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第一話「氷倖の雪女」

あの日、思いがけない出会いが、僕の人生を雪のように静かに変えた。

そうして、僕たちは夫婦になった。

僕の妻──れいかさんは、"雪女"だったのです。

そんな今、僕は街に買い物に出て、帰る途中にいる。

「ふっ……冷えるな」

そんなことを呟き、吐いた息が白く揺らめいて立ち昇った。

空気が澄んでいて、すぐに凍りつくような冷たさが頬を刺す。

今日は一段と冷える。もう冬が来たのだと、息を吐いた瞬間に骨の髄まで染みて実感した。

肩をすくめながらレンガ造りの街並みを歩き、家へ向かった。

やがて歩いていくうちに、視界の先に、我が家が見えてきた。

赤茶けた古いレンガの外壁に、蔦が這い、処々から小さな葉が生い茂っている。

そんな家は、人によっては“ぼろ屋”とも呼ぶかもしれないが、僕はこの家を案外気に入っている。

人通りが少なく、雪の降る音さえ聞こえそうなほどに、ひっそりと佇んでいる。

僕は愛着のあるその重い扉に手をかけ、鍵を回した。ギィィィ…と音を立ててドアを開けた。

「お帰りなさいませ、旦那様」

玄関の向こうから、氷の鈴を思わせる透き通った声が降りてきた。

その声を聞くだけで、僕は心が幸福で満たされた。

れいかさんはいつものように玄関先まで来て出迎えてくれた。

長い黒髪がさらりと流れ、雪よりも白い肌が仄かに灯りを反射している。吐く息さえ、淡く冷たい。

「外は寒かったでしょう? 今日は雪が降るかもしれないそうです」

そう言うれいかさんは、僕の腕にそっと触れ、心配そうに顔を覗き込んできた。

「旦那様、お体が震えていますよ」

れいかさんは、心配そうに僕の袖口へそっと手を添えた。

彼女の指先はひんやりとしているはずなのに、不思議と嫌な冷たさではない。

むしろ、落ち着くような心地よさがあった。

「ちょっと外が寒かっただけだから、大丈夫だよ」

僕が笑ってみせると、れいかさんは小さく首を振った。

「いけません、旦那様。人間は冷えやすいんですよ。すぐお茶を淹れますね」

そう言って、れいかさんはふわりと踵を返し、歩いて台所へ向かう。

その足元には、淡い雪の結晶がほどけるような冷気が音もなく這い広がった。

家の中が少しひんやりするのは、いつしか僕の日常の一部になっていた。

僕は買ってきた袋を置き、コートを脱ぎながらリビングへ足を踏み入れた。

小さな暖炉の中で、薪の爆ぜる音が、静かなリビングの輪郭を象っている。

それでも──彼女が近くにいると、部屋の温度は少し下がる。

そんな環境にすっかり慣れてしまった自分に、思わず笑いがこみ上げる。

やがて、れいかさんが湯気の立つ湯飲みを持って戻ってきた。

「どうぞ、旦那様。温まってください」

差し出された湯飲みを両手で受け取る。

僕は暖炉の近くのソファに座り、れいかさんから受け取った湯飲みを口に運んだ。

「れいかさんも座って」

「はい。では……///」

れいかさんは僕の隣に、静かに腰を下ろした。

彼女が差し出した湯飲みから立ち昇るはずの湯気が、彼女の手元で一瞬だけ白く凍り、結晶のように散った。

彼女が隣に座ると、暖炉の炎が吸い込まれるように小さく震え、部屋の隅の窓ガラスがパキッと音を立てて凍りついた。

やがて、れいかさんは頬を赤らめ、少々照れながら僕の肩に頭を乗せた。

れいかさんの頭が僕の肩にそっと寄りかかり、ひんやりとした絹のような黒髪が僕の首筋を撫でた。

けれど、その冷たさすら心地よくて、僕はそっと肩を動かさないように姿勢を整えた。

暖炉の炎がぱちりと弾ける音だけが、静かなリビングに響いていた・・・

「……大丈夫ですか? 冷たく、ないですか?」

れいかさんが、不安げに小さな声で尋ねてくる。

そのあまりの愛らしさに、僕は吐息をつくしかなかった。

「大丈夫だよ。むしろ落ち着くくらい」

そう答えると、れいかさんはほっとしたように微笑んだ。

僕は飲み干した湯飲みをそっとローテーブルに置くと、空いた手で彼女の肩を優しく抱き寄せた。

「……旦那様。私、冷たいですから」 れいかさんが、僕の胸元に顔をうずめるようにしながら、遠慮がちに呟く。

彼女の吐息は、暖炉の暖かさの中にあってさえ、ほんのりと白い。

「うん。そうだね・・・」

「でも、れいかさんの冷たさは、僕にとっては不思議と心地いいんだ。」

抱き寄せた彼女の体は確かにひんやりとしている。

けれど、それはまるで火照った体を鎮める清流の水のように、僕の心を静かに落ち着かせてくれるようだった。

言った瞬間、れいかさんの肩がふるりと震えた。

振り向くと、頬が赤い。

けれど、それは暖炉の温かさで赤くなっているのではなく、照れで染まっているのがわかった。

「そのようなお言葉を言ってくださり、私は嬉しいです・・・///」

声が小さくなり、まるで雪が溶けるように消えていく。

僕のセーターの裾をぎゅっと掴んだ。 僕を温めようとしているのか、それとも甘えているのか。

どちらにしても、胸の奥が締め付けられるような、幸福な痛みが走った。

しばらく、二人で静かに時間を過ごした。

ぱち、ぱち、と薪が爆ぜる音が心地よい。

「あ……」 れいかさんが、ふと顔を上げて窓の外を見た。

釣られて視線を向けると、窓ガラスの向こうに、レンガ造りの街並みに、白いものが静かに舞い落ち始めているのが見えた。

「雪だ」

「はい。……降って来ましたね」

れいかさんが嬉しそうに、けれど静かにそう言った。

その表情を見る限り、彼女はきっと雪が好きなのだろう。

外の世界では、妻のように白く深い凍てつく寒さに満ちている。

けれど、この家の中だけは違った。

僕の隣で安心したように目を細める、雪女の妻。

ぱちぱちと燃える暖炉の炎。僕たちの時間は静かに、唯々静かに流れていく。

れいかさんはしばらく僕に身を寄せたまま、まるで夢見るような表情で炎を眺めている。

やがて、ふわりと息が漏れた。

「……少し、頭が……くらくらします……」

「えっ、大丈夫!? もしかして具合悪い?」

倒れ込む肩を咄嗟に支えると、彼女は申し訳なさそうに弱々しく眉尻を下げた。

「すみません…」

無理に笑おうとする彼女の姿に胸が痛む。

「無理しないで。横になろう。ほら、手を握って…」

僕が手を差し伸べると、れいかさんは小さく頷き、弱々しく僕の手を握った。

その手はやはり冷えていて、まるで薄氷のように頼りなかった。

ゆっくりと僕の膝に横にならせ、毛布を掛ける。

れいかさんは目を閉じ、浅く呼吸を整えながら、僕の手を離さなかった。

「……旦那様」

「うん?」

「ずっと…いてくれますか……?」

その声は、雪の結晶が触れた瞬間のように儚く震えていた。

「もちろんだよ。どこにも行かない」

僕が手を優しく包み込むと、れいかさんは安堵したようにまぶたをゆっくり閉じた。

静かな呼吸が、冬の家の中に溶けていく。

彼女はほんの少しだけ身を丸め、まるで寒さから身を守る小さな雪兎のようだった。

その姿を見ているだけで、どうしようもなく愛おしいと思う。

そして同時に、こんなにも細い体で彼女はいつも僕を気遣ってくれているのだと思うと、胸がきゅっと締めつけられた。

──この人を、守りたい。

心の奥底から自然とそう思った。

暖炉の火は静かに揺らめき、

外では、いつの間にか小さな雪が降り始めていた。

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