第1話 第一章 ふたつの顔
むせ返るような青葉と、湿った腐葉土の匂い。聞き慣れない鳥の鋭いさえずりが、耳に突き刺さった。
「……ん」
重いまぶたを開く。見慣れたワンルームの天井ではなく、巨大な木々の枝葉から青空が覗いていた。 背中にあるのはベッドのスプリングではなく、ゴツゴツとした木の根と冷たい土の感触だ。
「……ここ、どこだ?」
頭が重い。跳ね起き、辺りを見回す。 人の気配はない、見覚えのない深い森だった。
慌てて自分の身体を見下ろす。
昨夜、着の身着のままでアパートのベッドに倒れ込んだ姿そのままだ。 仕立てのいい濃紺のスーツに、首を締め付けるシルクのネクタイ。少し土埃を被っただけの黒い革靴。左腕では、腕時計が正確なリズムを刻んでいる。
深い緑に包まれた大自然の中で、自分の姿はひどく不気味に浮き上がっていた。
「誰かいるのか!」
叫んでみたが、驚いた鳥が飛び立つ羽音と、自分の声のこだまが返ってくるだけだった。
ポケットを探る。スマートフォンも、財布も、社員証も残っている。 昨夜電源を切ったことを思い出し、長押しして起動させた。画面には無情にも『圏外』の文字。 拉致されて山に捨てられたのか? いや、それにしては衣服に乱れがない。
警戒しながら獣道を数歩進んだときだった。
「……え?」
十メートルほど先の巨木の根元に、うつ伏せに倒れている若い男がいた。 だが、その服装を見てピタリと足が止まった。
藍染の粗末な野良着。手首や足首には脚絆が巻かれ、帯には鉈のような刃物が差してある。
足元は泥まみれの草鞋。時代劇のセットでしか見たことのない装いだ。 現代の日本で、こんな格好をして山に入る人間がいるだろうか。
「あの……大丈夫ですか!」
駆け寄り、男の肩をつかんで仰向けに返した瞬間――。
「……っ!」
弾かれたように手を離し、尻餅をついた。 呼吸が止まる。男の顔は――自分だった。
鏡の反射ではない。
無造作に伸びた長い髪も、麻の着物もまるで違う。それなのに、目元も、鼻筋も、顎の輪郭も、見分けがつかないほど完全に一致している。
左の手首には、泥に汚れた細い麻の編み紐が巻かれていた。
「なんだよ……これ」
震える手を伸ばし、首筋へそっと触れる。氷のように冷たい。脈はない。すでに完全に息絶えていた。
ありえない。自分と同じ顔をした男が、目の前で死んでいる。 極度のストレスが見せる幻覚なのか。必死に理性をかき集めようとした、その時だった。
「この辺りだ!」
「急げ!新九郎を探せ!」
遠くから、荒々しい男たちの声と、草木を踏み折る足音が近づいてきた。
反射的に、目の前の『自分と同じ顔の男』を見る。
――新九郎? それが、この男の名前なのか?
考えている暇はない。革靴で腐葉土を蹴り、近くの大木の陰へ飛び込んで息を潜めた。
直後、柄の悪い四人の男たちが周囲を警戒しながら現れた。
「他に誰かいた形跡は?」
「ありません」
「ならいい」
年長らしき男が、低く冷たい声で指示を出す。
「余計なことは話すな。この件はこれで終わりだ」
四人は手際よく遺体を布で包み、竹の担架へ乗せた。
誰も男の顔を見ようとしない。
まるで、最初からこうなることを知っていたかのように。
木の陰で口を手で覆い、異様な光景を見つめる。
心臓がうるさいほど早鐘を打っていた。
やがて男たちは遺体を担ぎ、森の奥へと足早に消えていった。
足音が完全に消えるまで、一歩も動けなかった。
「……何なんだよ、あれ」
ガタガタと震える唇からつぶやきが漏れる。何一つ理解できないが、本能が激しい警鐘を鳴らしている。
――ここにいてはいけない。
慎重に木陰から抜け出し、男たちが消えたのとは反対の方向へ、転がるように歩き始めた。
どれくらい歩いただろうか。不意に視界が開け、小さな川が現れた。
崩れ落ちるようにしゃがみ込み、両手ですくった冷たい水で何度も顔を洗う。火照った頬と混乱する頭が、少しだけ冷えていく。 濡れた顔をスーツの袖で乱暴に拭い、震える手で再びスマートフォンを取り出した。
画面に表示された時刻は、アパートで眠りについた翌朝のもの。
相変わらず『圏外』だが、中央の通知に釘付けになった。
『ちゃんと話そう。お願い。』
差出人は「星野美香」。その名前を見た瞬間、胸をギリギリと締め上げるような痛みが襲った。
時間感覚がおかしくなっている。得体の知れない森に迷い込んだのは事実だが、あの別れは間違いなく「昨日」の出来事だった。
――数日前、現代。




