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命と戦った女(ひと) フローレンス・ナイチンゲール  作者: ぐろわ姉妹
第2章 旅は道連れ、イギリスからトルコまで
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6話 知らないとは言えなくて

 レディ・フローレンスの夢をハンクが見た夜から一週間後の昼過ぎ、ハンクたちを乗せた蒸気船は寄港の旨を伝えるべく、大きく汽笛を鳴らしていた。


曇天を切り裂くように長く響いた汽笛に下船準備をしていたリタが、相変わらずの厚化粧で焦りの表情を見せる。


船員から貰ったずだ袋にサービスで置いてあった洗顔用品やタオルなどをこれでもかと詰め込むリタの姿を見ながら、支度を終えたハンクは文句の言えぬ状況に顔をしかめていた。


というのも、リタは耳飾りを返してから一切盗むことをやめ、その代わり巧いことを言っては何かしら貰って来ていたのである。


おかげでハンクの室内は日に日に価値のない生活用品が増え、リタは今日も午前中から一等船室を回りサービスの備品を幾セットか集めてきたようだった。


 今一度鳴り響いた汽笛に下船の始まったことを理解したハンクは、荷物を詰め終えたリタと共にコンスタンチノープル港に降り立った。


目の前に広がる異国情緒たっぷりの街並みを物珍しそうに見渡す二人の耳に、訛りのある拙い英語が聞こえて来る。


「スクタリ方面ー。渡るの、こちらー」


 その声の先に小ぶりの帆船を見つけたリタが、ぎょっとして言った。


「え! スクタリってここから歩いて行けんじゃないのっ!?」


「リタ、スクタリは東向こうの対岸だよ。

私たちの前にあるこの海峡を渡らないと着かないの」


 ハンクが指差した海の先には、肉眼でもはっきり見てとれる陸地が横たわっていた。


対岸となるスクタリとハンクたちの立つコンスタンチノープルは、二キロ程度しかないボスフォラス海峡を挟んで突き合わさるような形で存在している。


「……悪いけれどリタ、私もう、船賃一人分しか持ってなくて……」


 リタと離れる好機ということも忘れ、ハンクが掌に乗せた全財産を申し訳なさそうに示す。


リタが見たところ確かにその金額では、どんなに巧い交渉をしても二人は乗れそうになかった。


彼女はハンクの掌をぐいと突き返してバッチリ片目をつぶると、不敵な笑顔でハンクに言った。


「ふふん、大丈夫よ。

船賃くらいならあたしだって持ってるから。

……って何よ! その目。

……盗んでなんかないわよ。

この金は、船であたしが、この身一つで稼いだんだからね!」


 リタの言葉に疑心の表情を一転させたハンクは、図らずも自身の躾が一人のならず者を更生させたのだと喜んだ。


気を良くしたハンクは幾分か胸を張り、小さな船へと乗り込んでいく。


 ハンクとリタだけを乗せた帆船が桟橋を離れてスクタリへと進み始めると、二人は離れゆくコンスタンチノープルの街を名残惜しそうに眺めていた。


イギリスでは見たことのない独特の丸屋根が斜面を成す山を埋め、目と鼻の先にある対岸の野戦病院を見つめるように佇んでいる。


 その視線に誘われてスクタリを見やったハンクは、対岸の沈滞した風景にいささかの不安を感じていた。


なぜならスクタリからは、お世辞にも勇者の休養する雄々しい雰囲気を感じ取ることができなかったからである。


 ゆっくりと近付いて来るスクタリに異様な大きさで横たわる兵舎病院を見つめるハンクは、ふと、看病と看護の違いに悩み首をひねった。


自分が病に伏した時に母親がしてくれたことが看病であると考えると、看護とは看護婦がしている看病以外のものだろう。


それらがきっと忌み嫌われる要因なのだと予想したハンクは、一番理解の遠い単語をリタに向かって訊ねることにした。


「……ねぇリタ、……『ばいしゅんふ』って、どんな看護をするの?」


 重く開かれた口は、これからスクタリの野戦病院で誰よりもたくさんの兵士たちを看護するのだという使命感だけで動いていた。


 海風になぶられる髪を手で押さえていたリタが、唖然とした顔で振り向きその細い眉を大袈裟に上げて見せる。


「嘘でしょサム! 

あんたそんなことも知らないで看護婦になろうっての!」


 リタの反応から『ばいしゅんふ』は相当基本的な看護なのだと推測したハンクは、スクタリの地でそんなことを聞いては男が廃ると思い、素早い頷きを何度もして見せた。


そんなハンクに対してリタは閃いたような笑顔を見せ、意味深にしなを作って囁く。 


「……あぁそう、お嬢様決め込むつもりなのねぇ、ウブでいいんじゃない? 

まぁ看護婦になろうってんだから、そこそこしたたかだとは思ってたけど……。

やるわねぇ、これじゃあたしも負けてらんないなぁ。

……実はさ、あたしまだ兵士に売ったことってないのよね! 

だからちょっと楽しみなんだー♪」


 そう言うとリタはハンクの肩を叩き、もうすぐにでも岸に着いてしまいそうな船首へと駆けていった。


 結局看護婦が行う看護の部分がさっぱり解らぬまま、ハンクの頭の中では酒を飲んで盗みをする品の悪いならず者というイメージの看護婦像が揺るぎなくなっていた。


そして看護婦は患者相手に何かを売る看護をしているようだということも予想ができたハンクは、果たして自分にその商品が手に入るのだろうかと思い悩み、細く吐いた白い溜め息を曇天の風に舞い上がらせていた。




【ボスフォラス海峡】

ボスフォラス海峡はトルコの領地です。

ヨーロッパとアジアが交差するトルコですが、この海峡が両者を隔てるラインになるようです。

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