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命と戦った女(ひと) フローレンス・ナイチンゲール  作者: ぐろわ姉妹
第2章 旅は道連れ、イギリスからトルコまで
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7話 冷たい看護婦

 降り立ったスクタリの港は、桟橋があるだけの寂しい代物だった。


憧れの地に上陸したものの、目的地であるスクタリ兵舎病院は小高い丘の上にあり、そこへと続く坂道はまるで困難を形にしたように思えるほど酷くぬかるんでいた。


丘の上で要塞のように端座する大きな病院をしばらく無言で見つめた二人は、どちらともなく、そのぬかるみにブーツの細い足を踏み入れていく。


 幾度も滑り、ずり落ち、荷物もドレスも泥だらけになった二人が息せき切って坂道を登り終えると、石造りのスクタリ兵舎病院は待ち構えていたかのような重々しい存在感で二人を見下ろしていた。


その暗たんとした雰囲気に、リタがごくりと喉を鳴らす。


「これが野戦病院……。

いきなり来ちゃったけど、入れてもらえんのかしら……

だめだめっ、こんな弱気じゃ! 

何としても入れてもらわなきゃ! 

ね、サム――!?」


 リタが横を見ると、そこには真っ青な顔をしたハンクがいた。


鬼気迫る形相で、ただ一点だけを見つめたハンクの額から、脂汗が滲み出る。


ハンクは突如カバンを落として大きく身震いをし、押しつぶした声を呻かせた。


「……駄目……、ぐっ、ああぁ……! 

だめだぁああああ!」


 そう叫んだハンクの声は冷えきったスクタリの空気を引き裂き、泥をまとった重たい靴音は彼の叫びと共に兵舎病院の中へと消えていった。


「ちょっ! ちょっと、サーム! サーー……」


 リタが泥にまみれたカバンを掲げて声を上げる。


振り向きもせずに行ってしまったハンクに、リタは肩をすくめて溜め息を吐いた。


 一方、病院内に駆け込んだハンクは相変わらずの形相で直感的に走り回っていた。


しかもその走る姿は見事ながに股で、股間を押さえた両の手は単純すぎるほどに彼の危機を体現している。


行く先々で驚きの声を浴びせられながら、ハンクはとにかくこの生理現象を処理できる場所だけを探していた。


 ハンクが股間を押さえたまま駆けずり回っていると、掃除用具を手に廊下の先からやって来た黒衣の女性が彼の様子を上から下まで眺め、無言ですぐ側の扉を指した。


ハンクは条件反射でその扉を押し開け、トイレへと飛び込んでいく。


しかし入った途端、止まることのなかったブーツの音がぴたりと止んだ。


「うわっ……何だよこれ」


 ハンクが目にしたものは、各個室内にある座便器から盛り上がるようにして溢れ出た糞尿の山々だった。

その鼻を突く汚物特有の強烈な臭いは、ハンクの尿意をも忘れさせた。


驚きに顔を歪め躊躇したのも束の間、背に腹は代えられぬ切迫感がやはり彼を突き動かし、ハンクは一番手近な個室の扉を引っ掴んで乱暴に鍵を閉めた。


 流れ落ちる水音と共に、危機を脱した安堵から至福の溜め息が漏れていく。


「……ふぅぅぅぅ~……」


 その長々と続く水音を聞き当ててトイレの個室を特定したリタが、呆れた顔をして中のハンクに呼びかけた。


「サマンサちゃーん? 

だからあの時断ってないで、あたしと一緒に港の茂みでしちゃえばよかったのよ。

連れション断るのはお上品で結構ですけどね、

今トイレに駆け込んだあんたの姿は相当マヌケなうえに超お下品だったわよ!」


「ほ、ほっといて! リタがいなきゃ私だってしてたんだから!」


「あーあ、お嬢様って大変よね~!」


 すり切れたような笑い声をあげてちゃかしていたリタが、ようやく個室から出て来たハンクを手招き、泥の付いた二つのカバンをその主人の手に返す。


「出すもん出せたみたいね。

じゃあ行こうか、レディ・フローレンスのところに」


 頷いたハンクはリタの前に立ち、すっきりとした表情で廊下へと出ていく。


すると目の前には、バケツやデッキブラシを傍らに置いた先ほどの女性が、その長身で二人の行く手を塞ぐように立ちはだかっていた。


フリルもレースもないシンプルな黒いドレスを身にまとった長身の女性は、まるで冬の海のように厳しく深い声でハンクへと声をかけた。


「お待ちなさい」


 腰で結んだ生成りのエプロンの上で軽く合わされた両手が、彼女の育ちのよさを物語る。


顎辺りで切り揃えられた栗色の髪には覆い布が被せられ、その布の白さが彼女の凛とした性格を表わすように際立っていた。


「今あなた方は、どこへ行くと言ったのです?」


 強い威厳と高い格式を感じさせる表情でそう訊ねて来た彼女は、白く痩せた顔をハンクに向けた。


 彼女の雰囲気に圧倒され一向に言葉が出ないハンクの後ろでは、リタが彼女の黒衣に気付いて顔をぱっと輝かせる。


「きゃあっ黒服! 

あなたも看護婦団の人なのね!? 

ねぇねぇ、レディ・フローレンスはどこにいるの?」


 嬉しそうに飛び跳ねるリタを細い鼻梁でたしなめ、黒衣の女性はぴんと張った声で、ぴしゃりと言い切った。


「後ろのあなたは一体どこで躾をされたのです? 

人に何かを訊ねるならば、まず自分は何者でどんな目的があるのかを説明すべきではありませんか?」


 人を威圧するその厳かな声に、リタはふんと鼻を鳴らしてから気取った姿勢をとり、これならどうだと言わんばかりに貴族ぶった口調で言い直す。


「あたしはリタ・ヒンです。

前にいるのはサマンサ・スミス。

あたしたち、看護婦団に入れてもらいたくて皆さんを追っかけて来ましたのよ」


 必要以上につんと胸を張るリタに対し、黒衣の女性は暗いグレーの両目をごく僅かに細めて見せた。


その感心とも嘲笑とも感じ取れる表情のまま、彼女が簡潔に対応する。


「それは素晴らしい信念です、

けれども看護婦団は既に完成しておりますので、

これ以上看護婦を入れる気も、その必要もありません。

規則ですのでどうかお引き取り願います」


 そう冷たく言い放って背を向けた女性に対し、ハンクは仕事に戻らせまいと慌てて駆け寄り、その行動を遮った。


「これをレディ・フローレンスにお渡し下さい。

決して軽々しい志でここへ来たのではないことが、お分かりになります!」


 泥だらけの旅行カバンから取り出して突きつけられた書状に、女性はデッキブラシから手を離すと、ハンクを一瞥して無言のまま書状を開く。


リタがその様子を伺いながら、小さな声でハンクに訊ねた。


「ちょっと、今何渡したの……?」


「医者からの紹介状」


 こそこそと会話する二人の前でゆっくりと紹介状を読み上げた黒衣の女性は、その冷静な目を一旦上げ二人の姿を舐めるように見つめる。


そして閉じていた薄い唇を、無駄のない大きさに開いて言った。


「紹介状が本物でも、ここの規則は変わりません。

彼女はこれ以上、看護婦団に看護婦を入れるつもりはないのです。

悪いけれどイギリスへお帰りなさい。

この病院に、あなたたちのような子供は特別不必要なのですからね」


 女性は折り直した書状をハンクの手に戻すと、帰り道を譲るかのように身を壁に寄せ掌を出口へと向ける。


 その斜に構えた態度に怒りを感じたリタが、吠える犬のような顔で怒鳴った。


「あんた! 

あたし達が遊びに来たと思ってんじゃないでしょうね! 

紹介状勝手に見といて取次ぎもしないなんて失礼じゃないのさあんた!」


「ええ、見ましたよ。

あなたの名前がどこにも載ってない紹介状をね、リタ・ヒン」


「……!」


 ばつ悪く口をつぐんだリタに代わり、ハンクは落ち着いた声色で言う。


「私は役に立ちたい、戦場で勇猛に戦う兵士、その名誉の負傷を治す手助けをしたいのです。

どうか、レディ・フローレンスにお取次ぎください。

何でもします、看護婦の仕事じゃなくても!」


 ハンクは並々ならぬ志でここに来たことを真剣な表情で訴えた。


 だが女性は厳しい視線をもって彼を見定め、瞳に拒絶の意を映し出すと、ためらいもなく唇を開く。


「必要ありません。人手は充分足りています」


 その変わることのない言葉にリタは何やら文句を言いながら諦めた様子だったが、ハンクは負けじと顔を上げ彼女が今口にした矛盾を突いた。


「人手が足りているならば、なぜトイレがこんなに汚いのですか?」


「……」


 ほんの一時言葉を失った黒衣の女性が、表情一つ変えずに変わらぬ主張を繰り返す。


「しつこいですよ。

礼節も看護能力もなく、規則にもしたがえない子供に何ができます? 

いえ、何を邪魔せずにいられますか? 

少女のように頼りない者など、この病院には必要ありません」


 この断りの言葉で、遂にハンクの我慢も限界となった。


幾ら子供とはいえ真摯に会話した結果がこれでは、何と性格の悪い女なのか。


はるばるやって来た者への邪険な扱いに加え、当たり前だと解っていながら、「少女のように頼りない」と嫌味まで言うなんて。


ハンクはまたしても看護婦というものの素行の悪さに腹が立ち、強気を爆発させて声を荒らげた。


「あなたじゃ話にならない! 

レディ・フローレンスには、私が直接会いにいきます!」


 旅行カバンを抱えて気のない視線を這わせていたリタがその言葉にはっとし、廊下を突き進むハンクの後ろに素早く続いた。


しかし、数歩も行かぬ間に二人の背中へと放たれた言葉は、ハンクにとって信じがたいものであった。


わたくしで話にならないのであれば、どこへ行こうと同じ事。

スクタリ派遣看護婦団の総監督、フローレンス・ナイチンゲールは、この私なのですからね」


 ハンクがその言葉を理解した時、彼の中で築き上げていた彼女への聖なるイメージが音を立てて崩壊していった。


 悲しみを秘めた花のような貴婦人であったはずのフローレンス・ナイチンゲールは、今ハンクの後ろで鉄のような固い意志を露わにし、荒野のごとき険しい視線を眼中の釘である二人に投げ掛けていた。





【リタ・ヒン】

フランス南端マルセイユの港で出会った娘、リタ・ヒン。

17歳の彼女は、歴史的には実在しない人物です。

彼女は雪芳さんのプロットに当初から存在していたキャラクター。


売春経験のある看護婦という身の上や、これからの展開で誰かさんと恋に落ちるというシーンも、雪芳さんが考えてくださった設定です。

これらは変わることなく作中に残すことができたものの、ハンクに対する役割的なものがだいぶ増えてしまいました。

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