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2話 幻想と現実

 ハンクは暴走する心臓にふらつきながらも人混みを駆け抜け、兵舎病院から外へと飛び出した。


勇敢なる戦士の死は荘厳にて美しいものという彼の美学が、目の前に訪れた現実的な死によって圧倒されていく。


こぼれる前に涙を拭った彼は、心の中で崩れていく『戦争の意義と、誇り高き戦士像』を必死になって取り戻そうと頭の中で叫び散らした。


(そんなわけない! 

あの人が英雄じゃなかっただけなんだ! 

本当の戦士があんなふうに死ぬものか! 

本当の戦士は、もっと強くてもっとかっこよくて……

もっと……兄さんみたいなはずだ!)


 玄関から泥の坂をしばらく下ったところでやっとそのスピードを緩めたハンクは、近くで男たちと一人の医師がもめている場面に遭遇した。


医師から激しい罵倒を受けているのは傷病兵を船から運んで来るトルコ人人夫で、罵倒しているほうの医師はというと、ハンクの膝を治療してくれた癖毛の若い男であった。


「とにかく早く行って、海に棄てて来るんだ!」


 癖毛の医師がそう命じたのはタンカに乗せられた一人の傷病兵のことらしく、トルコ人は謝りながら来た道を帰ろうとしている。


ハンクはその逞しい傷病兵をひと目見るなり、心臓の鼓動を失った。


「嘘だ……」


 否定の思いと同時に強張っていた表情が情けなく落ちていく。


突かれるようにして駆け出したハンクは、タンカの傍らにいた医師を押し退けて兵士の体にしがみついた。


「――兄さん!」


 イギリスの赤い軍服に身を包んだ体格のいい若者は意識を失ったまま、体中を生乾きの泥で汚して横たわっていた。


膝が笑い出すのを感じながら、ハンクは血と泥にまみれた傷病兵の頬を両手で覆う。


ぬるりとした感触に手を放すと、腫れあがっていた左頬の切り傷から黄色い膿が流れ出していた。


震えながら血膿の移った手を見つめるハンクが、跳び掛かるようにして傷病兵の体を掴み、何度も何度も揺すり始めた。


「兄さん! 

起きてよ兄さん、兄さん! 兄ぃさあぁぁぁん」


 あまりの狂乱ぶりにしばらく呆然としていた医師が、はっとしてハンクの両手を引き剥がし、その小さな体ごと強く揺さぶって言った。


「おい、良く見たまえ! 

それは君の兄さんじゃない、敵国ロシアの軍兵だ!」


 医師の言葉にハンクは闇雲にもがいていた腕を緩める。


はち切れんばかりに脈打つ目をこらすが、滲む視界の中、泥まみれの傷病兵は明らかに兄の容姿をもってぐったりとしていた。


今にも瞼を開きいつもの優しい笑顔を浮かべそうな兄に、ハンクは大きく頭を振った。


「敵兵なんかじゃない! 兄さんだ! 

イギリス歩兵連隊の軍服だって着ているし、病気で痩せた他の患者とも違う! 

こんなにしっかりした体で、まだ生きている! 

兄さんは英雄なんだ、死なせない!」


 そう言い切るハンクに医師は一瞬戸惑ったものの、やはりどう見てもロシア人顔である傷病兵の若者が、このイギリス人の少女と兄妹であるとは考えられなかった。


彼は後ろから腕ごとハンクの体を抱き押さえ、力ずくで制止する。


「これは、厚かましくもイギリス軍に扮装したロシア兵だ! 

目を覚ましなさい! 

……ここはいいから、お前たちは早く棄てに行け!」


 改めて同じ指示を飛ばした医師の声により、足を止めていたトルコ人人夫は再び港への坂道を下り始めた。


 ハンクが髪を振り乱し、タンカに向かって叫ぶ。


「やめろ! いやだーーーっ! 

兄さん起きて、兄ぃさんっ!」


 必死になってハンクを取り押さえている医師の姿に、港からの坂道を駆けて来たフローレンスが何事かと声を上げた。


「一体何の騒ぎです! ……サマンサ!」


「婦長! 兄が殺されてしまう! 

兄です、私の兄なのです!」


 ハンクを抱き抑える医師が、それは違うとすぐさま口を開く。


「ロシア兵が一人混じって運ばれて来たのです。

戦場は我々が思うより混乱しているらしい。

敵を助けるわけにはいきませんから、このまま海に棄てさせます」


 医師の拘束から身をひねりかろうじて腕を出したハンクが、ゆっくりと離れていくタンカへ狂ったように手を伸ばした。


届かぬ手をちぎれんばかりに伸ばし、声を裏返して叫び続けるハンクを、フローレンスは注意深く凝視する。


彼女は一通りの思案を素早く巡らせ、この状況から導き出される答えに辿り着くと、医師の判断が最善であると結論した。


そしてこの場を立ち去るべく、兵舎病院へと足を向ける。


 だがその背にハンクの悲痛な声がかかった。


「婦長! 助けてください!」


 フローレンスが思わず足を止め、目を見開く。


背を向けたままであるのに、ハンクの一心な眼差しはフローレンスの胸にまで深く突き刺さっていた。


ハンクのわめき声が虚しく響き渡るなか、震えるように強く目を閉じたフローレンスは、息を吸い込みながらゆっくりと瞼を上げる。


そして厳しい表情で素早く振り返り、ブーツの音も高らかにハンクの前で立ち止まった。


 なりふり構わず叫び散らしていたハンクの目にフローレンスが映り、一瞬風を切って舞い上がった彼女の平手は、ひどい衝撃で彼の頬へと飛んでいた。





【ドルス・オーベルト】

 17歳の彼は、雪芳さんのプロットにもちゃんと存在している主要人物の一人です。終始ハンクから「憧れの的」扱いされているドルスは、開戦直後のスクタリ戦争に志願兵として赴いています。


 なんと当時のイギリス陸軍はそのほとんどが志願兵で(まぁ、負けるはずがないと信じ込んでいた時期だった、という時代背景もあるのでしょうが)、生活水準のよい家庭から多くの青年が集まったそうです。


 しかし結果は惨憺たるもの。上層教育を受けて人生これから!という前途要望の青年たちは、揃いも揃って虚しく命を散らしていったのです。


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