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命と戦った女(ひと) フローレンス・ナイチンゲール  作者: ぐろわ姉妹
第8章 死神はついにスクタリを追い出され
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11話 途絶の闇

 青白い光が辺りを照らし始める早朝、病院の裏口では古びた木戸が重々しい軋みと共に押し開かれていた。


扉を開いた男は中で待つフローレンスに書類を渡し、その隣で積み上げられていた小包の山を台車へと運んでいく。


書類にサインをしたフローレンスは積荷を終えた配達員に丁寧な言葉をかけ、船へと向かう郵便物の影を見えなくなるまで見送った。


 そして彼女は紺色に滲む海の先を見据え、未だ恐慌の最中であろう前線地クリミアに危惧の視線を投げ掛けていた。


 ◇


 朝食の準備が進むキッチンで看護方針会合を終えたフローレンスは、解散を告げる前に一息吐き、全看護婦団員に向かって粛々と声を上げた。


「皆さんに二つほど、お話があります」


 彼女たちからの真摯な視線を受け、フローレンスはゆっくりと話を続ける。


「一つは、この病院の死亡率が二パーセントにまで下がった事。

病院で亡くなる伝染病患者はいなくなり、

患者は皆回復への過程を歩めるようになりました。

これはたくさんの方々が行った専門的な働きと、

皆さんの看護によって得られた大変喜ばしい成果です。

この病院が不潔さや混乱、

物資不足や権力の乱用などに脅かされる事はもうないでしょう」


 婦長として吉報を告げるその言葉に、黒衣の集団は嬉しそうに頷き合いフローレンスに向けて熱い拍手を送った。


長く続くそれに片手を挙げ、場を静めたフローレンスが再び話し始める。


「そんななか、私が按ずるのはクリミアの地です。

少し前のスクタリと変わらぬ未だ酷い状態であるバラクラヴァの病院では、

運び込まれた患者たちが毎日死の恐怖に晒されています。

私はこの状態を改善するため、

この病院から何名かを選抜してクリミア半島へ出立しようと考えております。

これが、もう一つのお話です」


 運ばれて来る傷病兵が突然に減少したこの十数日間、前線の戦いはさぞ激しくなっているのだろうと看護兵たちが噂をしていた。


その予想は悪しくも的中し、前線バラクラヴァの病院を壊滅的な状況に突き落としていることが明らかだった。


そしてその過程を経験してきた看護婦団員たちは、看護者としての誇りと使命感を心に燃やし、フローレンスからの指名を静粛な気持ちで待望していた。


  ◇


 患者たちへの昼食配膳を済ませた後、フローレンスは看護婦団の中から特に優秀な数人と料理長のソワイエを連れ、ブレースブリッジ夫妻と共にクリミア行きの蒸気船へと乗り込んだ。


港では彼女を見送ろうとやって来た数十人の患者たちと、数人の医療関係者が遠くなる船に向かって手を振っている。


小さく見えるその様子を、ハンクは看護婦塔の窓から身を乗り出して眺めていた。


 自分が指名されなかった理由を良く理解していた彼は、その多難さに自ら突き進んでいくフローレンスを心配して微力ながら天に祈っていた。


なにせバラクラヴァの病院にはスタンレー女子修道院長の忠実な部下である尼僧長が統率する修道女軍団や、衛生委員団を追うようにしてスクタリを出ていったジョン・ホール軍医長が復讐の機を狙って待っているのだから。


 しかし衛生委員団が直面している妨害行為の改善や、入院している重傷患者の絶望を緩和できるのが自分以外にありえないということも、フローレンスは待ち受ける困難以上に良く理解していた。


 彼女の手によってバラクラヴァの病院が、このスクタリ兵舎病院と同じように救われるよう、ハンクには祈ることしかできないでいた。


  ◇


 だがその出発から十八日後、春の雨が新緑を濡らすスクタリ兵舎病院には、信じられない報せが届いていた。


バラクラヴァに同行したブレースブリッジ夫人の手紙を握ったマーサ・クラフが、四角い顔を震わせて夕食中の看護婦塔に飛び込んで来る。


彼女の酒焼けした鼻さえもが真っ青になっていることに驚いた団員たちは、一体何事かとマーサの表情をうかがった。


彼女は手紙をわなわなと掲げながら一言だけ呟くと、糸が切れたように膝をついた。


「婦長が……、

クリミア熱に倒れた……って」


 椅子を鳴らせた看護婦からどよめきが上がるなか、逸早く飛び出したハンクがマーサの手から手紙を奪い取り文面に目を走らせた。


そこには、非常に容態が悪くて立つことも食べることもできず、うなされながら寝込んでいるというフローレンスの状況が書き記されている。


病状があまりに酷くてスクタリに還すこともできず途方にくれている、そう取り急いで走らせたであろうペンの跡は、まとまりなくそこで終わっていた。


「……そんな、婦長が……。

婦長が倒れたなんて……」


 地響きのように強くなる鼓動が、ハンクの瞳を剥き出させる。


「嘘だーーーっ!」


 切迫したハンクの叫び声に、看護婦たちが悲しみの悲鳴を上げた。


次第に騒がしくなるすすり泣きに嗚咽が混じり始めた頃、涙を堪えたシスター・エリザベスがハンクの肩を抱き、患者のためにも私たちが落ち着かなければと全員を促した。


その言葉に少し冷静さを取り戻したものの、団員たちはフローレンスの身を案じて弱々しく泣き続ける。


 はっと顔を上げたハンクは便箋を手放し、矢のような速さで自身のベッドに駆け寄った。


そしてベッドの下から引きずり出したカバンを開くやいなや、手当たり次第に私物を掴み、乱暴なまでに放り込んでいく。


カバンを閉じるのも心急きながらコートを羽織ったハンクは、ボタンも閉じずに言葉を放った。


「私が様子を見に行きます! 

私が婦長のもとに行く!」


 細い目を吊り上げて扉に先回りしたシスター・バーサが、魔女のような形相でハンクの行く手を遮った。


「いけませんよサム、

あなたを一人でなど行かせられません。

かといって保護者をつける余裕もないの。

これ以上看護婦がいなくなっては、

病院の患者たちがどうなるかくらい解るでしょう!」


 フローレンスがいなくなってからというもの、残された看護婦団員たちは目の回る忙しさに振り回されていた。


充実した看護を行うために奔走する忙しさは彼女たちに心地のよい疲れを与えてはくれたものの、さすがにこれ以上負担が増せば安全面の気配りに支障が出るだろうという不安があった。


 しかしそれを誰よりも心配していたハンクの脳内では、退院後に戦死したユーリアと病に侵されて死んでいったリタの思い出が、猛獣のような鋭い牙と獰猛な爪を唸らせてその感情を引き裂いていく。


 戦慄するハンクの心が、本能に震えながら咆哮した。


「いやだっ行く! 

私に行かせて! 

お願い行かせてぇぇぇーーーっ!」


 狂ったように暴れ回るハンクの体を看護婦たちが数人がかりで取り押さえるが、彼は四肢の動きを封じられても尚、ぎしぎしと前に進もうとしていた。


 彼には、疫病が食べつくしていった患者たちが次々とフローレンスの痩せた体に押し寄せ、彼女の命で生き還ろうと魔物のように折り重なる場面だった。


凛とした彼女の目に宿っていた気高く美しい鷲は、体を毒する高熱に焼かれてその守護を失っていた。


か弱い息を絶え絶えに繰り返すフローレンスの姿に、ハンクは必死になって手を伸ばす。


 例えそれが幻で、この喉を裂く声が届かないと解っていても、

 彼はその叫びを抑えられずに天井を仰いだ。


「みんな、戦争に殺されてしまう! 

あなたは死んじゃだめだ、

戦争なんかで死なないでください、

婦長ーーーっ!!」


 看護婦塔を響き渡った彼の声は、静寂の中にゆっくりと消えていった。

ハンクの耳に、騒ぎを聞きつけて駆ける靴の音が聞こえて来る。


息を荒らげたまま放心するハンクは、ただひたすらにフローレンスの無事を願っていた。


  ◇


 クリミアの天使、フローレンス・ナイチンゲールが病に倒れたというニュースは、すぐにイギリス中を飛び回った。


この知らせに世論が同情して熱狂すると、彼女の友人である前戦時大臣のシドニー・ハーバートが「兵士のために莫大な私財を投げ打った彼女を称えよう」と大衆に向けて声を上げた。


 イギリス国内では、フローレンス女史は国を救った英雄として国民が共有する一大叙事詩であったため、危機に瀕している彼女を励まそうと湧き立った国民たちは実に様々な慰問品や寄付金を手に「ナイチンゲール基金」の創立を求めて国内各地で熱狂したのであった。






【クリミア熱】

 疲れきったフローレンスの侵された病は、クリミア熱とされています。チフスのような症状をおこすこの病は、重症化すれば死ぬことも珍らしくないと言われています。しかし最近の研究でこの病はクリミア熱ではなく、ブルセラメリテンシスという病だったのではないかと論じられているそうです。



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