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○○作家の鉄板めし ~地獄の釜を囲んで獄卒と~  作者: 中村ねり


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十一月はじめの水曜『蕩心のチーズダッカルビ』~参話・後編~

 鶏肉は唐揚げ用を買ってきたので、ちょうど大きめの一口大、そのままでいい。切るのは野菜たちだ。

 キャベツはざく切り、玉ねぎはくし切り、さつまいもは火が通りやすいように少し細めの拍子木切りに――と思ったが、ほくほく食べたいのでやっぱり少し大きめにカット。


「で、文明の利器にお助けいただこう。レンチンすれば、中までほっくり」


 自動メニューの『茹で野菜』をピッと押すだけで、レンジがよしなに計らってくれる。なんとも便利な機能だ。


「後で焼くから、弱め仕上がりでいいかな。さ、次は一番肝心なところ」


 レンジが稼働している間に、肉の味付けだ。

 ボウルに鶏肉を入れ、そこに調味料を次々と投入していく。


「コチュジャンたっぷり! それに醤油と酒と、砂糖、おろしニンニク、生姜も少し。あとは大事な粉唐辛子ね。これを揉み込んで……」

「おお……なんと赤い。まるで血の池地獄の澱みのような」

「そうそう、韓国料理って赤い印象があるよね。日本の料理は茶色いけど。基本のベースがジャン系と醤油系の違いかな」

「ふむ。この鼻を突く刺激的な香りは」

「唐辛子だね。あんまり吸い込むと鼻が痛くなるよ」


 揉み込んだ肉を少し置いて味を馴染ませている間に、脚立を用意する。

 心得たもので、隣で戸棚を開けた千寿が油を前に問う。


「どれを使う?」

「ごま油。たっぷりめで!」

「承知した」


 あっという間に熱々になっている鉄板の上に、慣れた手つきで千寿が油を垂らした。

 焼けた鉄に油が乗ると、それだけでもう空腹を刺激する匂いが漂ってくる。


「よいぞ!」

「では、いきます」


 まずは味付けした鶏肉から。

 真っ赤なタレをしっかり纏った鶏肉を投入すると、「ジュワァッ!」と油の爆ぜる音と共に香ばしい匂いが広がる。


「なんと……! 暴力的なまでに食欲をそそる、ゲホッ、この刺激的な……ゴホッ、まるで焦喚地獄の炎のように……ゴホッ、目と鼻を刺す……」

「ちょっと離れて。黙ってなよ」


 熱気と共にスパイスの粉末も思い切り吸い込んだのだろう。

 涙目でむせながらも物騒な喩えを口にしようとしている千寿をシッシと釜の淵から追いやって、焦げつかないように気をつけながらもじっくり鶏肉を焼いていく。


「あ、お芋できた。千寿、お願い」

「任せよ」

「熱いから火傷注意ね!」

「我は獄卒ぞ? 案ずるな」


 ピピっと鳴ったレンジからさつまいもを取り出しながら心外そうな顔を千寿だが、芽衣は知っているのだ。レンチン後の食材たちから発せられる最も凶悪な武器は『蒸気』であることを。

 ほんの一瞬だったとしても、蒸気火傷は普通の火傷よりも皮膚の深い部分まで達してしまうことがあるため要注意なのである。


「ふむ。この程度なれば問題ない。阿鼻地獄の猛火と比べたら、赤子の吐息よりもまだ涼やかな春風程よ」

「へぇ、さすがは鬼ってとこか」


 面の皮――だけではなく、指の皮も厚いのだろうか。


「なんぞ無礼なことを考えてはいまいか?」

「いやいや、そんなそんな」


 胡乱な眼つきでこちらを睨む千寿から目を逸らし、芽衣は鶏肉ゾーンから少し離れた辺りを箸先でくるくると示した。


「お芋はこの辺にお願い」


 レンチンしたお陰で中まで柔らかくなっているさつまいもは、その分崩れやすくなっているため一旦他の食材とは別にして焼いておく。あまり焦げすぎず、だけど表面がパリッとするくらいが芽衣は好きだ。


「野菜もそろそろいいよ。ドカッと全部まとめて入れちゃってー」


 野菜は火の通りにくいものから炒めていくのがセオリーだが、面倒なので一括でいってしまおう。

 大丈夫。しのしのになって、くたくたになって、パリパリになったニラも美味しい。


「油が跳ねそうだ。少し避けよ」

「はーい」


 最初の頃とは違い、日々鉄板料理に向き合ってきたからだろう。いつの間にかこんな気配りもできるようになった千寿は、やはりジェントルな鬼である。


「せいっ!」


 切って水洗いした野菜をそのままドサッと入れておいた大きなザルを、千寿が掛け声とともに勢いよく鉄板の上で引っくり返す。

 途端にジュワワッ、バチバチッと油が躍り出した。


「いいねえ、豪快。これぞ鉄板めし!って感じ」


 油跳ねは怖いが、あまり放っておくと焦げてしまう。

 バチバチと飛んでくる油をあたふたと避けつつも手だけを伸ばし、野菜たちに油を馴染ませるように炒めていく。


「そろそろいいかな」


 油を纏った野菜たちの表面がツヤツヤ光り、しんなりしてきたら頃合いだ。菜箸からヘラへと持ち替えて、よい感じに焼けた鶏肉と野菜を一気に合流させる。


「そういえばダッカルビって、昔、韓国の春川チュンチョンってところで、豚肉が手に入らなかったから代わりに安い鶏肉を使ったのが始まりなんだって」


 芽衣は、手を動かしながら別のことを考える癖がある。とはいえ頭に浮かぶのはいつも、目の前にあるものから連想されることなのだが。


「ほう。代用品から生まれた料理か。先日のなぽりたんと同じだな」

「そうそう。安くてボリュームがあるから、学生の街で大人気になったの。でも実は、本場のダッカルビには元々チーズは入ってなかったらしいよ」


 なんでも、チーズを入れることが当たり前になったのは、ここ十数年のことらしい。


「どうしてそうなったかっていうのには大きく二つの説があるんだけど、どっちも『日本人』が深く関わってるんだよね」

「ほう?」


 興味を惹かれた様子で千寿が小首を傾げた。

 とはいえ、その視線は鉄板の上に釘付けのままであるのだが。


「ひとつは、二〇〇〇年代の初め頃。日本で韓国の恋愛ドラマがものすごく流行った時期があって、そのロケ地だった春川に日本人がたくさん観光に行ったんだって」


 そのドラマの名は、ずばり「冬のソナタ」だ。

 とある年代の方々にとっては伝説的な名作――かもしれない。


「でも、本場のタッカルビは日本人には辛すぎてね。それを見た韓国のお店のおばちゃんが、辛さを和らげるためにチーズをかけてあげたのが始まり、っていう説」


 あり得そうな話だ。


「で、もうひとつは、新大久保のコリアンタウンにあるお店が日本人の口に合うようにアレンジしてメニューに出したっていう説。こっちが二〇一七年くらいにSNSで大流行して、あっという間に日本中に『チーズダッカルビ』が定着したんだって」


 そうして韓国にも逆輸入され、今ではすっかり本場でもチーズ入りが定番になっているのだとか。

 これもまた、尤もらしい説だと思う。


「どっちにしろ流行になったのにはSNSとか、動画配信とかね、そういうのが関係してそうだよね。韓国ではさ、モッパンって言って『食べる動画』が人気なんだよね。だから視覚的に惹きつけられる、とろーっとチーズが伸びる様子がウケたんだと思う」


 韓国発祥の言葉だが、今や英語圏でも通じる「Mukbang」は、もはや一過性のブームを越えて「文化」や「定番ジャンル」として完全に定着した感がある。


 そうこうしている間に、コチュジャンの赤いタレが野菜にもしっかり絡み、グツグツと煮え滾るような音を立て始めている。

 肉にはしっかり火が通り、野菜のしんなり具合もちょうどいい。芽衣はヘラを使って、鉄板の上の具材を左右に大きく分けた。


「む? まるでモーゼの海割りのようだな」

「へえ、よく知ってるね。地獄から一番遠いところにあるみたいなストーリーなのに」

「この世には容易に手に取れる〝知〟が溢れているのでな。我とて学ぶのよ」


 そこはかとなく得意げに言う千寿だが、その視線はやはり一瞬たりとも鉄板から逸れることはない。

 が、それでいい。

 いよいよだ。いざ、黄金の川を流すとき。


「さ、本日のメインイベントを投入するよ!」


 こればかりはケチってはならないと、思い切って買ってきたチーズの大袋。ビリッと開封した芽衣は、具材を分けてぽっかりと空いた鉄板の中央の「道」へ、惜しげもなく大量のチーズをなだれ込ませた。

 鉄板の熱で、山盛りのチーズが端からとろとろと溶け出していく。

 焦がし醤油とニンニクの香ばしい匂いに、焼ける食材たちの暴力的なまでの香りが入り混じり、もうもうと湯気が立ち上る。


 ――グゥゥゥ、キュルルルル……。


「このやり取りも、もう慣れてきたけどさ」

「うむ。次はおぬしだな」


 ――ギュルル、ググゥゥッ!


「もう、あれだね。互いの腹音は、そろそろ気にしないことにしようか」

「異存ない」


 真っ赤に色づいた肉と野菜の海を分断するように流れる黄金色のチーズの川の、なんたる視覚的暴力か。

 鉄板の端で焼いていたさつまいもを引き寄せて具材の上に適当に乗せ、ふつふつとチーズが沸き立ち完全にとろけきったところでヘラを置いた芽衣は宣言した。


「よし、完成!」


 並んで立ち、二人それぞれ箸と皿を構える。


「いい? お肉や野菜をこの真ん中のチーズの川にダイブさせて、たっぷり絡めて食べるんだよ」

「承知した」

「では!」

「いざ……!」


 まずは主役の鶏肉をひとつ。箸で掴んでとろとろに溶けたチーズの中にどっぷりと沈め、くるりと絡めてから引き上げる。

 とろーぉり。

 どこまでも長く糸を引くチーズにこくりと喉を鳴らしつつ、熱々のそれを口の中に放り込んだ。


「んんんーっ!!」


 ガツンとくるコチュジャンの辛みとニンニクのパンチ。それを、まろやかで濃厚なチーズのコクがふんわりと包み込む。

 甘くて、辛くて、そしてとてつもなくミルキーだ。


「あっふぃ……けど、うんまッ!」


 隣で千寿も、カッと目を見開いて黙々と顎を動かしている。


「どう? って、聞くまでもなさそうだけど」

「なんたる美味……! 舌を刺すような鮮烈な辛味をちーずが優しくねっとりと宥めすかしてくるような、まるで厳しき責め苦の合間に与えられる一滴の甘露の如き悦び……!」

「なんだろう。物騒なんだけど、こう、ちょっといかがわしい雰囲気もあるというか」


 相変わらず喩えが妙だが、まあいい。


「お芋も食べてみて。一緒に炒めてないから辛いタレをしっかりつけて、それとチーズと、芋の甘さがもう絶妙だから」

「うむ、甘藷か。どれ」


 芋の欠片をぐりぐりと具材の中へ押し込みコチュジャンのタレを塗りたくってから、チーズの海へどぼん、と。


「はふっ、これは……! ほっくりした甘みが、また辛さを引き立てるな」


 さつまいもとチーズという禁断の組み合わせに、刺激的な甘辛いタレが絡むのだ。これが合わないわけがない。

 なにを隠そうチーズダッカルビにおいて、芽衣は肉の次に芋が好きなのである。


「あっついけどね。なんならいつも上顎ちょろっと火傷するけどね」


 それも込みで、芋は旨い。

 お次は、ちょっと焦げたキャベツと大きめの玉ねぎを肉の上に乗せて、敢えてチーズはなしで。


「うーん、これはこれで美味しいね」

「…………」


 もはや隣からの返事がないことも気にならない。

 辛さを中和するチーズが逆にアクセントになり、肉、野菜、チーズ、肉、と箸の動きが止まらない。そこに芋の甘みを挟みつつ、また肉、野菜、チーズ、肉……。


「あ、そうだ!」


 忘れていた。大事な付け合わせを。

 芽衣は冷蔵庫へと走り、買ってきたばかりのキムチを取り出した。


「む、これは赤い漬物だな」

「そ、キムチ。熱々になった口の中を冷ましつつ、こってりしたチーズの脂っこさを消してもくれる大事な箸休め」


 キャベツの甘み、鶏肉のジューシーな脂、コチュジャンの刺激、そして全てを支配する圧倒的チーズのまろやかさ。

 時おりキムチで口内をさっぱりさせれば、まさしく無限ループの完成だ。


「…………」

「…………」


 いつものことながら、美味しさを堪能するのに言葉はいらない。

 ちらりと横目で伺えば、美貌の鬼は瞬きもせず鉄板を見つめながら大口を開けて肉の塊を頬張っている。

 その眼つきは、さながら獲物を狙う猛禽のようで。

 あまりの真剣さに少しばかり面白くなったところで、とろりと糸引くチーズがつぅと、彼の口の端から滴った。


 ほんの一瞬のことだった。

 ひたと前を見据えた美しい横顔の、尖った顎にひたりと一筋。

 貼りついた銀糸を真っ赤な舌が手繰り寄せ、ちゅるりと唇の隙間へと消えていく。


 ごくり、と。


「むぐ……っ、げっほ、ごっほ……ごほっ」


 思わず大きな芋の欠片を丸のまま呑み込んで、芽衣は盛大に咽た。


「…………」

「…………」


 無言のうちに差し出されたペットボトルの水で慌てて芋の欠片を飲み下し、こちらを見つめて頷く千寿に同じく無言の頷きを返す。

 あちらはあちらで、肉の塊を頬張っているせいで声が出せないのだ。


「…………」

「…………」


 再びのアイコンタクトの末、気を取り直して箸を取った芽衣は少し焦げてカリカリになったチーズを鉄板から引き剥がして齧った。これもまた香ばしくて旨いのだ。

 食事中はもう余計なことは考えまい。

 それからは無心で口の中に溢れる熱と刺激と旨味の饗宴に集中した。


 もぐもぐ、ショリショリ、ほくほく、シャキシャキ。

 瞬く間に山盛りの料理が消えていくのは、健啖な鬼の所業によるところが大きい。おかげで、ひとりで黙々と食むよりもよほどこちらも食が進む。

 鉄板にこびりついてパリパリになったチーズのお焦げを半分こして最後にパリッと齧り、示し合わせたように箸と皿を置いたふたりはごろりと床の上に転がった。


「あー、食べたー」

「まさしく、食い尽くしたな」


 満腹である。

 心地よく満たされた気分で見上げた壁に跳ねた油とコチュジャンのシミを見つけたが、ひとまず今は見なかったことにしておく。


「そう言えば、韓国で使われてる文字はハングルっていうんだけどさ。これ、実は世界で最も論理的で『誰が・いつ・どうやって作ったか』が明確にわかっている珍しい文字なんだって」

「ほう?」

「十五世紀の王様が、学者たちに一から作らせた文字なんだって。だからものすごく合理的にできてるらしいよ」


 ハングルは「子音+母音」または「子音+母音+子音」を、ひとつの四角いブロックの中にパズルのように組み立てていく。

 数日あれば誰でも覚えられると言われるほど合理的に作られているのだが、朝鮮王朝、第四代国王・世宗セジョン大王によって『民衆が簡単に読み書きできるように』との命で考案されたのだという。


「民を想って、王自らが学者に知恵を絞らせたか。なんと慈悲深く、立派な王よ」


 どうやら〝王〟というキーワードが千寿の何かを刺激したらしい。

 珍しく感心した声を上げた。


「そんなもん?」

「如何にも。大王様ならば、地獄の亡者たちのために新たな文字を作るよりも『手っ取り早く金棒で分からせてやれ』と仰るであろうよ」

「閻魔大王が統べるのは地獄だからね、仕方ない気もするわ」


 ちなみに、チーズダッカルビは『치즈닭갈비』と書く。『치즈』がチーズで、『닭갈비』がダッカルビ。鶏を意味する『ダッ』の部分は『닭』である。

 ハングルの「ハン(韓)」は、大韓民国の「韓」でもあり、「偉大な」という意味を持っているため、北朝鮮ではこの文字のことを「ハングル」とは呼ばず「チョソングル(朝鮮文字)」と呼んでいるのだとか。


「文字といえば、芽衣よ。おぬし、氏持ちか?」

「氏? 苗字のこと? もちろんあるよ。ここは現代日本だからね、昔とは違うんだよ」

「なんと申す?」

「風祭だけど」

「ふむ? それは真の名か?」

「ん? どういうこと?」


 ゴロンと寝返りを打ちながら聞き返すと、千寿がしげしげとこちらを見つめていた。

 芽衣を見ているようで、見ていない。なんとも不思議な眼つきを訝しく思ったが、次の言葉で意味がわかった。


「どうもその名はおぬしの魂の形と合っていないように思われる。生まれ持った氏ではなかろう?」

「ああ、そういうことか。うん、まあ訳あって。旧姓は玻璃間だよ」


 離婚してもう随分経つのだが、仕事上のペンネームや諸々の手続きの都合で未だに元夫の姓をそのまま名乗っているのだ。


「玻璃間……なるほどな」


 千寿は納得した様子で深く頷いた。


「我がここへ落ちた理由が、いくらかわかった気がする」

「えっ、どういうこと?」


 思いがけぬ発言に、芽衣は思わず上体を起こした。


「玻璃、というのは鏡のことよ。硝子や水晶を意味する古い言葉だ」

「あ、待って。鏡?」

「なんぞ?」


 我知らず、芽衣の眉間に小さく皺が寄った。


「字違いだけどさ、うち、お母さんの旧姓が加賀見っていうんだよね」

「ほう、それはなんとも面妖な。しかし、おぬしの背負う氏は、その組み合わせが正しいのだろうよ」


 なにやら千寿はひとり勝手に合点しているが、芽衣は混乱しきりだ。

 オカルトめいた話すぎて、いまひとつ上手く理解できない。


「玻璃間に、加賀見。おぬしの血筋は、地獄と縁深い『真実を映す器』の要素を二重に持っておる。或いはそれに引き寄せられるようにして、我らはおぬしの元へと落ちてきたのかもしれぬな」

「えぇぇぇぇ……」

「なにしろ玻璃の鏡――いや〝浄玻璃鏡〟とは大王様の宝物ぞ。亡者の生前の罪や真実を一切誤りなく映し出す、恐ろしき鏡のことよ」

「じょうはりの、かがみ……」


 なんとなくぞっとして、芽衣はそっと背後の釜を見上げた。

 いつも通り鈍く黒光りする釜の表面。だがその底の淀んだ影の中に、ほんの刹那――。


 ――グオォォォ……。


 苦悶に顔を歪めた無数の亡者の顔が、浮かび上がったような気がした。


「ヒッ……!」


 思わず短い悲鳴を上げて後退った、その時だ。

 ガチャッと玄関のドアが開いた。


「芽衣ちゃーん、入るわよー。あのね、何度も言うけど、鍵開けっぱなしは危ないから駄目よ。ここは田舎じゃないんだから。でね、お父さんから実家のお米預かったから持ってき、た……の……」


 そういえば、鍵をかけた記憶がない。

 しまったと思ったときには既に遅く、遠慮なくドアを開けて入ってきたのは、一階で大家をしているお喋りな叔母だった。

 玄関の土間から、引き戸のないダイニングキッチン。そして部屋の大部分を占拠する謎の巨大な黒鉄釜と、その傍らでくつろぐ時代錯誤な和装の、角の生えた美男子と。全てが一直線に叔母の視界に飛び込んだことだろう。


「…………あらまぁ」


 ぽかんと口を開けた叔母の手から、ズドン、と米袋が床に落ちた。

 大きさからして、おそらく十キロ。


「あちゃー……」


 終わった。よりによって一番誤魔化しのきかない親戚に、奇妙な同居人の姿がバレてしまった。

 頭を抱え床に突っ伏した芽衣の耳に、叔母の小さな呟きがぽつりと落ちた。


「やだ、イケメン」



 ~参話・終~

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