第二話「お返しの時間」
朝の光が、いつもより淡く、トゥルーグレーのカーテン越しに静かに差し込んでいる。
冬の朝は騒音があまりない。起きるときは、いつも清々しい気持ちだ。
そんな中、頬をなでる空気が、いつもより澄んで冷たくなっていることに気づき、僕はゆっくりと瞼を持ち上げた。そこには、朝の光に透けるような、淡い白雪の気配があった。
「おはようございます……旦那様……もう朝ですよ……」
囁くような声が、耳元に落ちる。
寝ぼけた意識の中で、その声が誰のものかを理解するより早く、頬に冷たい空気が触れた。
目を開けると、そこには、布団の端からひょっこりと顔を覗かせた、れいかさんが居た。
長い黒髪を肩に流し、コットンのフランネルの寝間着に身を包んでいる彼女は、まるで朝の雪そのもののようだった。
吐く息は薄く白く、室内に小さな霧を作っている。
「おはよう……」
そう声をかけると、れいかさんはほっとしたように微笑んだ。
「れいかさん……どうしたのこんな早起きをして……」
そう言いながら、彼女は少しだけ僕の布団の端をつまむ。
指先は相変わらず冷たいが、不思議と目覚めるにはちょうどいい。
「早起きして、旦那様の朝ごはんを作っていました。」
その声は少しだけ弱々しく、どこか気を張っているようにも聞こえた。
「至れり尽くせりですね…ありがとうございます。」
よく見ると、彼女の頬はほんのり白く、少し眠そうだ。
「……ちゃんと、眠れた?」
僕がそう尋ねると、れいかさんは一瞬だけ視線を逸らし、それから小さく頷いた。
「はい……少しだけ」
「本当に…?」
「でも…朝苦手なのにどうやって早起きしたの?」
僕が問いかけると、れいかさんは少しだけ誇らしげに、けれどどこかいたずらっぽく目を細めた。
「ふふ……。夜ふかしをすれば、寝坊する心配もありませんから。問題ないです」
そう言って胸を張る彼女だが、その瞳は少しだけとろんとしている。
「……れいかさん、それは早起きとは言わないんじゃ……」
ジト目な視線に、彼女は「あっ」と小さく口を開け、それから顔を赤らめてそっぽを向いた。
「いいんです。旦那様のために、温かいスープを作ると決めていたのですから」
彼女はそのまま、ふらふらとした足取りでキッチンへと戻っていく。
その背中を追ってリビングへ入ると、コンロからは既に、もうもうと白い湯気が立ち昇っていた。
「今日は、お味噌汁にしたんですよ……。旦那様が、温かくなるように」
「それと、ご飯と漬物も用意したんです。」
彼女は少しだけ胸を張り、えっへん、と誇らしげに口角を上げた。
お玉を片手に持ち、エプロンを着用した彼女の姿に僕は心を打たれてしまった。
「本当は、寝ている旦那様が可愛かったので、チューをしようかと思っていたのですが…旦那様が起きてしまったので、それは叶わぬ願いとなってしまいました」
残念そうな顔をしている彼女に仕返しをしようと、決断し「れいかさん。じゃあ、代わりにおはようのチューでもする?」
僕が冗談めかして笑いながら言うと、れいかさんはその場に固まった。
れいかさんはその言葉を聞いた瞬間に、持っていたお玉を落としそうになるほど激しく動揺した。真っ赤になった顔を隠すように両手で覆い、指の隙間からこちらを上目遣いで盗み見てくる。
ただでさえ寝不足とコンロの火で火照っていた彼女の顔は、一瞬で耳の裏まで真っ赤に染まり、本当にお玉を持ったまま頭からしゅぅぅ……と冷たい蒸気が立ち昇ったほどだ。
「なっ……ななな、何を、仰るのですか旦那様っ! そのような、不埒な……///」「ふふっ」
慌てて手を振る彼女が可笑しくて笑ってしまった。
「旦那様、笑うなんて……。酷いです」
彼女は拗ねた顔をし、僕の膝の上に頭を置いた。「これは、罰です。私は旦那様のせいで、少しだけのぼせてしまいましたから……」
冗談めかして言った彼女だったが、その頬は確かに、コンロの熱と照れで桜色に染まっていた。僕は彼女の熱を冷ますように、ひんやりとした彼女の髪をそっと撫でた。
「ごめんね。れいかさんが可愛かったからつい、意地悪をしちゃった。……ほら、せっかく作ってくれた朝ごはん、冷めないうちに一緒に食べよう」
僕がそう言うと、れいかさんは「……そうですね」とはにかみ、名残惜しそうに僕の膝から頭を上げた。
食卓には、湯気を立てるお味噌汁、炊きたてのご飯、そして彩りの良いお漬物が並んでいた。
雪女である彼女にとって、火を使う料理は決して楽なことではないはずだ。それでも、僕のために「温かいもの」を用意してくれたその真心が、何よりも嬉しい。
「いただきます」
僕がお箸をつけ、お味噌汁を一口啜ると、丁寧に引かれた出汁の香りが、湯気とともに鼻をくすぐった。一口啜れば、凍えていた身体の芯が、春の雪解けのようにじんわりと解れていくのがわかった。
「……美味しい。すごく温まるよ、れいかさん」
僕がそう伝えると、れいかさんはぱぁっと表情を明るくした。
「本当ですか…?それは良かったです。頑張った甲斐がありました。」
「れいかさんが作ってくれた、お味噌汁は、本当に最高だよ。でも、無理して頑張らなくても大丈夫だよ…。」
「ふふっ、旦那様の『美味しい』が聞けるなら、私はいくらでも頑張れます」
彼女はそう言って、熱いものを避け、少し冷ましたお漬物を幸せそうに口に運んだ。
外ではしんしんと雪が降り続け、窓の外の世界を白く染めていく。
けれど、この小さな食卓だけは、湯気と二人の笑顔に包まれて、春のような温かさに満ちていた。
「ねえ、れいかさん」
「はい、旦那様?」
「食べ終わったら、お昼寝をしよっか。」
僕が提案すると、れいかさんは一瞬驚いたように目を見開き、それから愛おしそうに目を細めた。
「……はい。喜んで。旦那様の隣なら、きっといい夢が見られそうです」
冬の静かな朝。
僕たちはゆっくりと時間をかけて、二人だけの幸せな朝食を完食した。
食後、食器を片付けようと立ち上がろうとした僕の裾を、れいかさんがそっと指先で引いた。
「旦那様、……片付けは、私がやりますから」
その瞳には、まだ少しだけ「夜ふかし」の余韻である眠気が滲んでいる。
僕は笑って彼女の手を優しく握ると、そのままリビングのソファへと促した。
「いいよ、後で二人でやろう。今は、ゆっくり休むことが大切だよ」
ソファに並んで腰を下ろすと、れいかさんは待っていましたと言わんばかりに、僕の腕に身体を預けてきた。
彼女の体温は、食事の熱から解放されて、僕の大好きなひんやりとした心地よさに戻っている。
窓の外は、いつの間にか雪が勢いを増していた。
世界が白く塗りつぶされていく光景はどこか幻想的で、まるでこの家だけが時間の流れから切り離された空間のように感じられる。
「旦那様……」
「ん?」
「私、……とっても幸せです。夜ふかしは少し疲れましたけれど、こうして旦那様と一緒にいられることが嬉しくて、胸が温かくなります」
「れいかさん……僕も、すごく幸せだよ」
僕は彼女の肩を抱き寄せ、開いたままだった毛布を二人の上に掛けた。
彼女は僕の胸元に顔を埋め、深く、深い安堵の吐息を漏らす。その吐息は、冬の朝の冷気に触れて、小さな雪の結晶のように白く煌めいた。
薪が爆ぜる音も、時計の針の音も、今の僕たちには心地よい子守唄でしかない。
やがて、彼女の規則正しい寝息が胸に伝わってきた。
僕もまた、彼女の髪から漂う冬の澄んだ香りに包まれながら、ゆっくりと意識を微睡みの中へと預けていく。
お味噌汁の余韻と、彼女の冷たさ。
矛盾しているようで、これ以上なく調和したひととき。
僕たちは重なり合うようにして、冬の深い眠りへと落ちていった。




