5話 恋の決死隊
暗闇の中、かすかな音を立てて開いた看護婦塔の出入り口が、回廊に射す月明かりを反射してすぐさま元通りに閉じられた。
施錠の小さな音が凍りついたように寝静まる患者たちへと染み渡るなか、白い靴下の爪先は泥棒のような足取りで素焼きタイルの上を滑っていく。
ペチコートのない貧相なスカート姿の二人が進む回廊は不気味なほどに薄暗く、身を屈めたままで振り向いたリタの不安そうな顔に、ハンクも思わず身震いをした。
回廊の鉄ストーブが一日中焚かれているとはいえ、やはりタイルの冷たさは二人の爪先を凍えさせていく。
向き直ったリタは背後をハンクの目に託し、辺りの暗がりを見ないようにしながら、月光射し込む回廊を進んでいった。
階段へ続く曲がり角にある大きな柱の前で、先を行くリタが患者の隙間を通って壁に背を擦り付けると、柱の陰に潜み階段からの気配をしっかりとうかがった。
ハンクの作戦通り、つぼんで惨めなこのスカートはすっかり柱に隠れてしまい、はみ出すことなく納まっていた。
隣で同じく反対側の気配をうかがっていたハンクがリタと視線を合わせ、互いの管轄に危険はないと頷き合うと滑るようにして二階へと進んでいく。
二階の廊下をひたすら北へ進み、やっと辿り着いたユーリアの病室に背中をぴたりと貼り付けたリタは、病室内の様子に耳をすます。
話し声や足音がしないことを確認したリタが、周囲を警戒しているハンクに入室の合図を示した。
慎重に扉を開けて中へと忍び込むリタに続き、ハンクも素早く入室する。
息を殺して扉を閉めたハンクの手がノブから離れた瞬間、隣の病室から扉の開閉音が聞こえて来た。
多少のすれ違いは想定していたものの、あまりの近さと突然さにハンクの心臓が急停止する。
身を固めて見えるはずのない壁の向こうに視線を固定したハンクの耳に、聞きなれたブーツの足音がこちらへと近付いて来た。
最大級の危険事態に心拍を跳ね上げたハンクが、少女のように慌てふためく。
(きゃぁぁぁーーーー!!)
慌てて室内を振り向くと、リタは部屋の中央で一人静かに慌てていた。
ハンクが完璧なる猫の足音で駆け、リタの手を引きながらユーリアの向かいとなるベッドの下に潜り込んだ。
それと同時に病室の扉が開き、トルコランプを手にしたフローレンスが病室内へと入って来る。
こつこつと小さな足音をたて、フローレンスが病室内をくまなく見定めていく。
ベッドの下で身を伏せたハンクとリタは、床板に染み込んで消えることのない汚物臭をかがないよう、袖に鼻を埋めて息をひそめた。
気品ある足取りの細いつま先は、患者の傍らで数秒立ち止まり、またすぐ次の患者へと向かっていく。
入り口近くの患者から順番にそれを繰り返してきたフローレンスの足が、遂に二人の隠れるベッドにも向けられた。
研ぎ澄まされた足音がハンクの鼻先で歩みをとめ、彼はフローレンスの黒いブーツを身動きできずに凝視する。
掌に緊張の汗を滲ませながら、乾ききってしまった喉の奥で声に出せない祈りを叫んでいた。
(見つかりませんように見つかりませんように見つかりませんように……)
その隣でリタは、今にもフローレンスの顔がベッドの下を覗き込む気がして、全身が心臓のように脈打つのを感じていた。
永遠のような数秒が過ぎ、仄かなランプの灯りを連れたフローレンスの足音は、向かいのベッドへと遠のいていった。
危機を脱した安心感で胸をなで下ろした二人は、顔を見合わせて互いの意思を伝え合うと、ベッドの下から控えめに顔を出した。
見定める彼女は眠っているユーリアの発熱や発汗、呼吸の乱れなどを確認し、満足げに背筋を伸ばして来た道を戻っていく。
凛とした足音で遠ざかる彼女の後ろ姿を見送ったリタが、取り出した手紙を握りしめながらユーリアのベッドに向かって身を乗り出した。
(ユーリ……、――!!)
ユーリアは目を覚ましていた。
憂いのある表情で黙ったまま、決して振り返ることのないフローレンスの後ろ姿を見つめている。
彼女の持つトルコランプがその背中を暗く揺るがせ、病室奥の窓辺へと長い影を投影していた。
次第に大きくなっていくフローレンスの影がユーリアの足先からゆっくりと上り始めると、彼は自身の指先へ小さくキスを乗せ、その指を毛布に伸びるフローレンスの影へと、そっと重ね合わせた。
愛と感謝に満ち溢れる背後の情景を知る由もないフローレンスは、彼の思いに応えることもなく扉を閉め、次の病室へと足音を進ませていく。
暗さの戻った病室の中で彼女のそれに一人聞き入るユーリアが、安らぎに満ちた瞳を幸福そうに閉じていった。
その光景は、リタの心に深く突き刺さった。
まるで引き戻る津波のような速度で意欲を消沈させたリタは、やるせない表情を掌中の手紙へと落とす。
(ユーリア……。
あなたの心を開いた人は…………)
フローレンスの行って来た患者への献身がいかに彼らの心を支えているのかを思い知らされたリタは、乗り出していた上半身を力なく伏せると、ベッドの下へと潜り帰った。
リタの後ろで同じものを目撃していたハンクが、かける言葉も見つけられず、彼女同様ベッドの下に潜り込む。
◇
重苦しい時間が過ぎ、病室に射す月の一閃が随分と移動した頃、ユーリアのベッドからは規則的な寝息が立ち始めていた。
ハンクが、沈黙を一向に解かないリタに耐えかねて言い難そうに囁く。
「……リタ、
私が……置いてこようか?」
前を見たまま力なく首を横に振ったリタは、握っていた手紙をそっとポケットに収めて言った。
「……ううん、いい……。
婦長が相手じゃ、勝てそうに……ないもん」
そう言って諦め顔を上げたリタが後ろを振り向き、同意を求めるように眉根を上げて見せる。
リタは返答に困るハンクの言葉を待たずに
「看護婦塔に帰ろう」
という身振りを示すと、ハンクを急かすようにしてベッド下から追い出した。
先を行くリタは、物音こそたてはしないが周囲を警戒することなく歩いていく。
その無謀としか思えない歩みは、幸い誰にも気付かれることはなかった。
看護婦塔に戻って隣り合うベッドに入ったリタとハンクは、普段と同じ様子で毛布にくるまり横になった。
喪失感にも似た心の痛みでしばらく寝付けなかったハンクにも、ほどなくして眠気の帳が落ちていった。
頭から被った毛布の中で静かな寝息を立てるリタの頬には、一筋こぼれた涙の跡が光っていた。
【兵士のくちづけ】
フローレンス・ナイチンゲールを語る上で欠かせないのが、夜の見回りにやってきた彼女の影に兵士がくちづけをする逸話です。この心打つ美談はイギリス国内で大々的に広められ、彼女の人気を押し上げました。吟遊詩人の方が歌まで作ってしまう浮かれっぷりが、イギリス中を駆け巡ったそうです。




