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命と戦った女(ひと) フローレンス・ナイチンゲール  作者: ぐろわ姉妹
第4章 働くことを許された看護婦団
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1話 悲願叶う

 皆その言葉に目を見開き、針を持った指を止めていた。


 丸い体のシスター・エリザベスはカップに入った紅茶を豪快に落とし、四角い顔のマーサ・クラフはポットから注ぐ熱い紅茶を鉤鼻魔女の手に注いでいた。


とんでもないところに注がれたおかわりに、スター・バーサが「熱い!」と叫んでカップを放り出す。


 ハンクは後ろの騒ぎなどまったく耳に入っていない面持ちで立ち上がり、上気した頬でフローレンスに訊ねた。


「……そ……それは、本当……なのですか……?」


 普段と変わらぬ表情のフローレンスが厳然と頷き、医師と役人の署名が入った要請書を広げて見せた。


それは、身を切る思いで我慢し続けた全員の望みを叶えてくれる、たった一枚の『正式な申請書』であった。


次の瞬間、それを取り囲むようにして駆け寄った看護婦団員は、薄明かりの中で書面上の堅苦しい文章に視線を這わせていく。


そこには


『傷病兵士に関連する看護の全てを、トルコ領における英国陸軍病院の女性看護要員総監督である、フローレンス・ナイチンゲールに一任する』


と書かれていた。


その一文を読んで互いに顔を見合わせた団員たちが涙ぐみ、溜め息のような声を吐く。


しばしの間をおいてわっと声を沸かせた団員たちは、隣同士でしっかりと抱き合ったり、跪いて神に祈ったりして、皆それぞれに今までの苦労を労いあっていた。


 フローレンスは初めて見ることのできた看護婦団全員の笑顔に、感慨深く穏やかな表情を湛える。


彼女を見たハンクは胸をなで下ろし、歓喜の声をあげた。


「婦長! 

今からやっと看護が……、きちんとした看護が正々堂々とできるのですね! 

私は今日から何をしたらよいですか! 

指示をください! 婦長!」


 喜び合っていた団員たちが、ハンクの言葉に続いてフローレンスを取り囲み、我も我もと嬉しそうに指示を仰ぐ。


「婦長! 私にも御指示下さいませ!」


「まずは何から行うのですか? 御教授下さい!」


「遠慮なく仰って下さい、婦長。私が計画表を書きますわ!」


 その興奮を全身に受け、自身からそれ以上の喜びを滲ませたフローレンスが、歓喜で震える声を隠しもせずに宣言した。


「皆さん、今日は覚悟するように。

間違いなく今日の仕事は大量にあります。

三週間分の仕事が一度にやって来たも同然なのですから! 

さぁ、まずは看護のできる健全な環境を取り戻し、

かつ看護のしやすいように再構築しなければいけません! 

そのためにも、今日は病院内の完全清掃を行います!」


 つい数分前まで沼のようにどんよりとしていた雰囲気は、一転してるつぼのような灼熱の滾りを見せていた。


はつらつとした表情のフローレンスが快活に清掃計画を発表するなか、リタだけがまた面倒臭そうな顔を浮かべ、


「嘘でしょう……、

この病院きれいにするのどんだけ大変かわかってんのぉ……?」


と独り言を呟いていた。


  ◇


 フローレンスの語った完全清掃は『正に完全』であり、それは廊下の清掃だけをするものだと思っていた看護婦団員の度肝を抜いた。


彼女の指示は、床に寝ていた患者の入浴と着替えを行いつつ廊下を清掃し、清掃を終えた廊下に藁を詰めた簡易的なマットレスを敷いて患者を迎え入れるというものだった。


この時初めて団員たちは自分が縫い続けたシーツの意味を理解し、いままで地獄のような生活の中でも耽々と看護の機会を待っていた婦長の揺るがぬ信念に驚嘆の声を漏らした。


 十二月一日。


朝日の差し込む看護婦塔の扉が、揚々として開かれた。


フローレンスを先頭にして現れた看護婦団員は皆揃って真っ白な三角巾を頭に締め、制服の袖を捲り上げていた。


スカートも、普段は足首まである長い裾を編み揚げブーツの脛ほどまで折り上げ、下着であるシフトが見えないよう数箇所縫い止めていた。


 彼女たちはこの今日限定の簡易作業着に身を包み、壮麗として廊下に現れた。


そしてフローレンスの指揮のもと、回廊と病室の完全清掃が開始されたのである。


 両手に看護婦塔の倉庫から持ち出した大量の掃除用具を抱え、ブーツの足音も高らかに玄関へと向かう団員。


その一番後ろに付いていたハンクが、まるで戦地に赴くかのようなこの行進に心躍らせ、思わず言葉を漏らした。


「ここは戦場なのだ。

今日からやっと、誇り高き戦士のために戦えるのだ……!」


 昨日より確実に酷くなっている病院内の惨状も、看護婦団員の目には昨日とはまったく違って見えていた。


大きな扉を開けて病院の外に出た団員を待っていたものに、彼女たちは今再び驚かされた。


 それもそのはず、目の前には一千人を越えるフローレンスの『援軍』が、全ての物資と体制を整えて待機していたからである。


フローレンスは申請書を受けた後、看護婦塔に帰るよりも先に、夫妻でこの地へとやって来てくれた会計係のブレースブリッジ氏にある要請をしていたという。


トルコ人人夫を数百人と、その家族内で体力があり子供と老人ではない者を労働者として集めること、更には戦地にやって来て病院内やその周辺で生活していた兵士の妻たちをも大量に招集するよう頼み込んでいたのだ。


ブレースブリッジ氏は喜んでその役を引き受け、日の昇る前から彼女の書き記した綿密な計画書通りに駆け回り、その準備を万端に整えて看護婦団員を迎えてくれたのだった。


 その美しくも荘厳な風景に、団員たちは感極まって一筋の涙を落していた。






【スクタリ派遣看護婦団】

 看護婦団38名は、みな中年女性で構成されています。それは、フローレンスが出した看護婦の絶対条件にこのような項目があったからです。


・兵士を誘惑してしまわない年齢、体格であること(つまりおばさん)

・健康体であり、しっかりとした体力があること(つまりおばさん)

・信仰心だけに頼った価値観で、物を判断しないこと(つまりずうずうしい感じが出はじめた、おばさん)


 これは当時の看護婦が、シスター(上流階級向けの病院)と売春婦(町の救貧院などの施設)で構成されていたことが大きな理由でした。フローレンスは当時の看護体制に不満をもっていたので、これまでの看護とは違う「役に立つ看護」をを実践したかったのです。


 そのため従来の看護婦であった、『宗教的使命感を強く持ち、病人の魂を救済しようとする人』や、『他に働く場所もなく済崩し的にやってきて、病人の持ち物を狙う好色な女性』を徹底して排除しました。


 もちろん、上記の条件の他に「婦長フローレンスの指示には、絶対に服従すること」という項目が加わっています。

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