初めての…
軍界基地内のとある廊下――――
「わくわくしちゃう!私こういう緊張感大好き!」
「しっ……さっきから声が大きいぞ。見つかったらどうする」
「あら、それはそれで楽しいじゃない。追い掛けられるスリル感も好きよ、私」
「冗談じゃない、そうなれば即合格取消だ。なぁ、
ルーク」
「別に。逃げ回るってのも嫌いじゃない」
予想に反したルークの答えに面食らったテトは額に手を当て首を横に振った。それが可笑しくてルカは小さく失笑した。しかし直ぐに不穏な気持ちになり顔色を沈ませた。
ここまで何も言わず黙って付いてきたがルカの胸は極度の緊張からくる苦痛で張り裂けそうだった。テトの言う通り誰かに見つかったらどうしよう、父や祖父にバレたら……それだけは何としても避けたかった。
スグナ家で一番怒ると怖いのはセヴィルだ。小さい頃からシャナと度を超えた悪戯をする度に二人揃ってセヴィルからキツい仕置を受けた。細い鞭で尻を1発叩かれるのだ。それを思い出すだけで尻に熱い痛みが蘇ってきた。その代わりセヴィルは仕置の後必ずルカとシャナを優しく抱き締めてくれた。その抱擁は温かく心地よく愛に溢れていていつもとは違う意味が込められているようにルカには感じた。
対して父親であるヴィルは全くと言っていい程怒る事も叱る事もなかった。いつも朗らかに微笑んでいて、仕事から帰って来ると疲れているのに精一杯遊んでくれた。自分を肩車して屋敷中を走り回ったり、白い愛馬に乗せて野原を駆けたり……ルカはそんな父が大好きだった。
でも――たった一度だけ父に叱られた事があった。
それはルカが6歳の時だった。
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ある日、ルカは母のいいつけを守らずに屋敷の外へ探検に出掛けた事があった。好奇心に負けてしまったのだ。母や父と歩いていれば「そっちは行っちゃいけない」だの「危ないから手を繋ごう」だの口うるさくて行動範囲が限られてしまう。だからどうしても一人で外を散歩してみたかったのだ。勿論、すぐに帰るつもりだった。
しかし――
「あれ?この道、知らない」
気の向くままに歩いてきたルカには帰る方向が分からなかった。気付けば澄み渡る草原を通り抜け、奥めいた森林地帯へと踏み入っていたのだ。先程まで明るくキラキラと輝いていた森が一変。薄暗く、気味の悪い雑草だらけの獣道にしか見えなくなっていた。
「怖い……ここ、どこ?…お母さん、お母さん!!父様!!」
真っ暗になっていく森の中でルカは必死に叫んだ。
途中何度も転び膝や顔は擦り傷だらけだ。涙と血でぐしょぐしょになった顔を手で覆いながらルカは歩いた。疲れきった足を引きずりながら…歩き続けた。
「っ!?……」
何かが唸り声をあげた。狼だ。その声があちらこちらから聞こえとうとうその場にへたれこんでしまった。気付けば四方は狼達に囲まれている。闇の中で光る獰猛な目に残されていた僅かな体力を奪われた。その時初めてルカは"死"を感じた。感じると同時に身体から一気に力が抜けていくのが分かった。
(死ぬのって痛いのかな。父様とお母さん、私が死んだら泣いちゃうかな)
ぼんやりと喪失しきった頭で考えている内に目の前には歯を剥き出しにした凶暴な狼達が徐々に近付いてきていた。恐ろしい狼達を前にしてもルカはもう何も感じなかった。早く終わればいいのに…、そう思いながら目を瞑った。
グルルル…
大きな狼が飛びかかってきた。
重たい体にのしかかられ、ルカは仰向けに倒れた。それでも固く瞑った目は開かなかった。
(暖かい毛皮……)
呑気にそんな事を思いながら最期の瞬間を待った。
首?腕?…お腹?襲われる部位を予想していた。
しかし――
「…………?」
まてども待てども身体に覆いかぶさる狼は自分を攻撃してこない。ルカは少しだけ目を開けた。そして「あ…」と声を漏らす。
「父様……」
見慣れた白髪、見慣れた天鵞絨色の軍服――正真正銘の父がルカの前にいた。幼い娘を守る為片腕を犠牲にして……
「父様!!」
狼は容赦なくヴィルの腕に牙を食い込ませている。拍子で飛び散った血が後ろにいるルカの顔にも掛かった。
「ルカ、目を閉じてなさい」
落ち着き払ったヴィルに言われるがまますぐに目を閉じた。その直後からルカの耳に届いてきたのは何かを切り裂く音と狼達の悲鳴。それだけだった。
どのくらいそうしていたかは分からない。
「もういいよ」
父の優しい声がした。
ゆっくりと目を開けると辺り一帯には死骸になった狼が何体も転がっていた。胴体を真っ二つにされたもの、首を斬られているもの、内臓が腹から出てきているもの――多数の死骸が作った血まみれの中心にヴィルは佇んでいた。一視に自分を見つめて……
「…ルカ」
狼の返り血を浴びたその顔に笑顔はなかった。緋色に光るその両の目はただ悲しげに娘を見つめている。してしまった誤ちを前にルカには父に返す言葉も出なかった。
「ルカ」
さっきの様な優しいものではない。
いや、生まれて初めて聞く恐い声だ。背中がびくんと反応する。
「ルカ。顔をあげなさい。父さんの顔を見るんだ」
有無を言わさない厳しい口調だ。
おずおずと顔と目線をあげた。その瞬間ルカは泣きそうになった。父の厳しい目線に耐えれそうになかったのだ。何より血のように真っ赤な瞳に威嚇されてるようだ。
「どうして1人で屋敷の外に出たんだ?」
「さ……散歩したかったから」
「いつも母さんや父さんはルカに何て言ってた?独りでは?」
「遊びに行ってはいけません」
「そうだね。………どうしてか分かる?」
不意に伸びてきた父の腕に肩を掴まれた。父の血なのか狼の血かは分からないがその手は真っ赤に染まっていた。噛み砕かれた腕からは止めども無く黒い血が流れている。胸が苦しくなるのを感じた。再び目線を下げると小さな声で答えた。
「あぶないから」
「そうだ。父さんと母さんはルカに意地悪をして遊びに行くなと言ってるんじゃない。ルカが傷つかないように、怖い思いをしないように…お前を護ろうとして言ってるんだよ。わかるね?」
「……うん」
「父さん達の言う事をルカが守ることはルカの為になるんだ。それを忘れてはいけないよ」
「……うん」
「それから――」
「…………?うわっ!!?」
いきなり強い力で抱き締められルカは驚いた。平手打ちの1発でもされると思っていたからだ。予想外の父の行動に開いた口が塞がらない。自分を抱き締めたまま動かない父に話し掛けようとした時――
「無事で良かった。本当に、良かった」
「え……」
涙ぐんだ声で父はそう言ったのだ。
それを聞いた途端、我慢していた全ての感情が弾けた。それは涙と声に変わり、ルカは父の肩にうずくまり泣いた。温かくて何度も嗅いだ事のある父の優しい匂いが涙腺を更に弛ませ、平穏が訪れた夜空にはルカの泣き声だけが響き続けた。




