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3話 譲れぬ思い

 叩かれた頬は、痛いというよりも熱さを感じさせた。


 声をなくしたハンクが、打たれて虚空を泳いだ視線をはっと前に戻すと、そこには厳格なる立ち姿でこちらを見据えたフローレンスの姿があった。


 彼女から照射される自重を促す厳しい視線を認識した時、ハンクは自分がフローレンスの大志に反しているのだと自覚した。


イギリス陸軍の看護婦として不可欠である礼節というものがどれほど辛い自制を伴うのか、ハンクは今になってはっきりと思い知らされたのだった。


(――兄さんが……、死んでしまう――)


 看護婦サマンサとして大志あるフローレンスの前に突き出されたハンクの思いは、どれほど強く兄の安否を願おうとも、堅く口をつぐみ罪人の面持ちで平伏すことしかできなかった。


 膝が抜けて大人しくなった彼を医師がゆっくりと放すと、ハンクは力なくその場に手をつき、へたり込んで頭を垂れた。


それを見届け颯爽と遠ざかっていくフローレンスの足音が、ハンクの耳に刻まれるように響いていく。


己の未熟さを恨み、二度と会えぬ兄への絶望で胸中をかき乱されるハンクを、いまだ途切れぬ搬入の喧騒が飲み込んでいった。


 その喧騒のどこかで、フローレンスの声が流れてくる。


「病院に運ばれて来たからには、兵士ではなく患者として扱います。

そのまま院内に運び入れて下さい」


 彼女の言葉を理解できないまま、ハンクは沈んだ顔を上げ、港へと伸びた下り坂を見おろす。


彼がぼんやりと見つめる先では、坂をいつの間に下りたのか、先ほどまで傍にいたはずの医師が声を潜めてフローレンスに詰め寄っているところだった。


「看護婦長! 

一体何を考えているんですか、それは軍が許さない!」


 フローレンスは反対してくる医師を、鷲の瞳でじっと見つめ返した。


そして彼の表情に複雑なものを捉えると、その心に備わっているであろう『医師の性根』に向かって、低く凛とした声を臆することなく突きつけた。


「あなたは医師として比較的健康状態のよい、

助かる見込みが充分にある怪我人を、

治療もなしに見捨てるのですか? 

この方は紛れもなく『患者』です。

患者を看護するのが私の仕事です。

……私はあなたに、医師としての信念が誇り高くそびえていると、信じています」


 フローレンスの瞳に射抜かれた癖毛の医師は、言葉を詰まらせながら


「軍の役人に知れたら、貴女が責任を取らなければならないんです」


と今一度の懇願をした。


が、フローレンスは彼の意向を全て受け止めたうえで、にっこりと笑顔して言い切った。


「大丈夫です。

私たちさえ口をつぐめば、誰に判る事でもありません。

秘密は完璧に守られる、と私が保障いたします」


 彼女の言葉に一度は目を丸くしたトルコ人人夫も、タンカを持ちなおし、医師に向かって同意の目配せを見せる。


彼らは完全清掃以降、家族保障付きで再雇用してくれたフローレンスを心から慕っていたのだった。


彼女の命令とあれば敵であろうと助けますという姿勢が、医師の目にも見て取れる。


しかし医師は唇を噛み、苦悩の表情を横に振った。


「……許可は、できません。

搬入できたところで、治療を行う医師など我々イギリス軍の中にはいないでしょう。

例え『私が一人になれる病室があっても』です!」


 険しい視線を残し、医師はその場を立ち去っていった。


彼の背を見送りながら微笑んだフローレンスは、トルコ人人夫を振り返り、何やら細かく指示を出す。


彼女がどのような指示を伝えたのかは行き交う搬入の波に遮られてハンクの耳には届かなかったが、兄を乗せたタンカは彼女とともに坂を上り始めていた。


「――婦長、兄さんを助けてくれたんだ……」


 ハンクは安堵の溜め息に打ち震えた。


院内に向けて眼前を通りすぎるタンカを追おうと立ち上がったハンクの体が、意に反して崩れ落ちる。


力の入らぬ足でその場にへたり込んだハンクは、乱れた麻色の髪を垂らしたまま、どうか兄が助かるようにと祈り続けていた。





【看護婦としての心構え】

 スクタリ野戦病院で働いていた看護婦の中には、患者である傷病兵と好い仲になる者もいたようです。そうでなくとも当時の「病院」はお淫らの温床。その気になっちゃうのは仕方がないのでしょう。


 フローレンスの残した資料によると、「看護婦たちはきちんと管理をしなければ兵士と色恋沙汰を起こします。そのうえ、気に入った兵士と結婚したいからと言って突然に病院を去るのです」とのこと。…き、気の毒だぜ、フローレンス…。

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