1話 燻ぶりの関係
道中で想像していた『貴婦人』とはまったく違った人物像に、ハンクとリタは泥まみれの顔を見合わせて滑稽な顔を浮かべていた。
そして今一度、二人は彼女の頭から爪先まで、失礼なまでに視線を這わせてしまう。
そこへ切迫した様子で現れた中年女性が、修道服で包まれた風船のような丸い体を揺すりながらフローレンスに駆け寄った。
彼女は困惑した表情で高い声を出す。
「婦長! また新しい傷病兵が運ばれて来ました!
それを知ったシスター・バーサが、
何人かと共に看護婦塔から出ようとしています!
今は何とか止めていますが……」
うっすらと白く染まる息を吐きながら肉付きのいい肩を上下する彼女に、フローレンスは鋭く頷いた。
「解りました、シスター・エリザベス。
私は先に向かいます」
シスター・エリザベスが病院の奥へと来た道を戻っていくなか、廊下には詰襟軍服に似た真っ黒な制服を着た男たちが慌しく駆け始める。
絢爛な金の刺繍や勲章を付けていない彼らは、スクタリ兵舎病院に駐屯する従軍医師たちであった。
高い天井にざわめきが広がるなか、フローレンスの眉間にも一層の皺が寄り、彼女はもう話すことはないとばかりにハンクたちに目をやった。
「サマンサ・スミス、リタ・ヒン、
あなた方はさっさとお帰りなさい」
そう言い残すとフローレンスは玄関へと駆けていく。
じめじめとカビ臭い廊下に残されたハンクとリタは、これでは納得がいかぬと彼女の後を追っていた。
二人が玄関に着いたと同時に開け放たれた入り口から鉄砲水のように流れ込んで来たのは、自力歩行すら不可能となったイギリス陸軍兵の群れであった。
血と泥で汚れた身を力なくトルコ人人夫に預けた兵士たちは、抱えられたり、おぶられたりして運び込まれて来る。
中には腕のない者や脚のない者、弱々しいうわ言を呟き続ける者などもあり、誰もが苦痛に顔を歪め、助けを求めていた。
彼らの体にとぐろを巻いた包帯は、一体何日前に巻かれたのだろうと思わせるほどに汚れ、腐敗臭を漂わせている。
ハンクは初めて見た痛ましい兵士の姿に言葉を失い、その場に立ちすくむことしかできないでいた。
勇ましいはずの兵士が死に瀕する姿は、ハンクの幼い胸に生々しい感覚をともなって突き刺さり、鼻を強く突く鉄の臭いは寒気と共に彼の心拍を高めていく。
突然老人の嘲るような罵倒が聞こえ、ハンクは青い顔のまま振り向いた。
蠢く人混みの先に見えたのは、立派な陸軍服に身を包んだ恰幅のよい男性だった。
赤毛の後退した額をフローレンスに向けて対峙している初老の男性は、これ以上ないような嫌味ったらしい口調で権力を振りかざして嘲笑する。
「ほぉ、これは看護婦長!
医者が呼んでもいないのにやって来るとはどういう事ですかな?
我々が看護婦の手を借りたい、
まさかそんな要請が出るとでも思っていらしたか?
ミス・ナイチンゲール」
傷病兵の呻き声のなか、フローレンスはまるで舞踏会にでも出ているかのような微笑と優雅な声色で答える。
「いいえジョン・ホール軍医長、まさかそんな。
私たちは医師の許可なしに、何一つの勝手もいたしません。
私はただもう一度、お伝えしに来ただけですの。
私たちの手が必要ならいつでも仰って下さいと。
私たちには看護する意欲も、持参しました物資もございます。
先生からの指示をお待ちしておりますわ」
フローレンスの言いぶりは、その名にある小夜啼鳥のごとくさえずっていた。
しかしその奥には、それとはまったく不釣合いなほどに熱く滾る鷲の鋭さが爪を広げ、時折言葉の端々を尖らせている。
遠くから響き来るけたたましい足音へハンクが目をやると、廊下の奥から軍医長目がけて駆けて来る十人ほどの看護婦団員が、対峙するフローレンスの姿を見るやその足を遅めているところだった。
先頭にいる一際体格のよい縦長の顔をした修道女が悔しそうに唇を噛み、まるで魔女のような鉤鼻とその横にある大きなほくろに不満の皺を寄せる。
そして人混みの先にいるフローレンスの表情をうかがおうと、細く釣り上がった瞳を懸命に見開いていた。
だみ声のジョン・ホール軍医長は赤い口ひげをひねり上げ、フローレンスを馬鹿にした目で眺めてから鼻を鳴らして言った。
「わざわざそんな事を言いに来られるとは、
まっことお嬢様のお考えは素晴らしいものですなぁ。
……だが我々は、あなたたちを使わなきゃならんほど困ってはいないのだ!
失礼!」
軍医長はそう吐き捨てると、立派な腹を突き出して病室内へと去っていった。
彼の姿を追うハンクの目に、鉤鼻率いる黒衣の群れが映り込む。
そのほとんどが修道服に身を包んだ体の大きい女たちで、何人かは先頭の鉤鼻魔女を慕っているように見えた。
その群れに今やっと追い付いたのは、先ほどハンクの前に現れた丸い体の修道女、シスター・エリザベスであった。
彼女の後ろには十人ほどの中年女性が付き従い、皆揃ってフローレンスと同じ黒い看護制服を身に着けている。
それは俗世離れした直線的な修道服とは違い、首や腰を細めてスカートの後ろを膨らませた一般的な下働き風の服装であった。
頭に乗せる覆い布と首下を詰める襟の白以外に一切の装飾を禁じた黒いドレスには、色も刺繍もドレープすら存在してはいない。
職業看護婦であることを示す看護制服に身を包んだ女性たちは、シスター・エリザベスとともに頼りがいのある体で鉤鼻魔女とその一派をなだめようとしていた。
そのうちに一派の一人が隙をつき、近くの負傷兵にそっと手を伸ばして意識の朦朧とした彼の顔を絹のハンカチで拭き清め始めた。
するとすぐさまフローレンスの声が、刃のように彼女を切りつける。
「何をしているのです!」
優しさなどとは掛け離れた、冷徹な表情のフローレンスが一派を睨みつける。
「私たちがすべき事、それ以外の物事をする事は、この私が許しません」
一切の歪みも見逃さないといった彼女の気迫を受け、一派のみならずその場にいた看護婦は怯えたように小さくなった。
皆物言いたげな唇をぐっと堪え、留まることなく運び込まれる傷病兵の痛ましさを哀れみながら、悔しそうに顔をしかめるほか何もすることができないでいた。
華々しく送り出されたはずのスクタリ派遣看護婦団が、途絶えぬ傷病兵の行列にただ瞳を伏せ、血の臭いが充満する廊下に立ち固まっているという状況は、リタの目から見ても異様なものであった。
鉤鼻の修道女が細い目でフローレンスを見やりながら、魔女のようなふてぶてしさでこれ見よがしな溜め息を吐く。
「これが政府に派遣された看護婦団の仕事だなんて、
私たちはだまされたようなものですわね」
「婦長に対して何という事を、シスター・バーサ……」
シスター・エリザベスが悲しそうな目をして、同じ服を身に着けた彼女の名を呟いた。
つんけんとして去っていくシスター・バーサを、フローレンスは黙って見つめていた。
何人かはシスター・バーサの後を追ってフローレンスのもとを去り、その場に残った者たちからは失意に満ちた不満の声がひそひそと囁き漏れる。
彼女たちの不穏なやりとりに、ハンクは事態の不審さを感じ取っていた。
【シスター・エリザベス】
彼女はフローレンスの率いた看護婦団員で、フローレンスのやり方に友好的だった人物です。実在の人物ですが、容姿や性格はフィクションです。天使にラブソングを…の太ったシスターをイメージモデルにしてみました。