↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
千の蕾  作者: 峯岸 昴
PR
1/25

第1話 第一章 ふたつの顔

 むせ返るような青葉と、湿った腐葉土の匂い。聞き慣れない鳥の鋭いさえずりが、耳に突き刺さった。


「……ん」


 重いまぶたを開く。見慣れたワンルームの天井ではなく、巨大な木々の枝葉から青空が覗いていた。 背中にあるのはベッドのスプリングではなく、ゴツゴツとした木の根と冷たい土の感触だ。


「……ここ、どこだ?」


 頭が重い。跳ね起き、辺りを見回す。 人の気配はない、見覚えのない深い森だった。


 慌てて自分の身体を見下ろす。


 昨夜、着の身着のままでアパートのベッドに倒れ込んだ姿そのままだ。 仕立てのいい濃紺のスーツに、首を締め付けるシルクのネクタイ。少し土埃を被っただけの黒い革靴。左腕では、腕時計が正確なリズムを刻んでいる。


 深い緑に包まれた大自然の中で、自分の姿はひどく不気味に浮き上がっていた。


「誰かいるのか!」


 叫んでみたが、驚いた鳥が飛び立つ羽音と、自分の声のこだまが返ってくるだけだった。


 ポケットを探る。スマートフォンも、財布も、社員証も残っている。 昨夜電源を切ったことを思い出し、長押しして起動させた。画面には無情にも『圏外』の文字。 拉致されて山に捨てられたのか? いや、それにしては衣服に乱れがない。


 警戒しながら獣道を数歩進んだときだった。


「……え?」


 十メートルほど先の巨木の根元に、うつ伏せに倒れている若い男がいた。 だが、その服装を見てピタリと足が止まった。


 藍染の粗末な野良着。手首や足首には脚絆が巻かれ、帯には鉈のような刃物が差してある。

 足元は泥まみれの草鞋。時代劇のセットでしか見たことのない装いだ。 現代の日本で、こんな格好をして山に入る人間がいるだろうか。


「あの……大丈夫ですか!」


 駆け寄り、男の肩をつかんで仰向けに返した瞬間――。


「……っ!」


 弾かれたように手を離し、尻餅をついた。 呼吸が止まる。男の顔は――自分だった。


 鏡の反射ではない。


 無造作に伸びた長い髪も、麻の着物もまるで違う。それなのに、目元も、鼻筋も、顎の輪郭も、見分けがつかないほど完全に一致している。


 左の手首には、泥に汚れた細い麻の編み紐が巻かれていた。


「なんだよ……これ」


 震える手を伸ばし、首筋へそっと触れる。氷のように冷たい。脈はない。すでに完全に息絶えていた。


 ありえない。自分と同じ顔をした男が、目の前で死んでいる。 極度のストレスが見せる幻覚なのか。必死に理性をかき集めようとした、その時だった。


「この辺りだ!」

「急げ!新九郎を探せ!」


 遠くから、荒々しい男たちの声と、草木を踏み折る足音が近づいてきた。


 反射的に、目の前の『自分と同じ顔の男』を見る。


 ――新九郎? それが、この男の名前なのか?


 考えている暇はない。革靴で腐葉土を蹴り、近くの大木の陰へ飛び込んで息を潜めた。


 直後、柄の悪い四人の男たちが周囲を警戒しながら現れた。


「他に誰かいた形跡は?」

「ありません」

「ならいい」


 年長らしき男が、低く冷たい声で指示を出す。


「余計なことは話すな。この件はこれで終わりだ」


 四人は手際よく遺体を布で包み、竹の担架へ乗せた。

 誰も男の顔を見ようとしない。

 まるで、最初からこうなることを知っていたかのように。


 木の陰で口を手で覆い、異様な光景を見つめる。

 心臓がうるさいほど早鐘を打っていた。

 やがて男たちは遺体を担ぎ、森の奥へと足早に消えていった。

 

 足音が完全に消えるまで、一歩も動けなかった。


「……何なんだよ、あれ」


 ガタガタと震える唇からつぶやきが漏れる。何一つ理解できないが、本能が激しい警鐘を鳴らしている。


 ――ここにいてはいけない。


 慎重に木陰から抜け出し、男たちが消えたのとは反対の方向へ、転がるように歩き始めた。


 どれくらい歩いただろうか。不意に視界が開け、小さな川が現れた。


 崩れ落ちるようにしゃがみ込み、両手ですくった冷たい水で何度も顔を洗う。火照った頬と混乱する頭が、少しだけ冷えていく。 濡れた顔をスーツの袖で乱暴に拭い、震える手で再びスマートフォンを取り出した。


 画面に表示された時刻は、アパートで眠りについた翌朝のもの。

相変わらず『圏外』だが、中央の通知に釘付けになった。


『ちゃんと話そう。お願い。』


 差出人は「星野美香」。その名前を見た瞬間、胸をギリギリと締め上げるような痛みが襲った。


 時間感覚がおかしくなっている。得体の知れない森に迷い込んだのは事実だが、あの別れは間違いなく「昨日」の出来事だった。


――数日前、現代。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。