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千の蕾  作者: 峯岸 昴
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第25話 第六章 木の声

 翌朝――。


 まだ空には星が残り、辺りは薄墨を流したように暗かった。

 ドン、ドン、ドン! 勢いよく雨戸を叩く音が、静寂を容赦なく破る。


「新九郎ー! 起きろー! 寅の刻だぞー!」


 布団の中で、ビクッと目を開けた。


「……もう朝?」


 眠気の残る重い体を起こして外を見る。夜明けにはまだ程遠い。

 再び、ドンドンと戸を叩く音が響く。


「新九郎ー! 早くしろ、親方に遅れたら俺まで怒られるんだ!」


 その必死な声に、思わず笑ってしまった。


「今行きます!」


 慌てて着物を羽織り、戸を開ける。

 そこには、顎が外れそうなほど大きな欠伸をしている源蔵がいた。

 目の下にはうっすらと隈ができている。


「おはようございます」

「……おはようを言うには早すぎる」


 源蔵は半分閉じた目で、じろりと恨めしそうに睨んできた。


「お前が親方の直弟子になるから、俺まで寅の刻起きだ」

「すみません」

「謝る暇があるなら歩け。立ってたら寝ちまう」

「それ、俺のせいですか」

「他に誰がいる」


 二人のやり取りを聞いていた佐吉が、家の中から吹き出した。


「はっはっは! 源蔵、しっかり頼んだぞ」

「わかってるよ。親方に言われた以上、ちゃんと面倒見るよ」


 源蔵は肩を落としながらも頷き、こちらを見た。


「ほら、行くぞ。親方は待ってくれねぇからな」

「はい」


 まだ薄暗い城下町を、並んで歩き始める。

 修業初日の朝が、静かに始まろうとしていた。


*


 夜明け前の裏山の畑。朝露に濡れた冷たい土を踏みしめながら、親方の小さな背中を追う。


 源蔵は大きな欠伸をしながら、使い込まれた鍬(くわ)を肩に担いでいた。


「親方」


 思い切って尋ねる。


「どうして、修業の最初が畑仕事なんですか」


 親方は歩みを止めない。しばらく黙っていたが、やがて口を開いた。


「新九郎。人は何で生きている」

「……食べ物、ですか」

「そうだ」


 足元の畑を見つめる。


「どれほど腕の立つ侍でも、食わねば生きられん。この土が人を養っておる。だが、種を蒔いたところで、明日すぐに実るわけではない。人を斬るのは一瞬じゃ。だが、一つの命を育てるには、長い年月と多くの手がいる」


 親方は足元の土を一握り掬い、畑へ戻した。


「剣を学ぶ前に、その苦労を知れ。……持て」

「はい」


 渡された鍬を受け取る。


「まず、この畝の間の土を起こせ。芽には触れるな」


 鍬を構え、畑へ足を踏み入れようとした。


「待て」


 鋭い声に足が止まる。


「足元を見ろ」


 視線を落とすと、踏み出そうとした先に、小さな芽が顔を出していた。


「……危なかった」

「鍬を置け。芽の近くは手で草を抜け。何を残し、何を取り除くか。よく見てから手を動かせ」


 慌てて鍬を下ろし、畝の脇にしゃがんで慎重に草を抜き始めた。

 源蔵も隣へしゃがむ。


「最初はみんな踏むんだよ。俺なんて、親方に何度怒られたことか」


 親方が振り返った。


「何度ではない。毎日だ」


 一瞬、静まり返る。


 次の瞬間、「ぶっ!」と思わず吹き出してしまった。

 源蔵はガックリと肩を落とす。


「親方……そこまでハッキリ言わなくても」

「事実だ」


 職人たちには決して見せない、小さな笑みだった。

 源蔵は頭をかきながら苦笑する。


「新九郎。親方は褒めることは少ねぇけど、ちゃんと見てくれてる。怒られなくなったら一人前ってことだ」

「違う」


 親方は首を横に振った。


「怒られなくなった時は、教えることがなくなった時だ。人は死ぬまで学ぶ。私も同じだ」


 草を抜く手を止め、親方を見つめた。

 伝説の剣士・柳生宗玄ほどの人物が、自分もまだ学んでいると言う。

 その言葉の重みが、胸に深く刻まれた。


 手の甲で額の汗を拭う。

 たかが草取り。そう思っていた。


 しかし、中腰の姿勢は腰を砕きそうに重く、土を握る腕もじんわりと疲労している。


「……思っていた以上に大変だ」

「だろ? 俺も最初は同じこと言ったよ。畑なんて楽だと思ってたってな」


 隣で笑う源蔵の声を聞きながら、畑を見渡す。

 朝早くから土に向き合い、汗を流す。

 その後は一日中工房で木と向き合うのだ。

(親方は……いつ休んでいるんだ)


 小さな背中を見つめていると、親方は振り返ることなく口を開いた。


「新九郎、疲れたか」

「はい。想像していた以上です」

「今日はここまでだ」


 親方が鍬を肩に担ぎ、朝餉へ戻ろうとした、その時だった。


「待て」


 東の空で、ちょうど朝日が山の稜線から顔を覗かせようとしていた。

 世界を染め上げる黄金色の光が、少しずつ大地を満たしていく。


「二人とも、こちらへ向け。目を閉じろ」


 言われるまま目を閉じる。


「左手を胸に当てろ」


 左胸へ手を置く。微かな鼓動が伝わってくる。


「ゆっくり息を吸え。……そして、ゆっくり吐け」


 朝の冷たく澄んだ空気が肺を満たし、ゆっくりと流れていく。

 風の音と、小鳥のさえずりだけが響いていた。


「感じろ。……自分の命を」


 手のひらに伝わる鼓動。ドクン、ドクン。

 あの夜、刺客の刃が迫った瞬間を思い出した。


 影が現れなければ、今ここに立っていない。(……生きてる) 胸を押さえる手に、少しだけ力を込めた。


 隣の源蔵は薄目を開け、不思議そうに首をかしげている。


「親方。要するに、朝日が昇って明るくなったってことですよね? 暗かったのが明るくなっただけじゃ……」


 呆れたように、だが愛おしそうに親方がふっと笑った。


「……それでいい」

「新九郎。命はな、預かっているものじゃ」

「……預かっている?」

「そうじゃ。親から受け継ぎ、多くの者に支えられながら生きておる。己一人の力で生きている者などおらん。だから、粗末にするな。お前自身の命もな」


 胸に当てた手を見つめる。


「自分の命を守れぬ者に、他人の命は守れん」


 脳裏に、あの夜庇ってくれた影の姿が浮かんだ。


「親方の話はやっぱり難しいなぁ。俺は、とにかく腹が減ったってことしか分かりません」


 腕を組む源蔵を見て、親方は笑った。


「それでよい。腹が減るのも生きている証だ。命ある者だけが腹を空かせる」

「そう言われると、腹が減るのも悪くないですね」


 源蔵の照れ笑いに、思わず笑みがこぼれる。


 しかし、その奥では一つの決意が静かに芽生えていた。


 この人から学びたい。木工や畑仕事だけではない。生きるとは何か。命とは何か。この時代で生き抜く術と、人として最も大切なことを、この親方は教えてくれる。


 朝日に向かって静かに一礼した。親方は何も言わなかったが、その目には弟子の成長を見守るような穏やかな光が宿っていた。


「行くぞ」

「へい!」


 三人は朝日に照らされた畑を後にし、工房へ向かう。朝の空気は澄み渡り、町も少しずつ目を覚まし始めていた。



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