エピローグ 俺は君と生きていたい
トオが暮らす片田舎の村を後にした男は、そのままあるべき場所へ帰りました。
ただ光だけがある場所。あるいはのどかな桃畑、もしくは空の彼方にある透明な地平。そこは六蔵が光の声を聞いた場所です。
「גיבור」
男が適当なところに腰掛けると、どこからともなく聞こえてきた声が、男の名前を呼びました。
男は面倒臭そうにため息をつき、「何だ」と尋ねて頬杖をつきます。男の前に、一匹の白蛇が現れました。
「私は君に、新しい物語を与えた覚えはない」
「そうだな。私も与えられた覚えはない」
「ではなぜ、あの村へ行った?」
「私は私だ。どこへ行こうと私の勝手だろう」
白蛇が黙り込み、男が「話はそれだけか?」と言って宙に右手を伸ばします。何かを掴む仕草をすると、その手に桃の実が現れました。
白蛇が「君は……」と言い淀み、
「君は、自分がしたことをわかっているのか?」
男は桃に齧り付き、飲み込んでから「もちろん」と答えます。
「道に迷っていたら、偶々、近くの村の娘と出くわした。その娘は偶々私と目的地が同じで、彼女は偶々、一緒に行くことを提案した」
「そういうことを聞いているのではない」
「私はその恩返しに、彼女の家にある猟銃の手入れをした。使い方を教えたのはついで。偶々思いついただけのこと」
あっけらかんとした様子で語る男に、白蛇は「それだけではないだろう」と言いました。男は「ん?」と演技じみた動きでとぼけて見せ、
「ああ、そうだな。素人ながらの手入れだったから、照準器の歪みを直すつもりで余計に歪ませてしまった」
空いた方の手をひらひら振って答えました。白蛇が「גיבור」と男を呼び、男はそれに答えず、また桃を一口。
「君は、何を考えている?」
白蛇の問いに、男はまた桃を齧りました。飲み込んで、また齧り、また飲み込む。彼が残った種を放ると、それは弧を描いて飛んでふつりと消えました。
「それはお前が一番よく知っているだろう。何せ、私たちを造ったのはお前なのだから」
男の声が響き、霧散し、静寂が周囲を満たします。白蛇は小さくため息をつくと、そろそろとどこかへ這って行きました。
* * *
パチパチと焚き木が爆ぜる音と、体を包む温かな空気。頭に何かが触れる感触に重い瞼を持ち上げると、こちらを見下ろすトオが「ああ、よかった」と微笑んだ。
「なんで……」
考えるより早く呟いて、俺は自分が人間の言葉を話していることに気がついた。
「あれっ……」
驚いて起きあがろうとしたら、右の肩にずんとした激痛が走った。「うっ」と呻いて動きを止めると、「ダメだよ、動いたら」とトオにそっと体を押され、横になる。
それでやっと、自分が布団に寝かされていることと、ここが彼女の家の中であることに気づいた。やはり俺は、何をやるにも遅くて鈍い。
「ねえ、これはどういうことなの?」
トオが尋ねるが、俺は何を聞かれているのかわからない。『これ』とは一体何のことだろう。
俺が人間の言葉を話していることだろうか。それとも、撃たれたのに死んでいないことか。
考えていたら、トオが隣に置いていた袋を手にした。蔓を雑に編んだ、不恰好な袋。俺が持ってきたものだ。
「あなた、神様なの?」
俺が「違う」と答えると、「じゃあ、あのキツネ?」と尋ねる。
「……ああ。そうだ」
瞬時に、頭の中で後悔がぐるぐると回り出す。
俺のせいで、トオが父親にウナギを食べさせてやれなかったこと。
俺のせいで、彼女がイワシ売りに殴られたこと。
俺のせいで、俺のせいで。
「トオ、俺っ……」
謝ろうとしたら、彼女が「じゃあ……」と言って俺の頬に手を置いた。何だか感覚がいつもと違う。毛を挟まず、直接皮膚を撫でられる感触。
「あなたは、六蔵なの?」
俺はそこで飛び起きた。遅れてきた激痛を無視して、体に掛けてあった布団を捲る。
そこに狐色の毛はなかった。古い着物を纏う人間の体がある。
「そ、うだ」
それから、彼女を振り返る。
「俺の名前は、六蔵。……お前が、つけてくれた……」
今、俺には言葉がある。
「ごめん。……トオ、ごめん。ウナギを取ってごめん。イワシを盗んでごめん。そんなものしか、持ってこれなくてごめん」
伝えたいことを伝えるための言語がある。
「村に来たら危ないって、お前は教えてくれたのに。言いつけ破ってごめん。死ぬところ、見せてごめん」
言語は思考だ。ものを考えるためには、考えるための言葉が要る。形がなければ、自分の中にあるものさえ理解することはできない。
今更だ。俺はいつも遅い。でもわかった。言葉にすることで気づいた。俺が一番伝えたかったこと。
「名前をくれて、ありがとう」
俺の言葉に、彼女は「本当に、六蔵なんだね」と驚いた顔をして、
「大きくなってるから、気づかなかったよ」
そう言って微笑む彼女は、やっぱり誰より優しい人だった。




