
作家。
編集者。
デザイナー。
校正者。
それぞれ役割は違っていても、原稿を誰かの手に届く本へと変えるという目的は同じだった。
いつか……。
頼人はファイルを見下ろす。
いつか、誰もが話題にするような小説を書きたい。
「おや、誰かと思えば」
男性の声が思考を遮った。
頼人は足を止める。
近くのデスクにもたれかかっているのは、少し乱れた黒髪にカジュアルなジャケットを着た若い男性だった。
片手には飲み物、もう片方には数枚の書類を持っている。
長谷川陸。
同じ出版社で仕事をしている小説家だ。
そして、頼人にとっては非常に残念なことに、人をからかうのが大好きらしい人物でもあった。
「おはようございます、長谷川さん」
「おはよう、月森」
陸はファイルに目を向けた。
「また原稿の提出か?」
「はい。『Doppelganger』の新しい原稿です」
「ああ、まだ第2シーズンを書いてるのか?」
頼人は眉をひそめた。
「当然じゃないですか!」
陸が片手を上げる。
「落ち着けって。ただ聞いただけだろ」
「なんだか意外そうに聞こえましたけど」
「意外だったらどうする?」
「…………」
この人、本当に面倒くさいな。
陸が薄く笑う。
「星野さんと打ち合わせか?」
「はい。これからです」
「なら、遅刻しないようにな」
「しませんよ」
「前もそう言ってたな」
「前だって遅刻してません!」
「コーヒーが出されてる最中に入ってきたじゃないか」
「それは時間どおりってことでしょう!」
陸が声を上げて笑った。
「まあ、頑張れよ」
頼人は目を瞬かせた。
思ったよりあっさりした別れの言葉だった。
「あ……ありがとうございます」
「いい原稿になってるといいな」
「僕もそう願ってます」
陸は飲み物を軽く掲げ、歩き去っていった。
頼人はその後ろ姿を見つめる。
時々腹が立つ相手ではあるが、長谷川が優秀な作家であることは認めざるを得なかった。
彼のミステリー小説は、頼人の作品より売れている。
実際、かなり売れている。
いつか、絶対にあの人より本を売ってみせる。
頼人はファイルを握り直す。
でも、まずは今日の打ち合わせを成功させないと。
星野の執務室の前で立ち止まった。
大きく息を吸う。
シャツの襟を整える。
もう一度ファイルを確認する。
そして、ドアをノックした。
「どうぞ」
頼人は中へ入った。
星野武正は五十二歳。
その表情には、自信満々の作家でさえ緊張させるような迫力があった。
別に、彼が特別に意地悪な人間というわけではない。
ただ、出版業界で長年働いてきた結果、苦し紛れの言い訳など、数メートル先からでも見抜けるようになっていたのだ。
執務室はきちんと整理されていた。
本棚には数多くの書籍が並び、いくつかの賞状や記念品が飾られている。
机の上にも書類が整然と置かれていた。
星野はその机の向こうで、ファイルに目を通していた。
頼人が入ってくると、顔を上げる。
「おはよう、月森」
「おはようございます、星野さん!」
「座りなさい」
「失礼します」
頼人は机の向かい側に腰掛けた。
危うくファイルを勢いよく机に置きそうになる。
エントランスでの惨事を思い出した。
いや、だめだ。今日、同じ失敗を繰り返すわけにはいかない。
慎重に置く。
星野がその動きを見ていた。
「ファイルに何かあったのか?」
「ありません!」
沈黙。
「……大したことは」
星野はゆっくりとうなずいた。
「そうか」
頼人はファイルを開いた。
「『Doppelganger』の新しい原稿を持ってきました。かなり頑張って修正したので、前より良くなっていると思います」
編集者は何も言わなかった。
頼人は続ける。
「特に第2シーズンの冒頭です。いくつかの展開に時間をかけすぎていることに気づいたので、場面の構成を変更しました」
最初の数ページを取り出す。
「台詞も修正しましたし、それから――」
「月森」
頼人は言葉を止めた。
星野は原稿に触れていなかった。
「はい?」
編集者は読んでいたファイルを脇へ置いた。
そして眼鏡を外し、机の上に置く。
「その前に、話しておかなければならないことがある」
頼人は目を瞬かせた。
「あ……何かあったんですか?」
星野は少しの間、黙っていた。
「昨日、経営陣との会議があった」
「はい」
「いくつかの作品の実績について検討したんだ」
頼人はうなずいた。
なぜ急にこんなに深刻な雰囲気になったのか、まだ理解できなかった。
「その中に『Doppelganger』もあった」
頼人の笑みが少し薄れた。
「それで……?」
星野は彼をまっすぐ見た。
「経営陣は、シリーズの打ち切りを決定した」
頼人は動きを止めた。
短い沈黙。
そして、もう一度。
「……え?」
「第2シーズンの制作は行わない」
その言葉が、二人の間に重く残った。
頼人は机の上に置いた原稿を見つめた。
それから星野へと視線を戻す。
「でも……どうしてですか?」
編集者は深く息を吸った。
「第1シーズンの結果が、期待していた水準に届かなかった」
「結果……ですか?」
「売り上げも、読者からの反応も、出版社の予測を下回っていたんだ」
頼人はわずかに口を開いた。
「でも……まだ二シーズン残っています」
「わかっている」
「最初から三部構成で考えていたんです」
「わかっているよ、月森」
「まだ始まってもいない重要な展開だってあるんです!」
思っていたより大きな声が出た。
頼人ははっとした。
「すみません……」
星野は怒っていなかった。
「謝る必要はない」
頼人は再び原稿に目を落とす。
「いろいろ修正したんです。第2シーズンなら、もっと良くできると思います」
星野は黙っていた。
「テンポも改善できます」と頼人は続ける。「展開だって変更できます。必要なら第1シーズンの一部を見直しても……」
「月森……」
「それか、公開の仕方を変えるのはどうでしょう。もっと読者を増やせれば――」
「月森」
頼人は口を閉じた。
星野は疲れた表情で彼を見つめていた。
「もう決まったことなんだ」
頼人は視線を落とす。
「……わかりました」
けれど、わかっていなかった。
少なくとも、完全には。
何年もかけて想像してきた物語だった。
登場人物を考え、その葛藤を考え、最後にはどのように成長していくのかを考えてきた。
納得のいかない場面を解決するため、何度も夜遅くまで起きていた。
第3シーズンの最後の一ページを書くとき、自分がどんな気持ちになるのかまで想像したことがあった。
それなのに……。
第2シーズンを始めることすらできない。
「……考え直してもらえる可能性は、ありませんか?」
ようやくそう尋ねた。
星野は静かに首を横に振った。
「継続できないか、私からも話してみた」
頼人が顔を上げる。
「本当ですか?」
「ああ。まだ重要な展開が残っていることも、君が修正を進めていることも説明した」
「それなら……」
「説得できなかった」
浮かびかけた希望が、すぐに消えていった。
星野は机の上で両手を組んだ。
「『Doppelganger』が悪い作品だという意味ではない」
頼人は答えなかった。
「だが出版社も企業だ。作品を続けるには、それを正当化できるだけの成果が必要になる」
「……はい」
「今回は、これ以上シリーズに投資するつもりはないそうだ」
数秒間、二人とも口を開かなかった。
廊下から、プリンターの音がかすかに聞こえてきた。
頼人は原稿を見つめた。
きれいに並べられたページ。
一枚目の角には、今朝落としたときについたらしい小さな傷があった。
昨夜は、ほとんど一晩かけてその章を修正していた。
それなのに、もう誰も使わない。
「それじゃあ……」
小さくつぶやく。
「この原稿は、どうすればいいんですか?」
星野もその視線を追った。
「取っておきなさい」
頼人はゆっくり顔を上げる。
「え?」
「君が書いたものだ。出版しないからといって、捨てる必要はない」
頼人は原稿を見つめた。
「……そうですね」
彼は紙をファイルに戻し始めた。
一枚ずつ。
一枚ずつ。
今度は、急ぐ理由などなかった。
星野は、頼人が原稿をすべて片づけ終えるまで待っていた。
「月森」
「はい?」
「実は、もう一つ話しておかなければならないことがある」
頼人の胃が、きゅっと縮こまった気がした。
……まだあるのか?
これ以上、何があるっていうんだ?
椅子でも取り上げられるのか?
会社のボールペンも返さなきゃいけないのか?
頼むから、それだけは勘弁してほしい。あのボールペン、すごく書きやすいんだ。
「経営陣は、君自身の作家としての状況についても懸念している」
ああ。
もっと悪い話だった。
頼人は平静を装おうとした。
「……わかっています」
「ここ最近の作品も、期待したような反響を得られていない」
「はい……」
「この状態をいつまでも続けるわけにはいかない。それは君も理解しているだろう?」
頼人はうなずいた。
こうした話を聞くのは、初めてではなかった。
自分の小説が期待どおりの成果を出せていないことは、以前からわかっていた。
少数の読者から好意的な感想をもらえた作品もあった。
一方で、ほとんど誰にも注目されなかった作品もある。
それでも書くことは好きだった。
ただ、期待外れの結果が積み重なるたび、自分の物語を信じることが少しずつ難しくなっていた。
「それはつまり……」
言いかけて、続きを口にできなかった。
しかし、星野には十分伝わったらしい。
「まだだ」
頼人は顔を上げる。
「……え?」
「君に、もう一度だけチャンスを与えてもらえるよう掛け合った」
頼人は何も言えなかった。
「新しい企画を準備してほしい。今までとは違う、商業的な可能性を持った作品だ。経営陣に提出できるものを考えてくれ」
「まったく新しい小説、ですか?」
「ああ」
「でも……」
頼人は青いファイルに目を向けた。
「今まで書いていた作品が、ついさっき終わってしまったばかりなんです」
「わかっている」
「ほかに準備している作品なんてありません」
「今日中に用意しろと言っているわけじゃない」
星野は机の引き出しを開け、一冊のノートを取り出した。
「まずは、いくつかアイデアを考えてみなさい。数週間後に最初の企画案を確認しよう。その中から、どれに可能性があるかを検討する」
頼人は真剣に耳を傾けた。
「その後も進捗を確認しながら進めていく。一晩で小説を一冊完成させろなんて言わないさ」
「なるほど……」
「ただし、本気で取り組んでほしい」
頼人は背筋を伸ばした。
「もちろんです!」
星野はしばらく彼を見つめた。
「月森」
「はい!」
「それから、たまにはちゃんと寝なさい」
頼人は固まった。
「……え?」
「目の下のクマがひどいぞ」
「…………」
なんでみんな僕のクマの話ばっかりするんだ!?
星野はため息をついた。
「一晩で三話も書こうとして、体を壊してほしくないんだ」
「いえ、何日かに分けて書いたんですけど……」
「昨日は何時間寝た?」
頼人は目をそらした。
沈黙。
「月森」
「……二時間半です」
星野は目を閉じた。
「まったく……」
頼人は椅子に少し沈み込んだ。
「森崎さんにも同じことを言われました……」
「だったら彼女の言うことを聞きなさい」
会議が始まって以来、頼人は初めて少しだけ笑うことができた。
星野の表情もわずかに和らぐ。
しかし、すぐに真剣な顔へと戻った。
「よく聞いてくれ。この新しい作品が成功するとは約束できない」
「わかっています」
「それに、今回も経営陣を納得させられなければ、もう一度チャンスをもらえる保証もない」
頼人はうなずいた。
「だが、私はまだ君ならいい作品を書けると信じている」
その言葉に、頼人は顔を上げた。
「……本当ですか?」
「そうでなければ、君を残してもらえるよう交渉したりはしないさ」
頼人は返す言葉を見つけられなかった。
「君にはいいアイデアがある、月森。必要なのは、それをもっと多くの読者の心に届く物語へと育てることだ」
星野は青いファイルを指さした。
「『Doppelganger』は、我々が期待した結果を出せなかった。それは事実だ」
頼人はわずかに視線を落とした。
「だが、次の作品まで失敗すると決まったわけじゃない」
しばらく、頼人は黙っていた。
それから膝の上で両手をぎゅっと握りしめる。
「……やってみます」
星野はうなずいた。
「期待しているよ」
「必ず、いい作品を考えます」
「約束は必要ない」
編集者は再び眼鏡を手に取った。
「書いて、見せてくれ」
頼人が執務室を出たとき、出版社の中は先ほどと何一つ変わっていなかった。
電話は鳴り続けていた。
プリンターは動き続けていた。
誰かが締め切りについて話している。
二人の社員が、新しい出版企画について話しながら横を通り過ぎていった。
自分の世界が大きく変わってしまったことに、誰も気づいていないようだった。
……まあ、そうだよな。
頼人はゆっくりと自分のデスクへ向かう。
ほかの人たちからすれば、小説が一つ打ち切りになっただけなんだから。
腕に抱えたファイルを見下ろす。
でも、僕にとっては……。
その先は考えられなかった。
「月森くん?」
顔を上げる。
紗由奈が近くのデスクで資料を確認していた。
彼に気づくと、手を止める。
「もう終わったの?」
「あ……はい」
「どうだった?」
頼人は笑おうとした。
あまりうまくいかなかった。
紗由奈はしばらく彼を見つめた。
「……何かあった?」
「ええと……」
頼人はファイルに目を落とす。
「『Doppelganger』が打ち切りになりました」
紗由奈は目を瞬かせた。
「……え?」
「経営陣が、第2シーズンは続けないって決めたそうです」
彼女は言葉を失った。
「でも……新しい原稿、完成させたんじゃ……?」
「はい」
頼人はファイルを少し持ち上げた。
「ここにあります」
紗由奈はその書類を見つめた。
ほんの数時間前、彼が床に散らばった原稿を必死に拾い集めていた姿を見ていた。
修正した箇所について、嬉しそうに語る彼の話を聞いていた。
そして今、頼人はまったく同じ原稿を抱えたまま、目の前に立っている。
「……残念だったね、月森くん」
頼人は小さく首を横に振った。
「大丈夫ですよ」
紗由奈は少し眉をひそめた。
「無理してそう言わなくてもいいんだよ」
頼人は顔を上げる。
「え?」
「どれだけあの作品を頑張って書いてたか、知ってるから」
頼人は黙ったままだった。
紗由奈は続ける。
「落ち込むのは、当たり前だと思う」
頼人はもう一度ファイルを見た。
それから、小さく笑った。
「……そうかもしれませんね」
数秒間、二人とも何も言わなかった。
やがて、紗由奈が尋ねた。
「これから、どうするの?」
「星野さんが、もう一度チャンスをもらえるようにしてくれました」
「本当に?」
「はい。新しい作品を考えないといけないんです。経営陣を納得させられるようなものを」
「じゃあ、まだ書き続けられるんだね」
頼人は弱々しく笑った。
「そうみたいです」
「何かアイデアはあるの?」
「一つもありません」
紗由奈は目を瞬かせた。
「……一つも?」
「ゼロです」
「ええと……」
「頭の中が完全に空っぽです」
「大げさだよ」
「さっき物語を考えようとしたら、頭の中で反響音が聞こえた気がしました」
紗由奈が吹き出した。
頼人は頭をかいた。
「正直、これからどうすればいいのか、まだわからないんです」
彼女は少し穏やかな表情になった。
「だったら、まずはちゃんと休んだら?」
「森崎さんまで!?」
「え?」
「星野さんにも寝ろって言われたんです!」
「だって、寝ないとだめでしょ」
「みんなで僕を追い詰めようとしてません!?」
紗由奈はまた笑い始めた。
その笑顔につられて、頼人もほんの少しだけ会議のことを忘れられた。
それから、紗由奈はファイルを指さした。
「次に書く作品、読ませてもらえるのを楽しみにしてるね」
頼人は顔を上げた。
「……本当ですか?」
「もちろん」
「でも、どんな話になるかすらわからないんですよ?」
「じゃあ、楽しみに待ってる」
頼人は数秒間、何も言わなかった。
そして、ようやく笑顔を浮かべた。
今度は無理に作ったものではなかった。
「ありがとうございます、森崎さん」
「どういたしまして、月森くん」
そのとき、別のデスクから紗由奈を呼ぶ声がした。
新刊に関する資料を確認してほしいという社員の声だった。
彼女はすぐに行くと答え、もう一度頼人を見た。
「じゃあ、またあとで」
「はい」
紗由奈は仕事へ戻っていった。
頼人は廊下に少しの間立ち尽くした。
ファイルを見る。
新しい物語、か……。
ため息をつく。
そんな簡単に思いついたら苦労しないんだけどな。
その日の午後、頼人はいつもより少し早くアパートへ帰った。
空は徐々に暗くなり始め、街には仕事帰りの人々があふれていた。
帰り道、彼はいくつもの物語を考えようとした。
冒険小説。
ミステリー。
SF。
恋愛コメディを書いてみることさえ考えた。
そのアイデアは、およそ十秒で消えた。
……恋愛コメディ?
二人の登場人物がお互いに告白する場面を想像する。
店員さんが飲み物を間違えたときですら、交換してほしいって言い出せない僕が?
即座に却下した。
ようやくアパートに到着すると、靴を脱いで鞄を玄関のそばに置いた。
「ただいまー……」
返事はなかった。
当然だ。
一人暮らしなのだから。
部屋は狭く、お世辞にも片づいているとは言えなかった。
部屋の隅には、小説や漫画がぎっしり並んだ本棚。
窓際には、パソコンやノート、何本ものボールペンが置かれた机。
椅子の上には脱いだ服が何枚か放置されていた。
空っぽのマグカップにいたっては、本人が認めたくないほど長い間、同じ場所に置かれている。
頼人は部屋を見回した。
「……掃除しないとな」
机を見る。
「明日でいいか」
四日前から繰り返している約束だった。
青いファイルを机の上に置き、台所へ向かう。
簡単な夕食を作った。
料理をする気力はあまりなかったが、出前を頼んでお金を使うのも気が進まなかった。
食事の準備を待つ間、スマートフォンを確認する。
小説投稿アプリからの通知がいくつか。
仕事に関するメッセージ。
そして、ほかの作家たちが新しいエピソードの公開を知らせる投稿。
その中の一つに、頼人は目を留めた。
ある作家が、多くの読者を獲得したことを喜んでいる投稿だった。
コメント欄には、たくさんの祝福の言葉が並んでいた。
頼人は小さく笑った。
「……すごいな」
胸の奥に、少しだけ嫉妬のようなものが生まれた。
別に、その作家に失敗してほしいわけではない。
ただ、自分もいつか、同じ気持ちを味わってみたかった。
次の話を楽しみに待ってくれる読者がいること。
自分の登場人物に夢中になってくれる人たちから、コメントが届くこと。
自分が書いた物語を、誰かが本当に大切に思ってくれること。
スマートフォンを置いた。
いつか……。
その言葉は、ほとんど無意識に頭の中に浮かんだ。
けれど今回は、いつもほど信じられなかった。
夕食を終えると、頼人はパソコンの前に座った。
画面の明かりが彼の顔を照らす。
フォルダを開いた。
『執筆プロジェクト』
中には、たくさんのファイルが並んでいた。
完成しなかったアイデア。
物語の主人公になる機会を与えられなかったキャラクターたち。
ストーリーの構成案。
途中で放置された原稿。
そして、特別な場所を占めている一つのフォルダ。
『DOPPELGANGER』
頼人はそれを開いた。
第1シーズンの原稿。
登場人物に関するメモ。
そして、残り二シーズンのために用意していた数々のファイル。
じっと見つめる。
この物語を書き始めたときのことを、今でもはっきり覚えていた。
世界観を想像したときの興奮。
一日中、展開を考えていた午後。
眠ろうとした瞬間、難しい場面の解決策が突然思い浮かんだ夜。
第1シーズンを書き終えたときの達成感も覚えている。
作家として、大きな一歩を踏み出せたような気がした。
それなのに今、目の前にあるのは、もう続きが書かれることのない物語だった。
第2シーズンの原稿を開く。
最初の数行を読む。
そのまま何ページか先へ進む。
昨夜、修正したばかりの場面があった。
ふさわしい言葉を見つけるため、どれほど長い時間を費やしたことだろう。
頼人はゆっくりと椅子にもたれかかった。
「……もったいないな」
窓の外を見る。
周囲の建物に、少しずつ明かりが灯り始めていた。
三シーズン。
三つも構想していた。
それなのに、第2シーズンにたどり着くことすらできなかった。
文書を閉じた。
しばらく、何も表示されていないデスクトップ画面を見つめる。
それから、新しい文書を開いた。
『無題のドキュメント』
カーソルが点滅し始めた。
頼人はキーボードに両手を置く。
よし。
新しい物語だ。
待つ。
商業的な可能性がある作品。
カーソルは点滅し続ける。
アクション小説なんてどうだろう。
沈黙。
魅力的な主人公。面白い世界観。最初から読者を引きつける展開……。
数秒が過ぎた。
一分が過ぎた。
頼人は一つの単語を入力した。
消した。
別の単語を書いた。
それも消した。
最後に、大きなため息をついた。
「……何も思いつかない」
椅子の背にもたれる。
天井を見上げた。
星野との会話がよみがえる。
真剣な編集者の表情。
期待に届かなかった売り上げ。
打ち切りの決定。
そして、今も頭の中で響き続けている言葉。
最後のチャンス。
頼人はゆっくりと青いファイルに顔を向けた。
まだ机の上に置かれていた。
今朝、家を出たときは『Doppelganger』を救えると信じていた。
電車に乗り遅れまいと走った。
受付の前で原稿を落とした。
紗由奈が一緒に拾ってくれた。
新しい原稿を読んだ星野がどんな顔をするのか、楽しみにしていた。
それなのに今、あの原稿は朝と同じ場所に戻ってきている。
自分の机の上。
何の役にも立てないまま。
頼人は手を伸ばし、ファイルに触れた。
開かなかった。
「……頑張ったんだけどな」
その声は、ほとんどささやきだった。
星野に怒っているわけではなかった。
編集者が自分を助けようとしてくれたことは、わかっている。
経営陣だけを責めることもできなかった。
出版社が本を売らなければならないことくらい、理解していた。
何よりつらかったのは、もっと単純な考えだった。
もしかすると、自分の物語は、自分が思っているほど面白くないのかもしれない。
自分が想像した登場人物たちは、ほかの誰の心にも響かないのかもしれない。
何年もの間、そもそも才能の足りない夢を追いかけていただけなのかもしれない。
頼人は目を閉じた。
「……僕には、もう向いてないのかな」
アパートは静まり返っていた。
返事はなかった。
聞こえてくるのは、遠くを走る車の音と、パソコンが立てるかすかな動作音だけ。
頼人は目を開いた。
最後にもう一度、画面を見つめる。
新しい文書には、まだ何も書かれていなかった。
パソコンの電源を切った。
それから立ち上がり、寝室へ向かった。
その夜、彼は一文字も書かなかった。
そして、作家になろうと決めたあの日から初めて、月森頼人は、自分がずっと追い続けてきた唯一の夢を失いかけているのではないかと、考え始めたのだった。




