9話 病院という名の地獄
患者の搬入で誰もが憔悴しきっていたこの夜、嵐に痛めつけられた黒海では大変なことが起こっていた。
スクタリを襲った猛烈な嵐が、黒海を航行していたイギリスの物資輸送船数十隻を、容赦なくその大口で飲み込んでいたのだ。
イギリス自慢の近代的な蒸気船ですら、その荒波から逃れることはできなかった。
兵士の冬服、数ヶ月分の食料、数千人分の包帯やシーツ、医師に必要な医療用具や薬など……、兵舎病院に送られるはずだったそれらの物資は
「その上に戦地クリミア行きの弾薬が積まれているから」
という理由だけで、スクタリに寄港しながら荷降ろしがなされなかった。
医療関係者が首を長くして待っていた何トンもの救援物資の山は、蒸気船と共に海の藻屑と消えてしまったのである。
翌日、この悪夢のような報告に兵舎病院の若い医師たちは大きな打撃を受けていた。
なぜならこの地に送られていた救援物資は、送られて来た総数から役人の許した分量しか配給されないからである。
医療を知らず、また興味もない役人が取り決めた配給量など業務の理にかなうはずもなく、かといって医師自身が不足分を要求するには手間の掛かる申請書や許可証の手続きを一つのミスもなく作成しなければならなかった。
例えその書類が完璧にできあがったとしても、要求した物資がきちんと届くとも限らなかった。
それどころか最悪の場合、上層部から目の敵にされて出世の妨げを被るだけだったのだ。
それを身にしみて理解していた若い医師たちは、やり場のない思いを奮い立たせ、とにかくがむしゃらに業務を行うしか道はなかった。
◇
輸送船の沈没から二数週間ほどが過ぎた十一月下旬。
遂にスクタリ兵舎病院の収容患者数は二千三百人を超えていた。
患者の間では赤痢が蔓延し、発熱に震える彼らから垂れ流された血だらけの下痢に、大量のハエが昼夜の区別なく不快な羽音で飛び回る。
いまや少数となっていた人道的な医師と看護兵は、二十四時間休むことなく働き通し、死んだように眠っては、またすぐに働いていた。
しかし手術の甲斐もなく、傷病兵は日に何十人も死んでいった。
それでも傷病兵の搬入はとどまらず、医師として現場で治療することのない政府の役人ジョン・ホール軍医長は、今ある物資で対処せよと到底無理な命令を善良な医師たちに伝え回っていた。
いよいよ兵舎病院内が地獄のような惨状となっても、看護婦団には医師からの要請は下されなかった。
その地獄の片隅でフローレンスは、決して崩さぬ待機の姿勢を貫き続けていた。
◇
今日の搬入が終わり、数日間放置されていた死体をトルコ人人夫が院内の遺体安置室へ運び、今度は手続きの済んでいた者を斜陽射す裏手の墓地へと運び出していく。
普段なら恐ろしがるその光景に、廊下を歩いていたハンクはただ無気力な表情を見せていた。
当てもなく歩いてやって来た場所は、この病院に初めて来た日、自身が慌てて駆け込んだトイレであった。
この数日放置されていた個室はもはや用を足す場所ではなく、おまる内の汚物を空けるための場所と成り下がっていた。
座便器一面に溢れ返った血便と糞尿が、床に放置されたリネン類に滴っている。
寒さがその腐敗を抑えているにも関わらず、鼻が曲がりそうなほどの刺激臭が立ち込める。
「……」
こんな場所に長居などしたくもなかったが、看護婦塔に戻れば、フローレンスを責めなじる雑言を聞かされるのだ。
それならばここのほうが幾らかましだととどまったハンクの耳に、先ほどまで聞かされ続けていた非難の声がよみがえる。
「婦長様、今日は六十三人の患者がなくなったようですよ?
医者の話では包帯も底を尽きたと……。
これでもまだ陸軍の忠実な僕でいられる婦長様は、
一体何をしにここにいらしたのかしら!
お志が尊すぎて私のような者には理解できませんわ!」
今日もまたその一切に手を出せなかったことを声高に非難するシスター・バーサと共に、今まで不信を募らせていた十数人の団員が「役に立てないのならもう帰りたい」と泣き喚く。
普段はフローレンスに肯定的な者でさえ、三週間をこえたひたすらの待機にその意欲をなくしていた。
兵舎病院の各階に隙間なく横たえられたまま、死を待つだけの傷病兵たちは、この先どう考えても看護婦団に対する要請の皆無さを浮き彫りにしていたからである。
フローレンスの我慢が何を意図しているのかを知っていたハンクでさえも、この待機の長さは彼女への信奉を萎えさせていた。
シスター・バーサの隣で、えらの張った看護婦が角張る頬に不平不満の皺を刻み、がっちりとした肘で腰に手を当てる。
偉ぶった態度をまるで隠さないこの看護婦は、シスター・バーサと同様、フローレンスに対してあからさまに反発的な人物であった。
看護には並々ならぬ熱意があるがゆえ、何かにつけフローレンスの決めた規則を破るばかりで、注意すれば手に負えないほど暴れることもある。
何より赤ワインに目がないこのそばかす顔の看護婦の名は、マーサ・クラフといった。
マーサが酒焼けした赤い鼻で怒鳴る。
「婦長、あたしたちはもう我慢なんてできないんですよ!」
◇
「軍医長、このままでは我々が倒れてしまいます!」
一方医局室では、休みなく働いていた医師たちが疲労で倒れ始めたことを受け、まだ動くことのできる医師からは堰を切ったように不満が噴出していた。
会議場の半分以上を占める空席に、さすがのジョン・ホール軍医長も禿げ上がった頭を抱える。
たかが物資の枯渇が部下である医師の存在意義をこんなにも揺るがせ絶望させてしまうとは、軍隊寄りの思考を持ったジョン・ホールにはまるで想定ができていなかったのだ。
医師の大半は手を施せば助かる患者を見捨て、自室で酒を飲んでは酔っ払って寝るだけの人間に成り下がっていた。
院内が不衛生極まるのと競うようにして、働く者の心も不健康極まっていく。
もはや病院内の軍隊組織は完全に破綻し、崩壊の様相を見せていた。
状況は医師たちだけでどうにかなる範囲を既に超え、いつまでこんな日々が続くのかと、病院内の誰もが途方もない失意に暮れていた。
この狂気じみた悪夢のような混乱が収まり、どうすれば秩序がもたらされるのか、医師も役人も為す術を持っていなかったのである。
◇
「お黙りなさい、マーサ・クラフ。
私はこの仕事をするために、何十年も待って来たのです。
確かにこの兵舎病院での三週間は非常に辛いものでした。
けれども、それはあと数日もありません。
これは間違いのない事です。
辛抱なさい、たった数日など今のあなたたちには容易いはずです」
凛とした深遠の目を持つフローレンスは、泣きじゃくる団員の背をそっとなで、動揺することもなく自室へと帰っていった。
仲間からも疑われ非難されながらも孤独な戦いを続ける彼女は、ひたすら忍耐強くその時がやって来るのを待っていた。
幼い頃から看護に興味を持ち、独学で猛勉強をし、両親に反対されながらも各国の病院へと技術を学びに赴き、既に幾つもの病院で看護改善の実績がある風変わりなレディは、
「このスクタリを地獄からすくい上げるのは洗練された知識と方策、役人に頼らずして惜しみなく使える資金である」
と強く確信していた。
病院の改善を第一の目標に掲げ、医療と看護、果ては患者の健全なる精神の回復までもが自分の使命だと課した彼女は、今やっとその尻尾がこの手に触れたと感じていた。
フローレンスの言葉通り、逃げ場を求めた医師たちが、看護婦団の出動を要請したのはその翌日、真っ青に晴れ渡った十一月三十日のことであった。
【マーサ・クラフ】
実在の人物ですが、容姿や性格などはぐろわフィクションです。彼女はフローレンスの決めた規則にことごとく反発し、勝手気ままに破りに破ったという資料が残っていました。どうやら問題ばかり起こす酒好きの女性だったようです。悪びれた役割上、酒飲み特有の赤ら顔になってしまいましたが、本当は美人だったかもしれませんね。
看護婦団はフローレンス本人によって厳しい面接が行われて選別された人々ですので、看護婦としては優秀であったはず! それはシスター・バーサもしかりなのです。




