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11話 激昂

 ハンクは振り返り、驚いた顔でこちらを見つめているフローレンスに向かって低い声を突きつけた。


「婦長にできないなら、

私があいつらをここから追い出します」


 今にも発火せんとする油煙のごときハンクにはっとしたフローレンスが、彼を制そうとその腕を掴む。


しかし彼女の細い指は、熱い油の中に落ちた水一滴の末路のように激しい反応で弾き飛ばされていた。


初めて見るハンクの暴走に、フローレンスが喫驚きっきょうして声を上げる。


「――お止めなさい! サマンサ!」


「婦長の解らず屋っ! 一番大事なのは患者でしょう!!」


 憎悪にも似た強い視線でフローレンスを抑止したハンクは、そう叫び終えるとすぐさまに第二陣を睨みつけた。


そして燃え上がる火柱のように怒りを滾らせると、咆え狂う狼の形相で怒鳴り散らした。


「スタンレー女子修道院長! 

あんたは、第二陣が何一つ満足にできてないって解ってるのか!? 

あんたたちが患者の汚れに触るつもりがないことくらい婦長はお見通しなんだよ! 

だからこんな簡単で綺麗な仕事しかやらせてないんじゃないか! 

それも解らず婦長に対して文句を言うなんて、あんた最低の恥知らずだよ!!」


 ずいずいと威圧めいた態度で歩み寄って来るハンクに対し、首をすくめた春色の軍団は声も出せずに後ずさる。


追い詰められ、震えながらひしめき合う子羊たちの瞳は、牙を剥く狼少女の姿に釘付けられていた。


ハンクは恐ろしがる彼女たちの様子など気にも留めず、連鎖爆発のように叫び続ける。


「あんたたちは、ここで本当の『看護婦』になれると本気で考えてるのか!? 

もしそうなら思い上がりもいいとこだ!! 

自分を看護婦だって言うならなぁ――」


 そう言いながら足元のカゴに手を伸ばしたハンクが、中に入っていた汚れ物のシーツを掴んでは、丸めたそれらを次から次へとレディ目がけて投げつけた。


中に汚れを溜め込んだ不潔な白い塊をぶつけられて泣き喚くレディたちに、ハンクは手ぬるいと言わんばかりに言い放つ。


「これくらい洗ってみせろっ! この役立たず!!」


 冷静な表情で太い眉を寄せたマーサがハンクの横に立ち、前に詰め寄ろうとする少女の胸に片腕を回して押し止める。


 野蛮な小娘を制止したまま無言でそしるような視線を送って来る看護婦と、その後ろで同じ表情の黒衣たち。


それらを素早く見やったスタンレーは、投げ掛けられる誹謗の視線に満面朱を濺ぎ、この侮辱に震えながら叫んだ。


「何をするのあなたたち! 

不躾にもほどがあるわ! 

私たちはカトリックの代表としてここへやって来たのよ! 

暴君のせいで生まれた英国国教会派の信者であろうとも、

私たちは容赦して分け隔てなく助けるつもりで来ているの! 

異端者を赦すこの寛大さがどれほどの兵士を救うか、あなたこそ理解なさい!! 

私たちは熱意を持ち、

心から患者を助けようとしているのですよ!」


「そんな薄っぺらい宗教上の『熱意』だけで、患者が救えると思ったら大間違いだ!!」


「救えるわよ! 迷える患者は告解して赦さ――」


「赦してる間に患者が死んでもか!! 

この病院で大事なのは命! 

心より、まず命だろ!?」


 主張を遮ったハンクの怒声に、スタンレーは言葉を詰まらせた。


彼女の顔色の青さと意味合いの変化した震えが、この決着を明白に示していた。


 それでも、ハンクは彼女を痛罵する口を閉じなかった。


「子どもの私にだって解ることが、レディのあんたにどうして解らないんだ! 

患者に必要なのはあんたなんかじゃない! 

本当に必要なのは、看護婦長であるフローレンス・ナイチンゲール、このひとだけなんだよっ!!」


 ハンクの大声に、室内は静まりかえった。


 彼はスタンレーを睨んだまま、張り詰めた緊張感の中に荒い呼吸を響かせる。


 永遠にも思えた沈黙を破ったのは、か細く漏れた悲痛な嗚咽だった。


 今にも卒倒しそうな身震いで潤み声を裏返したスタンレーが、次第に嗚咽を大きくする。


「私は……。

私は、カトリックの代表で来たのよ……、

私はミス・フローレンスよりも、敬虔であると自負しているわ……。

不幸な人々の事だって、彼女以上に思っているつもりだわ。

……なのになぜ? 

どうして……どうして彼女ばかりが『天使だ』などと持てはやされるのよ! 

……どうして同じ称賛を、私が受けてはいけないの? 

私だってそれなりの事はして来たじゃないの……、

して来たじゃないのよおぉっ!!」


 スタンレーはそう叫ぶと、ふくよかな両手を顔に当てて堰を切ったように泣き始めた。


彼女の慟哭が響くなか、フローレンスは痩身をふらつかせて額を押さえると、打ちひそめた顔を小さく振る。


そして視線を上げ、失望の滲む表情でスタンレーを見やった。


「メアリー……」


 信じたくなかったと言いたげなその言葉に、第一陣も眉をひそめた。


レディたちはスタンレーに続き、さめざめと泣き始めていた。


 重苦しい空気のなか、一人怒りの収まらないハンクが、スタンレーの吐露したあるまじき功名心を噛み付くような口調で戒告した。


「そんなことのために看護婦でもない軍団を胸張って連れて来るなんて、

あんたイギリス人の恥さらしだよ! 

今すぐ黙ってイギリスに帰れっ!!」


 その勇みすぎた追撃に、つかつかと歩み寄ったフローレンスが間髪入れずに頬を打つ。


乾いた破裂音は二人の口をつぐませ、長い数秒が過ぎていった。


 突然ハンクが弾けるようにしてマーサの腕を払い、顔も上げずに特別室から飛び出した。


彼は矢の勢いで病院内を走り抜け、港の先端まで駆け下りてしまおうと速度を上げる。


しかしその体は、玄関を数歩も行かないところで何かと衝突し、親しげな両手に抱きとめられていた。


ハンクが驚いて顔を上げると、目の前にはあの穏やかなひげ面が、驚きと心配の混ざった表情をしてこちらを見つめている。


「――アンリさん……っ!」


 ハンクはもう、あふれ出る後悔と涙を堪え切れずに声を上げていた。





【スクタリの天使】

 フローレンス・ナイチンゲールがスクタリで看護を始めると、母国イギリスでは彼女の事を賛美する言葉が街中を飛び交いました。その一つが「スクタリの天使」です。彼女を称える言葉は国民を陶酔させ、果ては女性たちを羨望させました。国民の強い憧れは絵画や人形といったフローレンスグッズを生み、それらはイギリスで飛ぶように売れたそうです。

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