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命と戦った女(ひと) フローレンス・ナイチンゲール  作者: ぐろわ姉妹
第6章 看護とは無駄なものなのか
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6話 それぞれの決意

 翌朝。


今日も笑顔で二人を迎えてくれるはずの、ユーリアの姿が忽然と消えていた。


 シーツと毛布がベッドの上で織り成す幾重もの皺が、ユーリアの行ったであろう最後の動きを物語る。


もぬけの殻となったベッドを見たリタの手からは、消毒用具の乗ったトレイが乾いた摩擦音をたてて滑り落ち、ガラスの割れる音と、耳障りな金属音が室内を震わせた。


しかしその音に驚いて身動きできる者は、ここに誰一人としていなかった。


「リタ! 探そう! 

まだきっと間に合う!」


 弾けるように叫んだハンクが、少女用の脛丈ドレスを履いていることなど忘れてがむしゃらに駆け出した。


病室を飛び出し重症患者の横たわる寂しげな廊下を疾風のように駆けたハンクは階段を身軽に飛び降り、一階の廊下を矢の如く直進して大きな玄関を駆け抜ける。


 病院の玄関を出たところにある小高い丘の上で足を止めたハンクが、ユーリアの姿を求めて忙しなく周囲を見回した。


彼の痕跡すらも見つけられなかったハンクは、港に続く坂道を燕の速度で下りていく。


まだ昇ったばかりの朝日に背中を赤々と照らされるなか、ハンクの胸中は何かがかきむしるように渦巻いていた。


(駄目だユーリア!! 

……そんなこと、俺は許さないからな!!)


 これ以上ないくらい急いでいるというのに、乾いた泥で隆起する坂は無情にもハンクの両足から速度とバランスを奪い続けていく。


真っ白な息を吐きながら悪路と格闘したハンクは、黒衣を乾泥に汚しつつようやく港の船着場まで辿り着いた。


港では数十人のトルコ人人夫がコンスタンチノープル経由で渡来した大きな連絡船に群がり、丁寧な荷下ろしを始めている。


息を切らせたハンクが海岸線を見回すと、港の隅にできた不用品置き場で腰を下ろしているがっちりとした姿が目に飛び込んで来た。


 ハンクは胸につかえる感情にまかせ、声の限りに怒鳴りつけた。


「――ユーリアァッ!!」


 悲しみが滲むハンクの雄叫びに、海を見つめていたユーリアは驚いたように振り向いた。


白い包帯顔を朝日に照らして腰を上げたユーリアの姿は、六日前病院に担ぎ込まれた時と同じイギリス歩兵連隊の軍服をまとっていた。


彼の顔中を覆う包帯は一切の表情を遮断していたが、今彼の顔が驚きに満ちていることだけは感じ取ることができた。


「サ……、サマンサ……!」


 潮騒が辺りに響くなか、猛然とユーリアに飛び付いたハンクは、彼を離さぬようきつくしがみ付き、口調が荒くなるのも抑えきれずに叫び散らした。


「ふざけんなよバカ野郎!! 

何で患者のくせに治ってもない体で勝手に出て行くんだよ! 

まだ六日しか……、六日しか手当てしてないじゃないかっ!! 

行かせない! 

絶対に行かせないからな!」


 そう叫ぶハンクの脳裏に去来していたもの、それは数ヶ月前、勇敢に戦地へと旅立っていった兄の姿であった。


煌びやかな戦場で武運溢れる勇猛さを披露しているはずの彼が今ハンクに展望させていたものは、殺伐とした戦地で他の兵士たちと同じように傷付き、弱々しく泥の地面に伏している光景だった。


兄はどこかの病院で汚物まみれになりながら唸り、哀れなまでに干からびた体を横たえ、身持ちの悪い看護兵に虫けらのごとく扱われているのではないか。


それは、戦場へ発つ兄を嬉々として見送った者として、無意識に考えまいとしていたことであった。


 目前のユーリアに重なる兄の影に打ち震えながら、ハンクは英雄であるはずの兄が今、地獄の環境で苦しんでいるのではと悲愴した。


そして、今ここでユーリアを見送れば、きっとその命はクリミアの死神に奪い去られてしまうという確実な思いがあった。


ただ必死になって魔の手を振り払おうとするハンクが、ユーリアの胸にめり込むほど頬を押し付け、張り裂けんばかりに絶叫する。


「戦場になんか行っちゃ駄目だ! 

死んじゃうかもしれないんだぞ! 

行くな行くな行くなぁぁぁーーー!!!」


 細い両腕で力一杯しがみ付いてくる少女の震えに、ユーリアはそっと手を添えることしかできないでいた。


彼女の白い覆い布をあやすようになでるユーリアが何かに気付き、ふとハンクの下りて来た坂道を見上げる。


青白い空の中、朝日を背に坂を下る人影を認めたユーリアは、その見慣れた姿に小さく呟いた。


「リタ……」


 躍動的に凝固する悪路によろけながら海岸に下りたリタは、息を切らせてユーリアのもとに駆け寄ると、エプロンの腰紐に挟んでいた黒い塊を形良く整え、花のほころぶ笑顔と共に差し出した。


「これ、私が作った帽子なの。

小さくて不格好だけれど、ベアスキンの帽子よ? 

この帽子を被っていれば、包帯が取れても少しは顔を隠せると思って。

あっちの陣地に着くまでに正体がばれたら、危ないんでしょう?」


 リタの掌中でそよぐ英国歩兵隊のベアスキン帽は、彼女の言葉通りハンチングのように小さく幾箇所も継ぎ合わされていた。


リタの心使いにためらいながら帽子と彼女とを見比べたユーリアは、彼女の笑顔に頷きを返す。


そして遠慮の残る仕草で帽子を受け取り、静かな声で感謝を伝えた。


「最後まですまない、リタ」


「いいのよ」


 西の空がまだ薄闇色をまとうなか、リタは真っ直ぐにユーリアの瞳を見つめ、ユーリアもまたリタの瞳をしっかりと見つめていた。





【軍が兵士に求めたもの】

 当時の軍隊は兵士に対し、非人道的と言われるほどの厳しさを備えていました。それは軍事医療の場にもあらわれています。例としては…


・兵士は痛みに強くあるべきなので、手術の麻酔は一切なし。(兵士たるもの、痛みには自力で打ち勝つべし!


・余程でないと薬の処方しません、酒でも飲んで治しなさい。(兵士たるもの、驚異的な回復力を発揮しろ!


・入院生活が快適だと戦場に戻らなくなるので、病院医療とも不快であるべき。(兵士たるもの、常に戦地が快適であれ!


…じょ、上官、正直無理っすよ!?

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