2話 黒い白百合
屋敷に連れ戻されてから数週間が過ぎた日のこと、ハンクのもとにやって来たのは一人の紳士だった。
フローレンス・ナイチンゲールの叔父だと名乗った彼は小さな荷物を差し出し、彼女からの届け物ですとだけ告げるとお辞儀をして去っていった。
戸惑う両親に見守られながら同じ気持ちのハンクが包みを裂くと、ベルベットで装飾された美しい化粧箱が現れた。
その上に置かれた封筒に綴られている「ミス・スミスへ」という几帳面な文字を目にした途端、ハンクは急いで封蝋を剥ぎ、間違いなく直筆であるフローレンスの文字に目を走らせる。
修正なく書き込まれた彼女の手紙には、思いもよらないことが記されていた。
「親愛なるサマンサへ。
この手紙を見ているという事は、
無事イギリスへと戻り家にも帰っている事でしょう。
私は今、砂糖漬けになったリタの遺品を前に手紙を書いています。
あなたはこの遺品を病院の為に使って欲しいと言っていましたが、
私はそれが一番有意義であるとは思いません。
あなたとリタは血を分けた姉妹のように強い繋がりを持っていたのですから、
この『遺品』と、
これから生み出される『彼女』は、
私が持つよりもあなたが持つべきであると確信しています。
どうか、後を頼みます。
一八五五年一月九日
フローレンス・ナイチンゲールより」
半年近くも前に書かれた便箋を傍らに置き、ハンクはゆっくりと上等な手触りのする化粧箱を開いてみた。
するとそこには、大振りだが品のあるブローチが定置されていた。
黒玉と紅琥珀を交互に配した滑らかな縁飾りの中には大きなカボション・カットの水晶が艶めき、その下に封じられた黒いマドンナ・リリーは背面の輝く蜜色に映えて美しく咲き誇っていた。
ハンクがブローチを手に取りよく眺めてみると、その百合の花は何かの繊維で細工されているようだった。
あまりの見事さに息を飲むハンクの隣で、母親が驚きの声を上げる。
「まぁ、これは立派なヘア・ジュエリーね!
こんなに美しくて素晴らしいモーニング・ジュエリー、
フランスでも見た事ないわ!」
疑問符を貼り付けて母親を眺めるハンクに、彼女は黒い百合を指差し言葉を続けた。
「この黒く作られたマドンナ・リリーは、ブルネットの毛髪よ。
白百合をあえて黒い毛髪で描き出すなんて素敵だし、
背面の蜜色をした琥珀もいいわ。
そして何よりこのブローチからは、喪に服す静寂が感じられるわね。
モーニング・ジュエリーは故人を偲ぶために作られた、特別なジュエリーなの」
ハンクにはこの黒い白百合の花が、リタの遺髪で作られていることがすぐに理解できた。
なぜならその百合からは、恵まれない環境で汚されながらも本来の素晴らしさを失わずに咲き誇った彼女の存在がありありと見て取れたからである。
その日からハンクは毎日、首に巻くクラバットをリタのブローチで留め、喪に服しながら普段の生活を過ごしていた。
簡素に書かれたフローレンスの手紙だけではリタという人物の素性が判らなかった両親は、何も語ろうとはしない息子に何気なさを装ってはほぼ毎日『リタ』のことを訊ねていた。
別段身構えた風もなく落ち着いた口調でほんの少しずつ彼女のことを話すハンクは、両親から聞かれた分だけしか答えなかった。
その様子からうっすらと滲む悲しみの翳りを感じた両親は、看護婦である彼女がどれほど息子を助けてくれたかということと、政治的な衝突によってその前途ある命を失ったのだということを、数ヶ月かけて知ることになった。
彼女の不憫さに心を痛めたオーベルトが、ある日のティータイムに「我々から何かできないだろうか」と訊ねてみると、ハンクは首を振ってから「費用も責任も自分が持つので、彼女の墓を教会に建てることを許して欲しい」と申し返して来た。
まさかそんな言葉が返って来るとは思っていなかったとばかりに狼狽する両親に、ハンクはすぐ微笑んで「そうですよね、すいません」と言ってからティーカップを傾けた。
しかしその瞳には、ありありと失意する深い悲しみが暗い闇となって滲み上がっていた。
その深い闇は、楽しいクリスマスを迎えても尚、消え去ることがなかった。
息子の深い悲しみが少しでも癒えればと期待した両親は、クリスマスを終えた数日後、送られてきたブローチを棺に入れて埋葬するならリタの墓を立ててもよいと許可を出した。
両親に心から感謝をしたハンクはベルベットの化粧箱の二重底に納められていた甘い香りの「遺品」でリタの名を刻んだ白い墓石と彼女を守る大きな棺を揃え、その中にモーニング・ジュエリーを遺体代わりに安置すると正式な葬儀と埋葬とを立派に執り行ったのであった。
◇
棺を閉じる時にしっかりと目に焼き付けたブローチの、透き通った水晶の中で美しく咲いた黒い白百合を思い出すと、ハンクは今でも胸が熱くなった。
ハンクはリタの墓を見つめ、まるで彼女がそこに眠るかのよう優しく話しかけながらバラを供えると、きれいに整備された芝生の上に小さなシートを敷いて座り込む。
バスケットを広げて楽しげにサンドイッチをつまみ始めた彼は時折笑い声を上げ、もう年下となったリタと二人で気の向くままに語り合っていた。
ハンクの他に誰もいない墓地は、刈り揃えられた芝生の葉先が風に青々となでられる音が聞こえるほどに静寂で、ハンクの笑い声が降りしきる鳥のさえずりに連れられて遥か天へと運ばれていくように感じられた。
一時間ほどリタの墓前で時間を費やしたハンクは、彼女に「また来るよ」と言い残すと馬車へと戻り、御者台で待っていたマッシュキンスに笑顔する。
安らかで慈しみの残るその笑顔を、マッシュキンスが低い声で出迎えた。
「もうよろしいんですか? ぼっちゃん」
「うん、お待たせ。
じゃあ行こうか」
馬車の扉を開けようと身をひねったマッシュキンスを掌で制したハンクは、馬車の座席に空のバスケットを放り込むと、中には入らず扉を閉める。
背中でその音を聞いていたマッシュキンスがさてと手綱に手を掛けた時、ハンクは素早く御者台へと乗り込み、驚いた顔で声を上げる御者の隣に腰を下ろした。
マッシュキンスが、小うるさく太眉を寄せて唸る。
「ぼっちゃん!」
「いいじゃないか、たまには」
その憎めない春風のような笑顔に負け、マッシュキンスはやれやれとうなだれて手綱を引いた。
軽快な蹄の音に合わせ、木漏れ日が踊りながら通り過ぎていく。
それを眺めるハンクの満足そうな横顔に、マッシュキンスは溜め息を吐いた。
「まったく、ぼっちゃんも奇特な方ですよ。
どこの誰ともわからない者の墓を建てるなんて」
「いいじゃないか。
リタは僕にとって、まるで姉さんみたいな、
かけがえのない女性だったんだよ。
だめかい?」
穏やかな笑顔で見つめて来るハンクを、マッシュキンスはちらりと見てから前へと向き直り、彼の愚問に表情を緩める。
「いいえ。
私はそういうぼっちゃんの心根が大好きでございますよ。
家の者も皆ぼっちゃんを尊敬しております。
今やぼっちゃんは、だんな様の御自慢でございます」
子どものころ、父を困らせては怒られるばかりだったことを思えば、随分と成長したものだとハンクは笑った。
マッシュキンスも和やかに笑っていたが、ふと声を落とし、真っ直ぐ続く道の先をじっと見つめる。
「ドルス様がクリミアで亡くなられたのが悔やまれます。
生きていらっしゃれば今頃はきっと……
素晴らしい御兄弟だったでしょうに」
ハンクは、最近めっきりと涙もろくなったマッシュキンスの横顔を眺め、彼の目に涙が走る前にそっと目を逸らす。
「仕方ないよ。
あの戦争は本当に悪夢だったもの。
あそこから無事に帰った僕のほうが奇跡だったんだ」
遠く十数年もの歳月を経て、志半ばで立ち去ってしまったスクタリの地が目の前に広がっていく。
御者台から見渡せる限りあたり一面で伸び競う緑葉が、当時の景色と重なるように揺れていた。
【火葬】
イギリスでは現在、意外にも火葬が主流です。とはいってもそれはここ70年程度のお話で、やはり昔は土葬が主流でした。遺体は復活時に必要であると考えられていますので、焼いてしまっては帰る場所がなくなってしまうのです。
けれども、1944年に英国国教会が火葬を認めたことで、イギリス国内では火葬が多くなっているそうです。




