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4話 会話の才智

 兵舎病院の二階、北側の角部屋へと運ばれたロシア兵は、トルコ人人夫によって部屋の一番奥にあるベッドへと移されていた。


周囲を手術用のついたてで遮断したフローレンスが、彼の軍服を脱がせていく。


露になった彼の上半身には、左肩と右脇腹に二つの銃創が確認できた。


それの炎症はひどいものだったが、シラミもウジも見当たらない良好ぶりにフローレンスが小さく頷く。


 肩の銃創をフローレンスが湯冷ましで洗い始めると、青年は痛みから幾度となく意識の遠い呻き声を発した。


柔らかな布で傷口とその周辺を優しくゆっくりなでるさまは、まるで貴重な美術品を扱うかのように慎重で静かな作業だった。


腹部の傷も同様に洗い終えた時、青年の体が僅かに動いて、瞼の下の眼球が意識を伴って蒼い姿を現した。


 彼は朦朧とする頭を無理に起こし、目の前の女性がイギリス人だと認識するやいなや素早く辺りを確認した。


そしてベッドの傍らで用意されていたワゴンから手術用の大きなメスを掴み取ると、上半身を起こし目前のイギリス人に向かってその切っ先を差し向ける。


しかしその体は化膿から来る高熱で震え、フローレンスに向けられた腕は大きく上下していた。


傷の痛みにチャコール色の眉を歪めたものの、息を荒らげて興奮するロシア兵は、泥に汚れた顔から鋭い眼光とみなぎる殺意を漂わせていた。


 フローレンスは手にしていた布を置きながら、青年の若い皮膚が瑞々しく形作る知性的な顔の影を見つめる。


張り出た眉骨や力強い下顎に幼き男らしさを湛える青年に、フローレンスは静かで落ち着きのある声をゆっくりかけた。


「怖がる必要などありません。

私は看護婦です」


 フローレンスの言葉からいくばくかの単語を聞き取ったらしいロシア兵が、変わらぬ緊張に汗を滲ませながら傷ついた体を更に起こす。


今にも飛び出していきそうな張り詰めた緊張感のなか、フローレンスは新しい綿布を水で絞り、青年の頬で膿を湛えて腫れ上がる傷口にそっと手を伸ばした。


 瞬時に身を引いたロシア兵が突きつけていたメスを素早く上に向け、柄尻で勢い良くフローレンスの手の甲を突き落とす。


その衝撃に綿布を落としたフローレンスは、見ていた傷口から視線を移し、手を引くこともなくロシア兵の蒼い瞳を見つめて言った。


「大丈夫。

例えロシア兵でも、あなたは私の患者です。

敵も味方もありません」


 突然発せられた流暢な母国語に、ロシア兵は息を飲んだ。


 フローレンスが微笑み、軍人としての警戒心と敵前抵抗の教えに向けて、貴族らしく上品なロシア語で語りかける。


「安心して。

ここは戦場ではありません。

私はあなたを助けたいのです」


 思いやりに満ちた母のような母国語に、兵士は張り詰めていた緊張を解きほぐされていた。


魔法のごとく染み入る彼女の心情に、青年は次第に落ち着きを取り戻していく。


僅かに残る怯えがその目をフローレンスに縛り付けたが、彼はゆっくりと掌中のメスをワゴンの上へと戻していった。


 彼の瞳の奥で闘争心が消えたことを確認したフローレンスは毛布の上に落ちていた綿布を拾い、触れることの許された患者の頬を丁寧に拭う。


拭き取られた汚れの下からは、極北の民によく見られる、白く滑らかで美しい肌が現れてきた。


短く刈り上げられたチャコール色の髪に、平たく薄い唇、そして長身ではないががっしりとした骨格が、スラブの血を引いていることをうかがわせる。


若者の瞳は、荒々しくも朴訥とした視線を天井へと投げていた。


  ◇


 一方搬入を終えてもいまだ混沌とする回廊では、医師らが総出となり、新しく並んだ患者を跪きながら診て回っていた。


座浴室で体を洗い流された患者が清潔な病人服をまとい、額に汗する看護兵によって廊下の簡易マットレスに寝かされていく。


看護兵の指示を受けるトルコ人人夫も黙々と患者の運搬を手伝い、看護婦団は互いに連携を取りながら新しいマットレスや毛布を用意して回っていた。


回廊は両壁に頭を向けて横になる患者たちで見る間に埋め尽くされ、医療関係者は一メートルほどしかない狭い通用路を互いに身をかわしながら行き交い走り続けていた。


 そこへ一人悠々とパイプ煙草をふかしながら、ジョン・ホールが姿を現す。


彼は突き出た腹をさすりながら、ゴミでも見るように患者を眺め、診察のためしゃがみ込んでいた癖毛の医師に向かってだみ声を響かせた。


「おい貴様! 

瀕死の者がまた増えたのだ、

貴様は自分の持ち場に着け!」


 怒鳴られた医師は義憤の表情をキッと上げ、筋骨盛り上がる長身で立ち上がり大きな拳を握る。


病院の完全清掃の日、医師の希望を寄り合わせて作成した不足品請求の申請書、これを提出した人物が彼だったというだけで、ジョン・ホールは彼を『死の守人』という理不尽な処遇に落としていた。


傍らにいた別の医師が、彼の怒りをなだめるように小声で素早く囁く。


「ここは大丈夫だ。

きちんとやる、これ以上君が言われないためにも行ってくれ」


 癖毛の医師は仲間の言葉に頷き、努めてジョン・ホールを睨まぬようにしながら、湧き上がる感情を抑え栗色の髪を片手でかきあげた。


彼は険しい表情のまま苦しむ患者を残し、怒りのこもった足どりでその場を立ち去っていく。


彼が脇をかすめる間にも、ジョン・ホールは医療と軍事を混同させたおぞましい言葉を吐き出していく。


「おいそこの、切断手術に全身麻酔を使っている医師はおらんだろうな! 

いつも言っているがクロロフォルムの使用は禁止、

麻酔などこやつらには必要ないのだ! 

こやつらは自ら志願して兵士になったのだからな! 

痛みに臆する者は大英帝国軍人にあらずだ!」


 癖毛の医師は今や軍医長と仰ぎたくもないジョン・ホールを横目にしながら奥歯を噛みしめ、詰襟の黒い制服の背中を無念の炎で燃やしていた。


 二階への階段を上がり回廊を北側へ進むほどに、寝かされた患者は皆弱々しくなっていく。


やつれきった彼らからは無制御に糞尿が垂れ、床に汚い染みを作っている。


医師は鼻の曲がりそうな悪臭に顔をしかめたが、毎日ここの患者を隔てなく世話している看護婦たちを思い出して悲しげな表情を見せた。


いくら丁寧に掃除をしても、その日の夜には汚物が床を濡らしてしまうのだ。


かすかに蠢く患者たちの中に幾つかの死体を見つけながらも、彼は廊下の突き当たりにある部屋の前までやって来ていた。


収まらぬジョン・ホールへの怒りに深く一呼吸し、自身の下した決断に緊張した面持ちを浮かべる。


 彼は視線を上げ、平静を装って部屋の扉を開けた。


 病室は他とまったく変わらぬ七メートル四方の部屋だった。


北側に位置することもあり湿気が床板を腐らせ、歩くたびに不快な軋みを発生させている。


左右の壁に頭を向け五列に並べられたベッドは、回廊のマットレスと同じく手狭な幅で隣接しあい、十人の患者を収容していた。


ここにいる彼らは皆、呻き声も糞尿すら出せないほど干からびて、ただ死を待つばかりの男たちである。


医師として手の施しようもなくなった患者を前に、彼は思わず苦しそうな表情を下げてから部屋の中へと踏み出した。


回廊のそれよりは広く取られている中央の道筋を奥へと進み、一番奥でベッドを囲むように立てられている白いついたての前に立ち止まると、中に向かって声をかけた。


「入りますよ、看護婦長」


 ついたての中へと入って来た医師を振り向き、フローレンスは何もかも解っていましたという満足げな笑顔を浮かべて見せる。


「あなたはやはり、本当の医師でいらっしゃいますわ」


「……今回だけです。

早く治療を、軍医長に見つかったら貴方も咎められる」


 早々治療に取り掛かった医師が、フローレンスの的確な止血処置と完璧な創部洗浄に驚嘆の唸り声をあげた。


傷の中に留まっている銃弾を取り出すべくワゴンを探った医師の手に、鉄製のピンセットが差し入れられる。


医師が驚いて見上げた先には、ごく自然に手術の先を読み彼の助手を務めているフローレンスの姿があった。


「必要な物は仰って下さい。

私がお渡しできます。

医師が道具を探す時間は非常に無駄ですので、

少しであっても省きましょう」


 他意もなくそう告げたフローレンスに、若い医師は口角を上げながら的確な気配りだという頷きで賛同する。


フローレンスは医師に治療の続行を促した後、一人の青年となった患者へと布を棒状に丸めたものを差し出した。


痛みを堪えるためにそれを噛み、声が響かないよう枕で顔を覆えと説明する。


相変わらず麻酔の用いられない拷問のような手術だったが、フローレンスの激励と彼自身の若さにより、数十分後には無事全ての処置が終了していた。





【フローレンスの習得言語】

 幼い頃から家庭教師をつけ毎日勉強を行っていたフローレンスとその姉は、12、3歳頃を境にして両親から教育を受け始めます。父ウィリアムの担当した教育の中でも、特に目を引くのは「語学勉強」。ギリシャ・ラテン・ドイツ・フランス・イタリアの勉強を、10代のうちからおこなっていました。


…え?ロシア語? ふんふふ~ん♪

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