1話 終戦の後
西暦一八五六年三月三十日フランス。
パリ条約の締結にて、クリミア戦争は終結。
同、四月二十九日、和平宣言締結。
後世、『近代ヨーロッパでもっとも不必要な戦争』と揶揄されることになったクリミア戦争は、何十万人という犠牲者を出したにも関わらず明確な戦勝国の存在がなく、両国の領土を戦前の状態に保全すると合意をしただけの結末に終わった。
◇
それから十六年後の、一八七二年七月。
雨に冷やされたハイドランジアが天使の梯子に背伸びをする早朝、イギリス南部にあるオーベルト家の屋敷では、男らしい目元をきりと引きしめた青年が出発の身支度を整えていた。
ヘリンボーン柄のスリーピース・スーツを凛々しく着こなした彼は、洗練された所作でその襟元を直している。
姿見に映る彼の品良く整髪された麻色の髪が、暗緑のスーツ生地に引き立てられて美しく際立っていた。
サイドボードの上に用意された懐中時計をポケットに収め、その横に並ぶ大小幾つかのフォトフレームに目をやった彼は、並ぶセピア色の笑顔の中から一つのフレームを手に取った。
彫刻に縁取られた写真の中では彼に良く似た軍服姿の、だがずっと幼い若者が胸を張り微笑んでいた。
それを眺める穏やかな横顔に、柔らかな声がのんびりとかけられる。
「あら、ハンクったらもう発つの?
せめて朝食くらい、お上がりなさいな。
今日は遠出なのでしょう?
お腹がすいてしまうわよ」
その声に振り返ったハンクがフレームを置き、いつまでも花のように美しい母親を振り返る。
「ああ母さん、食事ならコックに軽食を頼んだから大丈夫。
馬車の道すがら食べる予定です」
朗らかにそう答えたハンクの耳に、馬車の音が聞こえて来た。
母親は近付いて来る蹄の音に「まったくもう」と言いたげに両眉を上げ、視線の先で嬉しそうな笑顔を見せるハンクにも、諦めの溜め息をこぼす。
「完璧な礼儀に高い教養、端麗な容姿は社交界でも人気の星。
こう非の打ちどころがなくては、ハンクの勝手を止める理由はないものね」
留守にしてばかりの息子を非難する拗ねた母に、ハンクは低く青年らしい声で笑うと、玄関で待つメイドのストレックから山高帽を受け取り外へと歩み出た。
濡れた石畳の上を歩く美しい彼の横顔を見上げた母親は、そこに残る少年の面影に微笑みながら目を細める。
「今日はドルスのお墓へ行くのだったかしら?」
悪戯っぽく聞いてくる母の声に足を止めたハンクは、馬車の前で控えているストレックからバスケットと小ぶりな旅行カバンを受け取り、さっと振り返ってから同じような口調を返した。
「まったく母さんの耳ときたら。
兄さんのところへは、昨日行ったと話しませんでしたか?
今日行くのはロンドンで、帰りは明日になります」
薄曇りの空の下、親子は初夏にほころぶバラのように笑い合った。
厩舎から出て来たコーチマンのマッシュキンスが顔を上げると、その先では馬車の中に荷物を詰め込もうとするハンクの姿があった。
彼は持っていた一本鞭を落としそうになりながら、制止の言葉と共に駆け寄っていく。
「ああ、ぼっちゃん、またそんな事を!
荷物なんぞ私が運びますよ!」
「いいって。
自分の事くらい自分でできるよ。
それにもう三十歳なんだから、いい加減『ぼっちゃん』はやめてくれ」
「いいえ、ぼっちゃんはお幾つになられても『ぼっちゃん』でございます!
御自身が三十歳の紳士であると仰るならば、
荷物は我々に預ける決まりであると御理解なさって下さい!」
マッシュキンスに奪われた荷物が馬車に積まれていく光景を見ながら、ハンクは苦笑の溜め息を吐いた。
「じゃあ母さん、
父さんが帰ったら明日戻ると伝えておいて下さい」
「はいはい、解ったわ。道中気をつけるのよ」
ハンクを乗せた馬車は、色とりどりのバラを横目に眩い光に包まれた庭を通り抜けていく。
彼の傍らには切ったばかりのバラが、花束となって座席で揺れていた。
馬車はしばらく行った街外れの教会前で止まり、バスケットと花束を抱えたハンクの体を吐き出した。
ハンクはきらめく木々の青に目を細めながら、瑞々しい芝生を踏みしめていく。
ほどなく教会裏手の墓地に着き、彼は一際立派な墓の前でバスケットを置いた。
「リタ。来たよ」
それはハンクが十六年前に自ら建てたリタの墓であった。




